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モンキーズの「恋の終列車」が映し込んだ徴兵への不安と焦燥


1960年代のアメリカでは、ベトナム戦争の激化に伴って様々な反戦歌が作られた。カウンター・カルチャーの時代だったことも手伝い、急速に伸張したフォーク・ロックやロック、またソウルにおいて、反戦を訴える相当数の作品が発表された。明確な意図を持つ反戦歌とはまた別に、いわば他愛もないポップ音楽と見なされがちな作品の中にも、ベトナム戦争を題材とする複数の楽曲があった。その代表的なものの一つが、全米1位のヒットを記録したザ・モンキーズによる「恋の終列車」(1966)だろう。
恋人に会いたいと願いつつ、喧騒に包まれる駅から彼女に電話をする光景に続き、主人公は「もしかするともう家に帰れないかもしれない」とつぶやく。1966年当時のアメリカにおいて、若者の「家に帰れないかも知れない」とする歌詞は、ベトナム戦争に徴兵される不安と焦燥の吐露と受け止められた。どれほど正論を歌う反戦歌にも増して、他愛もないポップ音楽が、時として広くリスナーの生活実感に密着し、深い想いを反映することがある。そんな作品のひとつとして「恋の終列車」のヒットを読み解いてみたい。

共にスクリーン・ジェムズで働いていたバート・シュナイダーとボブ・ラフェルソン(以下、プロデューサー陣と記載)は、1964年のビートルズ映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 』の精神を受け継ぐコメディを作ろうと発案し、架空ポップ・グループが悪戦苦闘しながら音楽活動を続ける様子を描く番組を企画した。スクリーン・ジェムズを退社した二人は、レイバート・プロダクションを設立し、共に働いたスクリーン・ジェムズに企画を売った。スクリーン・ジェムズは、コロムビア・ピクチャーズが、1948年に創立したテレビ番組制作を行う子会社、コロムビア・ピクチャーズは、1918年創立のアメリカの5大映画会社の一つである。
1965年9月8日から10日の3日間、レイバート・プロダクションはハリウッドの業界紙2紙に広告を掲載し、新テレビ・シリーズ出演者メンバーを募集した。

1966年の初頭にメンバーが下記に決まる。The Beatlesが"beetle"のスペル違いをバンド名にしていることに倣って、Monkeyのスペルを変えバンド名をThe Monkeesとした。


デイビー・ジョーンズ(David Thomas Jones 1945-2012)19歳。ヴォーカルとパーカッション担当。イギリス生まれ。子役とミュージシャンの経歴あり。アイドル的なキャラ。1965年に既にソロ・アルバムを発表。オーディションに先行して、彼のみ決められていたとされる。

ミッキー・ドレンツ(Micky Dolenz、本名:George Michael Dolenz,Jr、1945-)20歳。ヴォーカルとドラムス担当。父親がベテラン俳優。子役の経歴あり。

マイク・ネスミス(Mike Nesmith、本名:Robert Michael Nesmith,1942-2021)22歳。ヴォーカルとギター担当。モンキーズ加入以前にカントリー・ミュージシャンとして音楽歴あり。既婚。1969年に違約金を払って脱退。

ピーター・トーク(Peter Tork、本名:Peter Halsten Thorkelson、1945-2019)23歳。ヴォーカルとベース担当。モンキーズ加入前にNYのグリニッジ・ヴィレッジで音楽歴あり。ステーヴィン・スティルスから紹介された。1968年暮に違約金を払って脱退。

「ザ・モンキーズ・ショー」の企画を買ったスクリーン・ジェムズは、NBCに番組を販売することになり、撮影が始まった。NBCは1926年創立の放送会社。60年代の時点で、番組編成を担うアメリカ3大ネットワークの一つだった。1966年9月12日、NBC系列でホーム・コメディ「ザ・モンキーズ・ショー」がスタートした。放送は、東部時間の月曜夜7時半からの30分番組。2シーズン(Season1 1966年9月12日〜1967年4月24日 / Season2 1967年9月11日〜1968年3月25日)で、総計58話が放送された。番組内で繰り返しモンキーズの楽曲が放送され、ライブ公演の模様を放送した回もあった。

