日本の15歳
日本の15歳というトレンドを見ると、家が本だらけだったわしは物心つく頃から本を読み飛ばし、15歳では小説みたいなもんを書いておった。ある程度は国語力も環境で身に付く。自由記述が苦手というのは文章をそんなに普段で書く場面が少ないんやろう。
日本の15歳でも思うんやが、本を読まないと馬鹿になるかというと読み過ぎてもボケになる。考えてごらんよ小学生で横溝正史にゴルゴ13に西遊記だよわし。街道に昔大名が参勤交代の旅路で泊まる旅館を本陣と呼ぶと横溝正史の本陣殺人事件で知ったしモザンビークっていう国をわしはゴルゴ13の地獄への回廊で読んで知ったし、玄奘という僧侶が登場する話を西遊記で読んで知った。読んだ西遊記は平凡社の全書である。小学生は本を読む時間より外で釣りとかする時間が多い方がええってば。15歳でそういう野外を一通りやってて本読んでると国語教育は自学で可能。
日本の15歳はだいたいは自分で学んでいるすごくお出来になるタイプか全然お出来にならないあほのこタイプの両極端なんやろう。今年15歳で皇室行事で堂々のスピーチの芦田愛菜というのもおるんでな。あの人も日本の15歳でしょ。
日本の15歳で問題なのは貧困により教育の機会均等が奪われて学習が足りていないことまで自己責任にしようとすることで、国語教育というものに限らず義務教育の9年のうちの最初の6年で一通り叩きこめればいいわけで、それはある程度は当然スパルタになる。言語の習得などまさにスパルタ教育になる。
日本の15歳の算数能力が国語教育が不備で低いというのは、単に小学校教諭の水準がメタメタに低いのにそれを信頼して教わろうとするからで、学力は自分で学んで身に付けるものである。興味があれば自分で勝手に本を読む。遠い海から来たクーでは恐竜の本をボロボロになるまで読む少年が描かれている。
日本の15歳に学校の教師の中には俳句を詠ませようとするのがいるが、俳句などを詠むというのは人からしなさいと言われてするようなものではない。自由記述というのは自分の意思で感情や考えを述べることができるかということである。何も材料もないのに料理は作れないように書くには読んでねば無理。
学校教育に根本的欠陥があるのにその欠陥を自己責任に帰して、教育の機会均等まで奪っておいて日本の15歳の学力が低いのは本人のせいばかりではなく日本社会の責任がかなり大きい。学ぶことに興味付けと意味付けがあることは15歳ならかなり出来るようになっている。
小説など日本社会の大多数が馬鹿にしているじゃないの。読まないでしょ。そらあ自由記述なんか書ける訳がない。
読解力の水準が下がっているのであるから、いよいよ小説を読んで楽しめない人間が増えるということである。