「2020.06.27」

電脳どくどく2という、ツイキャス配信のイベントに出た時の作品です。



雨が降っている。ありきたりな出だしだ。では、雨は降っていない、と始めるのはどうだろうか。ありきたりではない。新しい感じがする。しかし、雨が降っている。で、始めたいのだ。何故なら、実際に今、雨は降っていないからだ。嘘を言いたいわけではない。本当のことをいつでも言いたい。そして、雨が降っている。とは、本当の言葉だ。本当の言葉とは、実際に起こったことを話すだけではない。この場で言いたいこと、それすなわち、本当の言葉。と、する。とする、としたのは、本当という言葉が、本当なのかどうかわからないからだ。本当とか、愛とか、繋がりとか、そういう類の言葉には、嘘臭さが付きまとう。あまり使いたくない言葉だ。しかし、何だか気分が高揚したり、何とも言いようがない感情の時に、そういう類の言葉を使うことがある。そのとき、嘘臭さが抜けて、何だか本当の言葉のような感じのする代物として、目の前に現れる。言いたくないのに、吐き出してしまう、嘘くさい言葉たち。本当の言葉。雨が降っているという、事実に反した言葉は、本当の言葉として、皆様に伝わるだろうか。そんな意味がある、出だしだったのだ。
また、表現の自由を宣言した言葉でもある。表現の自由とはやや大げさではあるが、いつだって自分が発する言葉は、自由であり、誰にもその自由を制する権限はない。そのことは自分だけではない。誰にも言えることである。嘘であろうが、事実であろうが、本当の言葉であろうが、なんでもない言葉であろうが、表現の中では、自由であるべきだと私は思う。そうでなければ何も言えない。何故表現の自由を宣言したのかというと、一つにはSNSの世界への反発である。SNSという舞台においては、びくびくと言葉を選び、人を傷つけないように、自分が傷つかないように、不自由さの中で見えぬ人々と交流し、何となくつながったような感覚を得て、今日も何事もなく無事終わったと、携帯を枕元にそっと置いて眠りにつく。そして、目が覚めてすぐに携帯を持ち、何事か起きてないか安全を確認して、一日を始める。SNSの中でも居場所を求め、居場所を作り、その居場所を守ろうと、実生活でも面倒くさいのに、もう一つ面倒くさい居場所の保持に勤しむ。SNSと共に歩む人生。自分とはどこに存在しているのだろうか。
また、表現の自由を宣言した理由として、聞き手への警鐘を鳴らすためでもある。その人がどんな気持ちでどんな意味で言葉を発しているか、聞き手には到底わからないということである。まして、創作活動としての言葉ならなおさらである。わかることは、聞き手が、その言葉を聞いて感じたこと。それだけが正解である。いや、それさえも疑ったほうがいいが、いまは、正解としておこう。つまり、先ほどから私が述べている言葉は、嘘だか本当だか、私が考えていることか、考えにも及んでないことか、どうでもいいことか、それは聞き手にはわからなくて、聞き手皆さんが今、感じていること、それだけしか、本当のことではないということだ。
さて、私が、最初に「雨が降っている」と言うだけで、これだけ色々考えてしまうのは、近頃のあれのせいで、一人で考えることが多くなり、頭でっかちになりつつあるからだ。ああだこうだと考えて、何もしない。何もするなと言われてるから、何もしてなかったが、何かしようとすれば何かはできたわけだ。怠惰、堕落が生活を蝕み、仕事と家庭の二つのみ。自分から芝居を取ったら何が残るんだという生活を実体験として味わい、魂がすり減って、自分という存在を見つめなおすきっかけにはなったが、どれだけ掘り起こしても、自分が見えてこない。ただ、理屈を積み重ねて、毎日、朝刊を読みながら、動き出すきっかけを探していた。誰かのきっかけで動いていた私の周りに誰もいなければ、動き出すきっかけもなく、もっと言えば、自分という存在さえ怪しいということが分かった。
私は、これまでの人生で、壁にぶつかることが多々あった。その都度、自問自答をしてきた。それによって、複雑なことが単純になる。想像を超えた世界が待っていたこともあった。自分の頭の中を整理整頓すること。脳内を国語でなく、数学化して解く。これは、かなり効果がある。だが、私の場合は、自問自答して、より複雑化して、もう嫌になり、何か真実めいた言葉に出会い、それですっきりしてきた。
何はともあれ、自問自答してみよう。それを表現として公開してみよう。表現は自由というなら、それぐらいはしてみよう。