The Monkees Show Episode 19


テレビ番組開始直前の8月16日、デビュー曲「恋の終列車 Last Train to Clarksville」が発売された。9月12日の第1回、9月19日の第2回、9月26日の第3回、10月8日の第5回と、繰り返し「ザ・モンキーズ・ショー」の番組中で放送された。10月27日には100万枚を売り上げ、ゴールド・シングルの認定を受ける。その後11月5日に全米1位を記録。同時点でのゴールド・シングルとは、100万枚を売り上げたシングル盤を言う。
1966年10月8日に発表されたデビュー・アルバム「恋の終列車 The Monkees」もまた、10月27日にゴールド・アルバムと認定された。ゴールド・アルバムとは、アルバムのカタログ定価の33.3%に相当する卸売価格から計算し、100万ドルの売上を上げたレコード。実質的に販売数は50万枚以上となる。モンキーズは、現役活動期(1966-1970)において、6枚のゴールド・シングル、5枚のゴールド・アルバムを獲得した。
テレビ番組と連動し用意周到にメディア・ミックスした宣伝手法が、レコードのヒットの要因のひとつとなった。番組中に放送されるモンキーズの演奏映像は、ミュージック・ビデオの雛形とも言えるものだった。番組出演回避を目的として、新曲リリースに合わせて映像作品をテレビ局に提供した1966年以降期のビートルズが、ミュージック・ビデオの最初の利用者だ。

モンキーズにおける音楽面のスーパーバイザーを務めたのは、スクリーン・ジェムズ・ミュージック社長のドン・カーシュナーだった。ドン・カーシュナーはNYの大学卒業後に音楽業界で働き始め、ボビー・ダーリンとコニー・フランシスのマネージャーを務めたのち、アル・ネヴィンスと組んで、1958年に音楽出版社アルドン・ミュージックを設立した。
アル・ネヴィンズは、3人組ポップ・インストルメンタル・グループ、スリーサンズの一員だった音楽家。スリーサンズは、1940年代初頭の活動初期からニューヨークのホテル・ラウンジに7年間にわたって出演し、演奏模様を中継するラジオ番組が設けられた。40年代当時のアメリカは、ラジオの普及率が全世帯の90パーセントを超える一方、テレビはまだ1%にも満たなかった。ホテルでのライヴ演奏、その模様を放送するラジオ番組、音源を収録するレコードと、スリーサンズは複数メディアによる相乗効果の恩恵を得たメディア・ミックスの申し子だった。
全米1位を記録した「ペグ・オー・マイ・ハート」(1947)など7作の全米トップ10ヒットを持つほか、アル・ネヴィンスが作曲に加わった「トワイライト・タイム」は、ご本家のスリー・サンズを含め、複数のアーチストによってカヴァーされ、400万枚のレコードを売り上げていた。

音楽出版社アルドン・ミュージックは、すでに演奏現場を引退していたアル・ネヴィンスにドン・カーシュナーが依頼して設立された。当時の状況を「ロックンロールが大きな流れになってきているのに、誰もロックンロール専門の出版社を持っていない」と分析し、「子供たちが何を求めているか、直感的に分かる」と自負するドン・カーシュナーと、彼のロックンロールへの情熱と決断力を評価し、また音楽出版に興味を持つアル・ネヴィンスが組んだビジネスだった。
ドン・カーシュナーは、10代後半から20代前半の若い感覚のスタッフ・ライターたちによって、若者の価値観、興味、感情、スラングなどを拾い上げながら楽曲を作らせた。ロックンロールに的を絞ったアルドン・ミュージックの楽曲は次々とヒットして、1960年代の半ばまで大きな潮流としてヒット・チャートを牛耳った。ドン・カーシュナーは、"黄金の耳を持つ男"と称されるようになった。

1963年、コロムビア・ピクチャーズは音楽出版社アルドン・ミュージックを買収。スクリーン・ジェムズ・ミュージックと改名され、ドン・カーシュナーは社長に収まった。またモンキーズのために、レコードの発表元として、スクリーン・ジェムスとRCAビクターの合弁会社であるコルジェムス・レコードが用意された。代表は、ドン・カーシュナーが兼任した。
ドン・カーシュナーは、楽曲制作に際してかつてのアルドン方式を採用。作家チームに作品を用意させ、それをモンキーズに歌わせた。レコードでの演奏も、プロのスタジオ・ミュージシャンが行った。テレビ番組「ザ・モンキーズ・ショー」での演奏映像は、当て振りだった。マイク・ネスミスとピーター・トークは、当初からドン・カーシュナーのアルドン方式に強く反発した。
プロデューサー陣からセカンド・アルバム以降は自分たち自身で音楽制作をできると口約束を得ていたメンバーは、アルドン方式を変更しないドン・カーシュナーに苛立ちを深めた。1967年3月、ドン・カーシュナーはシングル3作目のB面曲について、当初予定していたメンバーのネスミス作詞作曲の「どこかで知った娘 」ではなく、ジェフ・バリー作詞作曲による「シー・ハングズ・アウト」に無断で差し替えた。レコードはカナダでのみ発売された。プロデューサー陣は、モンキーズのプロジェクトからドン・カーシュナーを解雇し、ドンはコルジェムス・レコードの代表職も追われた。後任には、ドンのコンサルタントだったレスター・シルが就任した。

