富雄丸山古墳の王

4世紀後半の築造と推定される富雄丸山古墳から64cmの鼉⿓⽂盾形銅鏡と237cmの蛇行剣とが出土した。
遺物からみて富雄丸山古墳の被葬者は王クラスと判明した。
富雄丸山古墳の近くには富雄川という川があり、添御県坐神社という神社が上流の三碓町にある。
町名はみつがらすと読み、八咫烏のことかと思ったが、添御県坐神社の祭神は建速須佐ノ男命と武乳速之命と櫛稲田姫之命で、武乳速之命には一説で長髄彦ではないかという説があり、富雄川中域を治めていたのが長髄彦である。
長髄彦は日本書紀では神武天皇と戦い敗れた首長として登場する。
富雄丸山古墳の被葬者はこの長髄彦ではなかろうか。
神武東征が実際にあったのは4世紀後半で戦いに敗れた長髄彦を葬るのに富雄丸山古墳が築造されて印として鼉⿓⽂盾形銅鏡と蛇行剣が副葬されたのではなかろうか。
仮説として提示しておく。