敢えて言おう「専制は悪ではない」とー民主の中に専制が潜み、専制の中に民主が潜むとー

       目黒真実(元日本語教師/肺洗顔ステージ4bにて在宅療養中)

 「民主か専制か」というけれど、少し考えてもらいたいことがある。民主と専制は、人類の歴史を見ると、ギリシアの昔から交互に入れ替わり立ち代りしながら、同じ社会の中で起こってきた。民主が衆愚政治に堕した時、賢人政治や英雄待望が生まれ、そして専制が生まれた。逆に専制が行き過ぎると、そこに民主への揺り戻しが起こりと、民主と専制は互いに交替しながら社会は変遷し、進歩してきたと言えるからだ。

 例えば、フランス革命(1789)が王制国家の対仏大同盟軍に包囲され窮地に立たされた時、義勇軍を指揮して対仏大同盟軍を打ち破り、パリに戻ったフランス革命の救世主ナポレオンは、混迷し迷走し無力をさらけ出した議会に解散を命じて、自ら皇帝となった。ナポレオン専制である。その後、ナポレオンによってフランス革命は欧州に広がっていった。これをどう評価するか、それほど簡単な問題ではない。そしてそこから生まれた欧州民主主義があり、その中からファシズムは生まれた。専制と民主を永遠に対立する平行線として見るのでなく、人間社会の矛盾する両側面として弁証法的に考える方が歴史の真実に立っている。そしてその方が、はるかに有益な教訓を歴史から学ぶことになると思う。民主の中に専制が潜み、専制の中に民主が潜んでいるのだと。

 こうした世界史を見るまでもなく、明治維新から天皇制独裁国家を経て、敗戦から今日の民主制に至ったように、「専制から民主へ」の交替劇は私たち自身も経験している。戦後に遅れて資本主義の道を歩んだ旧植民地諸国(韓国、台湾、フィリピン、タイ・・・そして中国etc)が開発独裁の道をたどったように、「欧米に追いつけ追い越せ」と「殖産興業・脱亜入欧」を掲げた明治期の日本は、まさにそれらの国々に先駆ける開発独裁の一形態であったと見ることもできる。「改革開放」政策を掲げて、その後40年で世界第二の経済大国に至った中国もまた然りであろう。途上国の視点から人類史を見たとき、「専制=悪」「民主=善」と簡単に分けられるものでないことを、私たちは知っておくべきだと思う。豊かな先進国の民主主義が植民地諸国の収奪の上に成り立っていたこと、欧米の民主主義は植民地世界の人々にとっては専制そのものであったことを忘れてはならないと思う。そして現代にあっても、先進国から見る世界と、旧植民地諸国である途上国から見る世界は異なって見えていることを忘れてはならないと思う。

 では、現代の(欧米型)民主は(中国型)専制より優っているか、これまた簡単に言えることではないだろう。その前に考えたほうがいいかもしれない。果たしてこの「民主」国家日本でほんとうに人権は守られているのだろうかと。6人に1人が年収127万円にも達しない貧困層であり、7人に1人の子どもが貧困のため進学を断念しなければならないという日本社会の現実を前に、人権の中の人権といってもいい生存権は守られてきたと言えるのか、教育の機会均等はあると言えるのかと。拡大する格差と貧困問題を筆頭に、男女差別、在日朝鮮人や外国人労働者などのマイノリティーに対する差別、過労死労働を強制するような職場の専制、「表現の不自由展」で露呈した日本の表現や言論の自由の実態、コロナ禍で野党の国会開催要求を拒否し続けたこの国の民主主義の現実、これらは優れて日本が抱える人権問題ではないのだろうか。