1966年10月8日に発表されたファースト・アルバム「恋の終列車 The Monkees」は、ほぼ1ヶ月後の11月12日付けで全米1位を記録。その後も13週間にわたってチャートの1位を維持した。そして最終的にチャートに78週間も在位する大ヒット・アルバムとなった。8月16日に発売されたシングル盤「恋の終列車」が3ヶ月かかって全米1位に到達したことに比べ、はるかに早いスピードでの売り上げだった。その後アルバムは、総計500万枚を売上げる。アルバム販売の充実は、ロック・ビジネスが目指した主要な成果のひとつであり、これを満たしたモンキーズはロック・アーチストと見紛うようではあるものの、実態は全く違った。アルバム内容はアルドン・ミュージック的な手法で制作された楽曲の集合体だった。
モンキーズは、ドン・カーシュナーが主導する50年代的なアルドン・ミュージック的なビジネス手法と、1960年代後半に急速に伸長したロック的なビジネス手法の間で翻弄されたバンドだった。1966年秋のインタビューにおいて、メンバー自身が作品制作を行わないうえ、演奏もしていないとのアイドル的な事実をデイビー・ジョーンズがためらいもなく告白し、これがアメリカ国内で報道された以降も、モンキーズの人気は衰えなかった。一方でメンバーのうちマイク・ネスミスとピーター・トークがロック的な音楽制作を主張し、1967年にドン・カーシュナーと袂を分かつ際に、プロデューサー陣はそれを容認した。彼らはテレビ出演中で人気沸騰中のメンバーとの不和よりも、ドン・カーシュナーを解雇する道を選んだ。

モンキーズはメンバー自身が楽曲制作を主導する5作目のアルバム「ヘッド」(1968)を発表するも、売り上げは芳しくなく、初めてゴールド・アルバムを逃した。同名映画「ヘッド」(1968)も興行的に失敗に終わった。人気の凋落が始まった。プロデューサー陣は、モンキーズを見放した。企画の発案者の一人、ボブ・ラフェルソンは、「彼らにはまったく才能がないと思っていた」と語った。
マイク・ネスミスとピーター・トークの脱退もあり、「ザ・モンキーズ・ショー」終了後、2年もたたないうちにバンドは解散を余儀なくされた。モンキーズは、テレビ企画が主導する架空バンドによる音楽ビジネスの申し子と見なされた。


ここでアメリカの徴兵制と1966年当時の状況について、確認しておく。
選抜徴兵局(Selective Service System、略称:SSS) は、戦時における徴兵制度の運用や、兵役登録に関する法的枠組みの提供を定める法律である軍事選抜徴兵法(Military Selective Service Act、略称:MSSA )に基づいて、1917年5月18日に設立されたアメリカ合衆国の政府機関。第一次世界大戦中の兵士確保を目的とした。その後、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、アメリカが戦争を戦う際に、徴兵制度を運用するための組織として機能した。

1966年当時において、徴兵制度は以下にて運用されていた。
運営:軍事選抜徴兵法(MSSA)に基づいて、選抜徴兵局(SSS)が運営した。
対象:18~26歳の未婚男性。
登録:男性は18歳になると、アメリカ合衆国郵便公社から登録期限が記された徴兵登録通知書を受け取る。登録は、連邦政府に個人の存在を知らせるための手続きとなる。
選抜:生年月日に基づく抽選番号を用いて、無作為に選抜者が抽選された。SSSは選抜者に召集令状を発行した。
徴兵検査::選抜された若者は、徴兵検査を受けるために指定された徴兵検査センター等に向かう。この検査では、身体的な健康状態や心理的な適性が評価され、IQテストや身体検査が実施された。
徴兵決定:徴兵検査の結果に基づいて、個人の徴兵資格が決定される。決定は、徴兵局が行う。
徴兵召集:徴兵が決定されると、該当者は召集令状を受け取る。召集令状には、召集先や日時が指定されている。
召集先出頭までの期間:召集令状を受け取ってから召集先に向かうまでの猶予期間は、一般的には数日から数週間程度だった。この期間中に徴兵者は兵役の準備を行い、召集先に向かうための手続きを済ませた。ただしベトナム戦争中の1966年当時は徴兵需要が高まっており、状況によっては召集までの期間が短縮されたり、急速な展開があったりした。

