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思い出17 ガスクロマトグラフィーカラムの開発

自分史を作り始めて、これまでの6か月は、周囲の状況やお世話になった人々に焦点を当て、自分中心の出来事が思い出しやすかったように感じます。書きながら、さまざまな出来事を思い出し、楽しい時間を過ごしました。

しかし、就職後は状況が異なり、会社の歴史、家族の歴史、そして自分自身の歴史が交差するため、簡単な年表がないと整理が難しいと感じました。
以下に、主な年表をまとめてみました。

1968年: ガスクロマトグラフィ関連事業として、M社長がG社を設立。
     新宿の貸しビルに本社兼工場を設置。

1971年:所沢工場を新築し、(寮のあった場所)、新宿の貸しビルから工場を移転。

1975年:武蔵工場を新築し、所沢工場から移転。

1979年:23歳  武蔵工場開発部に入社
    ガスクロマトグラフ充填剤の開発に携わる。

1980年:新宿に新しく本社社屋落成

1984年:28歳   結婚、長女誕生、中古住宅を購入。
  製造部でガスクロマトグラフ充填剤の製造および客先フォローに従事。

1986年:福島に工場を新築し、武蔵工場の一部が移転。
    30歳 2人目 次女誕生
    福島工場立ち上げで、福島に、3月から5月出向
    武蔵工場 カスタマサポート に異動
         11月 開発部に戻り HPLC充填剤の開発スタート

1987年:HPLC充填剤 C18-2 発売。
    以後 1991年まで、毎年1種新製品追加。

1988年:HPLCカラムの売り上げが大きくなり、
    社名が合わなくなり社名変更

1989年:福島工場が増設され、メイン工場になる。
    33歳 3人目 長男 誕生
    武蔵工場 開発部 係長になり、初めて役付きとなる。 
    HPLC充填剤の開発に従事。 

1989年:福島工場が増設され、メイン工場になる。
    武蔵工場 開発部 係長になり、初めて役付きとなる。 
    HPLC充填剤の開発に従事。 

1991年:35歳 3人目 長男 誕生

1993年:新規のHPLC充填剤C18-3の開発がスタート。

1994年: 38歳 武蔵工場 開発部 課長代理に昇進。 
   プレイングマネジャーとして、HPLC充填剤開発 および 管理。

1995年:新宿再開発事業により等価交換で、高層ビルに 本社移転。
    店頭上場。
    新HPLC充填剤 C18-3 発売開始 
    2003年まで3シリーズを毎年1種 追加発売。

1996年:39歳 親の借金を返済するために。会社から1300万円借り入れ。
    2002年に完済。

1997年:41歳  武蔵工場 開発部 課長昇進
    プレイングマネジャーであるが管理が主体になる 
    HPLC充填剤 開発従事 学会活動
    GCフューズドキャピラリーの開発スタート 管理主体

2001年:武蔵工場隣接地に 総合技術センターを新築。
    45歳 長女高2 次女中3 長男小5
    福島工場に、開発分室を設立するため、単身赴任。
    HPLC充填剤 管理、学会活動。
    GCフューズドキャピラリー 管理。
    前処理カラム 自社化開発スタート。
    モノリスカラムの開発スタート。
    
2002年:実家の玩具店が消失。 
    純国産GCフューズドキャピラリーカラム 発売開始
    純国産前処理カラム 発売開始

2003年:総合技術センター 開発部 に戻る。  
    従来の消耗品開発は、福島分室。
    新規検討は、武蔵開発。
    の2拠点になる。
    新規バイオ関連製品の検討スタート 
    日本発 新技術モノリスを用いた消耗品の発売開始
    前処理用スピンカラム、HPLCモノリスカラム     
    
2005年:東京証券取引所市場 第二部に上場。
    米国に営業所設立  輸出が活発化。
    48歳 長女結婚 初孫 
       次女大2 長男中3 引きこもり

2006年:49歳 総合技術センター 開発部 次長に昇進。
    全体の進捗管理などに専念するようになる。
    新しい柱として、バイオ関連製品の立ち上げに携わる。

2008 年:51歳 長女 次男出産 2人目の孫 
        次女就職

2010年:53歳 母76歳で永眠 
       長女 3男出産 3人目の孫

2011年:54歳 次女25歳 結婚

2012年:55歳 総合技術センター 開発部 部長に昇進
       父82歳で永眠
       次女 長男出産 4人目の孫

2013年:総合技術センター 開発棟が新設
 
2014年:57歳 次女 次男出産 5人目の孫 全員男子 

2015年:58歳 役職定年し、スペシャリストに変更。
    管理職から外れる。
    DNAや環境に特化した前処理品の開発に従事。  

2016年:11月 60歳 定年 。
    契約社員として再雇用。

2021年:11月 65歳 契約社員終了。
    パートとして採用 年金受給開始。
    紗倉まなさん推し活動を始めて、第2人生を楽しみ、
    定年うつを克服。

2023年:6月 パート社員解約。
    44年間の会社員生活を卒業。
    紗倉まなさんのNOTEに感化されて、終活に向けて、
    自分史をNOTEに纏め始める。

2024年:自分史と紗倉さん推し活動を終了することになるでしょうか?
    