自分はいない。なら、目の前にある腹と股間と太ももと膝とそこから先は何なのだ。私の体だ。確かに体だ。いや本当に体か。目の前にあるからと言って、それは本当だと言えるのだろうか。見えたものは真実か。何故、目を信じる。人間の五感において、味や匂いや音より、見たものを信じる癖がないか。五感の中で何を信じる。第六感か。確かにそっちのほうを信じたい気持ちはわかる。五感の中でと言ったのに第六感を信じる感覚はとてもわかる。とてもわかるって、自分の感覚に、とてもわかるって、どういうことだ。自分の感覚なんだから、とてもわかるじゃなくて、そう感じるだろう。何で、自分を他人として見るのだ。自問自答しているからだ。いやそれでは、自問他答か、他問自答だろう。しかし、自分の口が問うて答えているのだから、自問自答なのか。そもそも何のために、自問自答しているのだ。理由はわからない。自分は存在するかどうかという問いに答えるためだった。しかし、そんな問いに答える意欲が毛頭ない。なかったのだ。とにかく自問自答したかったのだ。では、一番初めの命題である、自分は存在するかに答えなくていいのであれば、私は何を目指して自問自答していけばいいのだ。次は、その答えを求めて自問自答していこう。つまり、自分は今何をしているのだということだ。話している。なぜ話す。電脳どくどく2に、出ているからだ。なぜ出るのだ。誘われたからだ。やりたかったのか。やりたかったわけではない。そもそもこのようなライブがあることすら知らなかった。じゃあ、なぜ出たのか。きっかけが欲しかったのだ。自分が表現する場が欲しかったのだ。自分の言葉で自分を表現したかったのだ。何のために。自分を認めてもらいたかったのだ。この世に生まれてきた意味を、周りの人間に認めてもらうことによって証明させようという自分のエゴだ。
エゴ。また出たか。お前のエゴイズムが。お前の利己で、どれだけ周りに迷惑をかけるのだ。迷惑って何だ。人は生きていれば誰かしらに迷惑をかける生き物だ。誰が決めた。お前は冒頭から、表現の自由をとか言って怖いのだろう。自由を求めていながら、自由になることが怖いのだろう。そんなことはない。利己ではない。今は、利他の時代だ。周りのために。自分の大事な人のために。違う。少なくともお前は自分のためだけにしか生きていけない人間だ。何が他人のためだ。こんな世の中になって、自分の安全だけを考えていただろう。自分のことだけを考えていただろう。感染者が身近でたくさん出てきて、人がどんどん死んで。偽善者になって、世界のことを考えているふりをして、大して考えもせずに、毎晩酒を飲んで、自堕落な生活に甘んじていただけだ。そんなことはない。俺は、みんなのことを考えていた。いつでも、悲しさを感じ取っていたんだ。一番強いと思っていたプロレスラーが死んだときも、黒人の心の奥底からの魂の叫びも、俺はとても苦しかった。それを感じ取ったんだ。それで、なにをした。感じ取って何をした、お前は。感じて、悲しかった、酒を飲んで、今日も終わりました、おやすみって寝てただけだ。何も動いていない。発してもいない。何なんだお前は。何なんだと言われても俺は、俺だ。お前はお前なのか。そうだ。俺は、俺、なのか。存在を認められていない俺は俺ではないのか。みんなが周りにいないと俺は俺ではないのか。違う。違う。俺は。俺は。
あれ、みんなどこ行ったんだ。
おおい。おおおい。俺は一人なのか。一人で何をしてるんだ。

いや、けど、本当に一人なのか。違うな。俺は、一人じゃない、気がする。多分、一人じゃない。
何故なら、ここで、想いを言葉にして、誰かに伝えている。誰かに伝えているということは、誰かがいるということだ。一人にはなりたくない。一人ではないことを、孤独ではないことを証明するために、表現をしていこう。そうしよう。
表現は自由だ。
そして、外は、雨が降っている。

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