敬語

日本語の他にいくつかの言語には敬語という言語表現がある。
召し上がるという表現は謙譲語で、召されてあがるという。尊敬語で言うなら召されるである。
お召し上がりになられますかというのは一見敬語のように見えて、そらちがいますとなっているが、お召しになりますか、であろう。
敬語のある社会というのは身分制度のある社会で、階層の上の人に対して自分のことを言う時は謙譲語で、階層の上の人の意向をきくときは尊敬語というやんわりとしたベクトルがある。そうではない場合は丁寧語である。
匿名性の社会である場合は、その場にどのような階層の人が居合わせるかはわからないので、基本的に相手には謙譲語で自分のことを述べて相手の意向は尊敬語で語るということをするのであるが、丁寧語で応対するならば相手の階層は匿名性で明かされることがないという場合にはそれでいいことになる。
インドのように階層で名前が決まっていると、名前を明かすと食事も共にできなくなるので、匿名性で応対するという都市生活が発達したのであるが、敬語の未来というものをみると、尊敬語と謙譲語を正確に使うように誤用せぬよう指導するというのはそういう商法でしかなく、その用法をせねば不利益を生むという商業上の理由しかないので、接客業では実に言葉遣いにやかましいが、それが一般的横断的叡知を元にはせず、ごく狭い範囲の仲間内表現から一歩も外には出ていないという変な敬語表現しか見事に日本の飲食業界にはないのである。
相手に敬意を払い丁寧な言葉遣いをするということでいいわけで、ことさら敬語の正しさにこだわるというのは慇懃で無礼という方向にすぐ拡がっていく。
本来、身分制度の社会では言葉遣いによっては命を奪われるので身を護るための表現としてなにも直接に明言せずにする表現が発達して敬語というものが形成されてきているので、社会の変質とともに、昨日の敬語と今日の敬語と明日の敬語は違うものになっていくものである。
ツイッターにフォローフォロワー外から失礼しますの略語、FF外から失礼します、F外失、という一見謙譲語に見える慇懃無礼な表現があるが、そのような断りを前置きすればどんなことを言っても許されると思うなら、基本的な人に対する尊敬などはなく、あれは下手をすれば罵倒語になる。人によればそのような慇懃無礼な表現にすごく腹を立てるので、敬語というものをきちんと使う時に形ではなく本質で行わねば不都合になると思うのである。