K叔父さんに紹介され、1年は辞めるなと言われてG社に入社したが、結果的にG社で44年間もの間勤め上げることになりました。
最初の3年間は製造に従事し、その後半年間はカスタマーサポートに配属されましたが、残りの40年以上は開発に携わりました。
クロマトグラフィは、混合物をカラムの中を移動させながら、成分ごとに分離する技術です。移動させる方法には気体と液体の2種類があり、気体の場合はガスクロマトグラフィー、液体の場合は液体クロマトグラフィーとなります。入社当初、ガスクロマトグラフィー事業が主力でした。

ガスクロマトグラフィーでは、試料気化室で気化された化合物がキャリーガスによってガスクロマトグラフィーカラムによって分離され、検出器で電気信号に変換され、データ処理器でクロマトグラムが記録されます。
キャリヤーガスの流量やオーブン温度を調整することで、分離を調整できますが、適切なGCカラムの選択が最も重要です。

藻類の化石化によって堆積した珪藻土を固め、焼成してレンガを製造します。このレンガを砕き、篩を使って0.2mm程度の均一な大きさの珪藻土担体を得ます。そして、この珪藻土担体の表面には、化粧品に使用されるスクワランオイル、撥水剤と使われるシリコンオイルや、洗剤に使われるポリエチレングリコールなどの粘ちょう液体が均一に塗布され、GC充填剤が作られます。
この液体は固定相(液相)と呼ばれ、各メーカーが独自のGC専用液相を開発し、市場のシェアを競い合います。
入社してから5年間は、このGC充填剤の開発に携わりました。
化学合成に長けた先輩のTOさんは液体クロマトグラフィーカラムの開発を、同期の優秀なOさんは装置関連の開発評価を行っていました。
彼らは相談には応じてくれましたが、具体的なアドバイスは期待できませんでした。
ネットが無い時代で、学術誌や他社のカタログ、技術資料などを集めて自己流で開発しました。
競合他社の製品を入手し、中身を調査し、模倣することもありました。
重要なのは、競合製品と比較して優れている点を見つけ出し、それを強調して特徴ある充填剤を開発することでした。
こうした作業には多くの時間が費やされ、夜9時までの開発作業は当たり前で、時にはチラシやカタログ作成のために徹夜することもありました。
そのような事で、あっという間に時間は過ぎてしまい、夜9時までの開発作業は、普通で、チラシやカタログの作成の際には徹夜も良くありました。
Oさんは最初、車を持っていなかったため、会社に泊まり込んで夕食には缶詰や自炊をすることがよくありました。
私も時折、Oさんからお裾分けをもらう事もよくありました。
Oさんの納豆好きでしたが、私はその臭さが苦手で、納豆だけは閉口しました。
大学の卒論時代を彷彿するような不夜城状態で開発しましたが、楽しかったです。
製品が発売された際の達成感や、自分が開発に携わった製品が市場で好評を博した時の喜びは、すべての苦労を忘れさせるものでした。
開発した製品のチラシやカタログの作成、さらには同行営業までを担当し、初めての経験ばかりでしたが、一生懸命取り組んでいました。そして、あっという間の3年間でした。
3年目に入ると、仕事にも慣れ、先輩のTOさんのところに遊びに来ていた新人の高卒女性に手を出し結婚します。
5年後には、消耗品の開発が現場で行われる方向になり、私も製造現場に異動させられました。製造作業はほとんど行わず、主に開発に従事しました。
メールやチャットの普及していない時代で、お客様からの電話での問い合わせが結構ありました。
最初は他社のカタログや文献を調べてから、推奨カラムを電話で伝えることが多かったですが、慣れるとその場で答えられるようになっていました。
午前中はこの問い合わせに追われ、実際の開発は午後からスタートし、サービス残業が日常でした。
しかし、お客さんと直接話せることで新鮮味があり、楽しい時間でもありました。
この経験があったので、営業経験はありませんが、同行営業やセミナーなども対応できるようになっていました。
しかし、何故か紗倉まなさんのイベントになると、緊張してしまいます。
この新鮮な緊張感が、推し活の醍醐味となっています。
問い合わせから得られたニーズに合わして、GC充填剤を試作して、良さそうなならば製品化しました。チラシや技術資料も自分で作り、新製品として発売すると言う自分勝手な開発を楽しんでいました。
試作の段階で難しいと感じると、個人判断で諦めていたので、憂鬱になることもありませんでした。
当時は製品名も自由に付けられ、イニシャルを入れるなど、自分しかわかないように楽しんでいました。
まだ、会社規模が小さかった時代の自由な良き経験でした。
現在では、営業や企画から製品化の提案が出され、その内容を開発チームが調査し、費用や開発計画を作成し、テーマ審議会が行われます。
審議会で了承されると、開発がスタートします。
開発が完了すると、製品化に向けて品質保証や工場の関係者が参加する移管会議が開催されます。
会議で承認されると、本格的な製造が始まり、品質保証による検査が行われ、製品が完成します。
その後、カスタマーサポートセンターと企画部門がチラシや販売資料を作成し、販売計画を立てます。
予定より販売が遅れると、企画や営業部門から不満が出て、開発チームが批判されることもあります。
このように細分化されたプロセスは合理的ではありますが、企画から開発、移管、そして販売資料の作成まで、自らの責任で一連の経験を積む機会がない若手社員は可哀想だと感じます。
現場への異動後、2年後には検査会社からの血液検査用特注カラムの製造依頼がありました。この製品によって年間数千万円の売り上げが見込まれたため、後半の現場業務はその製品化と製造に重点を置くことになりました。
当然ながら、OEM品であり、一部の関係者以外には秘密裏に行われる業務でした。
今後も特注品の業務が増えていき、これは良い経験になっています。

