女人禁制の本当の理由

相撲の土俵に女人禁制の理由をご存知か。酒造りとおんなじ理由のタブーでな。産穢、月穢と言うたのだよ。そういうの日本書紀にある相撲は土俵で取られた形跡がないので割と後付け権威ですねんで。時代の変化で変えてええものですわこれは。
女性は穢れというのは随分今の時代にそぐわない。土俵に女人禁制というのはいい加減やめた方がいい。相撲はだから男が威張るよすがであって、本当の男は威張ったりせぬ男である。土俵に女人禁制など器が小さい仕組みである。
夏子の酒で描かれておったが酒の杜氏も女人禁制であった昔。穢れ思想が理由である。今酒蔵でそんなこと言いますか?相撲も変わらないと。
大峰山は女人禁制で、それも昔から違和感があった。女性を締め出す宗教施設というのはたしかに沢山世界中にあるが、それが器の小さい男を威張らせる。
本当の男は決して威張らない。女人禁制にしとく理由は明らかに時代とともに理由そのものがなくなって禁制だけが残っている。地球にも知的生命体がいないとホーキング博士は言っていたが本当にその通り。
出産が穢れでしょうか。月経が穢れでしょうか。わしは違うと思う。穢れ思想というのは歴史の中に沈めてそこから自由になった方が人間の明日のためやと思う。

追記 2018年4月5日
舞鶴場所での模様を写した動画を見ると初期救助に女性医師が土俵に上がって行ったことであって、心肺蘇生や意識失っている様子なら土俵から市長を動かすことは難しかったであろうから、女性は土俵から下りてとアナウンスするような状況ではない。
相撲は宗教だから人権は制限されるということを言う人間も居たが、時代の変化で権威付けされたことは時代の変化とともに変質する事柄である。

男女相撲の禁止令というのが明治に出されるまで、男女で入り乱れて相撲を取ったとか、女相撲があったとか、近世以前は男尊女卑ではない、明治になって男尊女卑が強化されたという学説は存在している。
神道自体が中世に様式が確立するのであるが、穢れを祓うという発想は古事記にイザナギノミコトが御祓をするという記述があって、医学が進展していなかった時代に女性の特性が穢れと結びつき、明治に男尊女卑が強化されるにともない相撲にもその発想が導入されたのであって、後付けの歴史の浅い権威であるわけで、それが今の時代に残存していると見た方がよい。
災厄を祓うのに塩撒きを行うのであるが、相撲は果たして歴史的にみても神事なのであろうか。
その辺りの厳密な哲学や習俗はあまり存在せず、国技館の土俵はエレベータ式で、土俵をし舞い込んで女性アイドルや女性声優のイベントに貸し出すことをしているというので、なお一層土俵に女人禁制ということ自体に一貫性も明確な基準もどうやら存在せず、単に土俵に女性が上がったら降りろということだけが存在しているらしい。
太田房江元大阪府知事が春場所で土俵に上がろうとして拒まれたことがかつてあったが、ことさほどにきちんとした蓋然性がない状態で相撲の土俵の女人禁制の禁制だけが明治に出来てそのままになっているに過ぎない。
それに現代でも女子相撲は存在する。

追記 2018年4月6日
日本書紀に記述のある相撲は女相撲であったのであるし、神道の神事で行われる奉納相撲というものもあることはある。
神道で神事を男性に限るものが多い理由として一般に理解されている女性の特性による穢れ思想というものから明治以降特に男尊女卑が強化されたことがあって、一部の祭礼の奉納物の奉納者を男性に限るという祭礼は存在しており、百舌鳥八幡宮のふとん太鼓なども女性が太鼓を担いではならないという禁制がある。
大相撲が神事と扱われて男性のみで行うという慣例になったのも明治以降であって、神道も明治時代にそれまでの様式が幾つか変更されて国家神道へとなってゆき、そもそも主祭神のアマテラスオオミカミは女性神なのだが、なぜか習俗としてより宗教的側面から大相撲は女性を一貫して排除してきた。
神道では災厄を祓う時に用いるものは酒と塩と水である。道具としては紙と鏡と玉と剣である。
相撲で塩を土俵に撒くのは災厄祓いであって災難が土俵であると大量に土俵に塩を撒く。
災厄を祓うのに水浴びをするということの文献で確認される古事記によるとイザナギノミコトが黄泉の国から戻った時に川で体を洗い、そのときにアマテラスオオミカミは生まれている。
習俗の歴史に医学的認識よりも呪術的認識の方が強いために女性が出血することを穢れという発想で捉えて、そのもともとの理由が消失して相撲や神事で女性を忌避する様態だけが残存して今でさえその名残が顔を出す。
土俵に女性が上がってはならぬということは時々女性首長が地方巡業の挨拶で土俵に上がることを拒まれてきている。それも堺市の大浜相撲場では何度か女子相撲がおこなわれていることからみて蓋然性もなにもない。
相撲で土俵に女性を上げないということが歴史的にみても二重基準と言われても仕方がない。

追記 2018年4月6日18:18
山岳の女人禁制も富士山では今はないが、山岳の神は女性であるので女性を入山させると怒りを買うという理由を付けて山岳の道路工事に女性を排除してきた経緯もあり、山岳信仰では女性が入山できるところはここまでであるという女人域が設定されてあって、高野山も女人高野が設けられていた。大峰山のように今でも女人禁制の山もあることはある。
清酒の醸造では神道で清めに使うものであったことと酒造りには造る人間の体温が関係したので、女性は男性より体温が高いため杜氏には難しいとされてきた。
それらも時代の変化に伴い女人禁制は解かれてきており、今の世の中で相撲や大峰山が女人禁制ということの説得力を持たせる行動もなしに存続は困難である。世界的にも男尊女卑の著しいサウジアラビアでさえ女性の社会進出を容認してきており、日本の相撲や神道が閉鎖的で女人禁制を行う蓋然性が説明できないなら女性に解放した方がいい時代が来たということではなかろうか。
日本という国は歴史的に揉め事が起きて二度の戦乱を女王を頂いて平和を勝ち得た国であることは魏書東夷伝倭国に記述もある。組織体を運営する時に日本の組織体は割合と女性に責任者を据えてマネジメントを行うので公正公平で教養のある女性を据えて相撲協会も運営した方がいいかもしれない。

追記 2018年4月7日
相撲における「女人禁制の伝統」について
吉崎祥司・稲野一彦
北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第29巻第1号 2008年8月
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/933
相撲の女人禁制に関して社会学的観点からの批判的研究がある。事実の把握には適当な研究である。

追記 2018年4月8日
昭和30年代の女大関が土俵の上に上がって挨拶することを求められて挨拶した写真が出てきた。
土俵の女人禁制とは一体どういう基準でいつ頃からのものか。
女性で土俵に上がりたいと言う人間には女人禁制を口実に拒み、一方で女相撲の力士には土俵に上がってと求めるという、それはすでに女人禁制ではなく、相撲関係者以外は土俵から排除するという縄張り意識であって、女人禁制を口実にすることはもうやめて関係者以外立ち入り禁止とすればどうだろう。