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マゾ的日本の家の冬

急に寒くなった。

つい先日、友達と『カフェ』とは呼べない昭和な『喫茶店』で、「なんだか暖かいね〜。」「ニュージャージーは、零度切って雪が降ってるとか言ってたけど」「ニューヨークマラソンも、もう終わったよね・・」とか、言い合っていた。わたしと彼女は日本の小さな町で生まれ、ご近所で育った幼馴染だけれど、偶然、二人ともアメリカ東北部にずっと住んでた。彼女はニュージャージー州。わたしはそのお隣のニューヨーク市。二人とも、行ったり来たり。だから、日本の片隅の小さな田舎町の喫茶店での会話でも、季節の判断基準が、アメリカ東北部。

二人で暖かい暖かいと言っていたら、急に寒くなった。すでに零度を切ったというアメリカ東北部ほどじゃなくっても、日本での10度以下はかなり厳しい。家の中が寒いからだ。

最初に日本に戻ってきたとき、冬の家の中の寒さに衝撃を受けた。外の気温がマイナス20度の世界に慣れていたので、外がゼロ度になったくらいで、寒いって言って震えてる日本の人たちを横目に「こんなに暖かいのに?」って思っていたけれど、家に入ってガタガタ震えた。ほとんどの家にセントラルヒーティングがないのだ。トイレ、お風呂、廊下が特に辛かった。家の中で長袖を着ているのが体にストレスでもあった。

ニューヨークでは、暖房設備がついてない限りは、アパートも家も人に貸し出してはいけない、という法律があるくらいで、どこもセントラルヒーティングがあるのが当たり前。(セントラルヒーティングだと建物中が暖かい。そして暖房費は家賃に含まれている。)もちろん、それは外が寒いから、暖房がないと凍死してしまうからだけれど、11月中旬になると、どこもほぼ自動的に暖房がはいる。そして、温度設定は最低でも24度。だから、みんな家の中は半袖Tシャツ。なのでわたしは、冬用の服をほとんど持っていなかった。家の中でTシャツを着て、外に出るときは、長いブーツを履き、分厚いコートをその上に羽織るのが日常だったからだ。ところが、日本の家の中では、長袖の衣服を着なくてはならない。新たにセーターなど購入することになった。家の中で重い長袖を着ることに慣れてなかったから、首や肩が凝って仕方ない。なぜ、みんな平気なんだろう、と、首をひねった。日本人はマゾか・・・と、真剣に悩んだ。いや、今でもそう思ってる。特に、トイレに行くたびにそう思う。マゾ日本人・・。

けれど、さむ〜い!!って言いながら日本家屋の冷え切った部屋でストーブに火をつけると、そこはかとなく、炎に感謝の気持ちが生まれる。NYの暖かい部屋で暖炉を焚いても、ロマンチックではあっても、感謝の気持ちはあまり生まれなかったのに。外が寒くなればなるほど、ヒーターが音を立てて自動的に温度をあげ、家の中と外の温度が40度以上違っていたNYでは、動物本能が退化しそうな、怠惰な感じだった。けれど日本では、暖かくするためにいろいろと工夫をしなくてはならないから、ちゃんと頭を使わなくちゃいけないから、生きているっていう実感がある。ぬくもりへの感謝の気持ちが生まれる。幸福や喜びを知るには、やっぱり人間って、少しくらいのストレスと試練が必要なのかも知れない。

まぁ・・もうちょっとマゾ度は低くして欲しいし、日本の人たちはイノベーティブ(発想性に富んでいる)でクリエイティブなのだから、家の中を効率的に、かつ、季節感を損なわないように暖かくする技術くらいは、すぐに開発できるはず、とは思うけど。

幅2.5キロもあるハドソン川が凍ってしまうくらいの、豪快な寒さのニューヨークの冬も好きだったけれど、ちまちました寒さの、家の中で工夫しながらの日本の冬も、だんだん好きになっている。ストーブの上の薬缶のお湯がジリジリ言いながら踊っている音も、鳥が飛んできて縁側を賑わす明るくて短い午後も、自分で焼いたパンが部屋中にかおるしんしんと更けてゆく夜も、みんな好き。

今日は、パンがよく焼けた。寒さも吹き飛んだくらい、ほっこりした。明日は、さそり座の新月。そして、これから日本の冬が本格的になる。



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