現場への異動から5年後、福島工場の新築が決定し、メイン工場が福島に移転する事になります。
第1弾として、クロマトグラフィーカラムなどの消耗品の製造が、福島に移る事になります。
G社設立以来の初めての大異動になります。
当時、武蔵工場 現場の全員に、福島工場への異動に関するアンケートが行われています。
飲み会の席では、当時の上司だったSO課長には、福島工場に喜んで異動するような事を伝えていました。
しかし、アンケートを取った時には、裏切って、異動しないと回答しました。
SO課長は、第2代目 社長になりますが、飲んだ時には、異動すると言っても、福島に連れて行かなかったと言う話をするのは定番になっています。
実際には、福島工場に異動せず、代わりに武蔵工場に新設されたカスタマーサポートセンターの一員となりました。
担当長は同期のO係長になり、出世頭として注目されました。
Oさんは高い技術力を持ち、クロマトグラフィー業界でも名を馳せ、社内でも尊敬され、将来的には社長候補と目されていました。
しかし、部長時代に脳梗塞を患い、後遺症に苦しみ、会社を辞めざるを得なくなりました。彼の退社は非常に残念なことでした。
短い期間でしたが、カスタマーサポートセンターに所属したおかげで、営業同行やインハウスセミナーなどに参加し、営業担当者に名前を知られるようになりました。
これにより、HPLC充填剤や前処理充填剤の営業説明が容易になりました。

1980年代には、海外で折れないフューズドキャピラリーGCカラムが製品化され、1990年代には、GCキャピラリーカラム用の装置も充実しました。
これにより、GCパックドカラムからGCキャピラリーカラムが主流になっていきました。
図に示されているように、GCキャピラリーカラムは分離能が圧倒的に高く、詳細な検査が可能になりました。
ドーピング検査においても、このフューズドキャピラリーが使用されています。
ただし、当時のGCキャピラリーカラムの普及にはいくつかの課題もありました。
例えば、従来では見えなかった不純物が見えるようになり、品質基準を満たさない場合や、注入量が少なくなるためにパートタイマーが扱いにくいという問題も発生しました。
現在では、ガスクロマトグラフィーにおいては、GCキャピラリーカラムが主流となり、それに合わせて詳細な検査基準が使用されています。
微量の試料でも再現性の高い注入が可能な自動注入装置の普及や、分析技術の精度の向上など、30年前と比べて大幅な進歩があります。
1980年当時、国際特許があり、自社で製品化できなかったため、折れないGCキャピラリーカラムをオランダのC社から輸入し、総代理店として販売することになりました。
当時、国内市場を主導していたのは特許権者であるHP社でしたが、C社のキャピラリーを販売することで国内市場シェアを拡大し、お互いに表敬訪問を交わしていました。
私もオランダを訪れたことがあり、海岸沿いのリゾートホテルで歓待されました。
高速道路を1時間以上かけてベルギーまで行き、城にある有名なレストランでご馳走になりましたが、雰囲気は最高でした。
とにかく遠くて、帰りは酒も入っており、車の中で熟睡してしまった思い出があります。
料理はアメリカとは異なり、量的にちょうど良く、様々な料理があり、素材を引き立てる日本人向けの味で美味しかったです。
社員の家を訪れた際も、日本の家と同様の大きさで、親近感を感じました。
白夜の季節で、リゾートホテルが観る海岸線は幻想的だったと記憶しています。
私は英語が全く話せませんでしたが、技術的なやり取りで海外部署に同行する機会が多かったです。
もし、勉強して英語が話せれば、もっと出世できたかもしれませんが、海外出張を経験できたことは幸運でした。
そして、2002年にフューズドキャピラリーの特許が切れた際には、国産初のフューズドキャピラリーGCカラムを発売しました。
現在では、そのGCキャピラリーカラムが輸出されています。
また、GCカラムの国内シェアは、輸入品販売と合わせて60%以上になっています。
開発担当長として、GCパックドカラムやキャピラリーカラムの開発、輸出の立ち会いや事業拡大に関われたことは幸運でした。
2003年まで武蔵でクロマトグラフィー関連製品の開発を行っていましたが、開発製品の売り上げが会社の成長に貢献していく様子を目の当たりにすることは、当事者として非常に楽しい経験でした。
以上が、ガスクロマトグラフィーカラム開発にまつわる私の思い出です。

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