 成長第一主義から共同富裕政策に舵を切った中国が、国内の格差と貧困の問題を是正し、ホームレスのいない社会を築くとしたら、(欧米型)民主は(中国型)専制より劣っているということにならないのだろうか。少なくとも途上国の多くは、中国の歩んだ道に倣うだろうことは明らかだと思う。格差と貧困問題は優れて人権問題、生存権に関わることであり、言論の自由と生存権のどちらが優先されるべきか、簡単に答えが出せるものではないだろう。しかし、多くの途上国は、今、そのようなジレンマを抱えていると思う。また共同富裕の道を進む中国が、開発独裁を脱した先に、どのような政治的進化を遂げるか誰も知らない。何れにせよ、それは中国国民が決めることになるだろう。私たちが「民主か専制か」といった問題を語る際、何よりも忘れてはならないことがある。それは、その国の政治体制の優劣を決めるのは、どこかの国ではなく、その国の国民だということだ。今の日本では、この一番肝心なことが忘れられている。

 確かに私も、中国政府の少数民族に対する同和政策には承服できないものがある。いかなる政治体制のもとであれ、仮にそれがイスラム過激派の勢力浸透を防ぐ目的であったにせよ、少数民族の自決権は尊重されなければならないと考えるからだ。それは明治政府がアイヌ民族や、琉球処分以来の沖縄の民ウチナンチュに対して行った同化政策、また、台湾や朝鮮半島などの植民地で行った創氏改名などの同化政策への反省があるからだ。しかし、その負の遺産は形を変えて今も厳然として日本に残っているではないか。例えば沖縄。戦時中に統軍参謀本部長が発した「沖縄は本土防衛のためにある」という言葉は、当時の軍部の本音、いや国民の多くが沖縄をどう見ていたかを露骨に表している。そして帝国陸軍はウチナンチュを見捨て、県民の三分の一の命を奪う沖縄戦に至ったという歴史がある。それなのに、今も変わらず、日本の米軍基地の三分の二を沖縄に押し付け、今日に至っている。これは琉球処分以来続くウチナンチュに対する差別、人権抑圧ではないのか。なぜに自国の現実から目をそらすのか。少なくとも、ウイグルに対して行われていることをジェノサイド(民族虐殺)と呼ぶのは間違っている。米人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウオッチも、アムネスティ・インターナショナルも、それをジェノサイドと認定していないことを、私たちは知っておくべきだろう。

 反中・嫌中感情が支配的になっている日本社会の現状を見たとき、私はかえって日本が専制に向かう危うさを感じてしまう。そこにあの安倍元総理の「台湾の有事は日本の有事、すなわち日米同盟の有事」という発言だ。台湾の防衛がどうして日本の防衛になるのか、台湾の防衛のために日本人に血を流せというのか。今この国で、中国に好意的な発言をすると、「反日主義」だの「国賊」だのと非難が殺到することと思う。しかし、そのような「反中・挙国一致」が行き着く先はどのような国の姿なのだろうか。

 考えてもみてほしい。もし宇宙人が地球を攻めてくるとなったら、民主か専制か、そんなことを問わずに人類として結束して戦うのではないだろうか。私たち人類は、今、地球温暖化という大きな敵を前にしている。そんな時に「民主か専制か」、その優劣を競うことにどれほどの意味があるのだろうか。ましてそんなことのために軍拡戦争を繰り広げ、人類の資源と富を浪費することにどれほどの意味があるというのだろうか。「民主か専制か」と対立を煽って、誰が喜び、誰が得をしているのか、冷静に考えたほうがいいと思う。民主の中に専制が潜み、専制の中に民主が潜んでいる。そして、現在ある民主も専制も全て変化の一過程に過ぎない。

 私たちは、今進行する米中の覇権争いのどちらかに加担するべきではない。今、私たちに問われているのは、日中がお互いの体制の違いを認め合って正しく平和共存することではないかと思う。「民主か専制か」を、敵対矛盾としてではなく、人類の内部矛盾として考え、「共に生きる」世界と国際平和を追求するのが、日本国憲法が私たちに示している道ではないだろうか。

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