さらにベトナム戦争に対するアメリカ市民の感情の変化について、振り返っておく。
アメリカが南ベトナムへの介入を決定した1960年代の初め、アメリカ国民の大部分において「アジアにおける共産主義拡大阻止」を目的とするための行動であり、戦争は正しいと信じられていた。1964年8月2日のトンキン湾事件勃発時に、北ベトナムに対する直接攻撃が容認されたが、アメリカ議会は1964年8月4日のジョンソン大統領に戦争権限を与える決議、いわゆる「トンキン湾決議」を、下院では賛成416、反対0、上院では賛成88、反対2という大差で可決した。
1965年3月にアメリカが北爆を本格化した直後、同年4月17日に首都ワシントンにおいて北爆反対の2万人規模のデモが行われた。これが初めての大規模なベトナム反戦行動だった。その背景には、アメリカにおける報道の自由があった。ベトナム戦争中、政府と軍はテレビ、新聞などに最大限の便宜をはかり、マスコミは戦闘の詳細を報道し続けた。ことにテレビ報道は、あまり知られてこなかった戦争の悲惨さ、非情さを、アメリカの家庭に具体的な映像とともに届けた。
ゲリラ戦だったベトナム戦争が、本格的な戦争に拡大したのが1965年。南ベトナム国内に派遣される軍人と軍属の数は、同年から飛躍的に増大した。
ジョンソン大統領は、1965年8月26日に大統領令に署名し、子供のいない既婚男性の兵役免除を取り消した。南ベトナムに投入されるアメリカ戦闘部隊の兵力は増加の一途をたどり、アメリカ国内での徴兵が活発化した。
1962年にベトナム駐留米軍兵力概数が22,300人、戦死者数が31人だったところが、1966年には米軍兵力は485,300人、戦死者数は5,008人に上っていた。
ベトナム戦争における1966年とは、アメリカ市民の多くが戦争に賛成しつつも、一方で大量の徴兵、そして派兵が行われる現実を身近に目の当たりにし、大量の戦死者が出始めている事実に直面した年だった。さらにベトナム戦争に反対する運動が、学生や知識人を中心に拡大し始めた年でもあった。

その1966年の全米1位のヒット曲が、「恋の終列車」だった。歌詞を訳してみよう。

Last Train to Clarksville

Take the last train to Clarksville        終電でクラークスヴィルに来て
And I'll meet you at the station         きみと駅で会うんだ
You can be here by 4:30                    きみは4時半には駅にいて
'Cause I've made your reservation   そういう約束をしたよね

Don't be slow                                      遅れないでね
Oh, no, no, no                                     ああ いやだ
Oh, no, no, no                                     いやだ いやなんだ

'Cause I'm leaving in the morning    だって僕は朝には出発しなきゃならない
And I must see you again                   きみにもう一度会わなくちゃ
We'll have one more night together もう一度 夜を一緒に過ごすんだよ
'Til the morning brings my train        朝、僕が乗らなくちゃいけない列車が来るまで

And I must go                                      そしたら僕は行かなくちゃ
Oh, no, no, no                                      ああ、いやだ
Oh, no, no, no                                       いやだ いやなんだ
And I don't know if I'm ever coming home 家に帰れるかなんてわからないよ

Take the last train to Clarksville     クラークスヴィル行きの最終列車に乗って来て
I'll be waiting at the station                  僕は駅で待っているから
We'll have time for coffee flavored kisses コーヒーの香りのするキスをしよう
And a bit of conversation                     そして少しばかりの会話もね

Oh, no, no, no                                         そうさ そうだよ そうするんだ
Oh, no, no, no                                         そうさ そうしなきゃ

Take the last train to Clarksville     クラークスヴィル行きの最終列車に乗って来て
Now I must hang up the phone             いま僕は電話を切らなきゃならない
I can't hear you in this noisy railroad station all alone
                                               この喧騒のなかできみの声が聞こえない 僕はひとり

I'm feeling low                                         落ち込んだ気分でいるんだ
Oh, no, no, no                                          ああ 最悪だ
Oh, no, no, no                                          ああ 最悪なんだ
And I don't know if I'm ever coming home 家に帰れるかなんてわからないんだ

Take the last train to Clarksville     クラークスヴィル行きの最終列車に乗って来て
And I'll meet you at the station                きみと駅で会うんだ
You can be here by 4:30                           きみは 4時半にはそこにいて
'Cause I've made your reservation          だって きみと待ち合わせしたんだから

Don't be slow                                             遅れないでね
Oh, no, no, no                                             ああ いやだ
Oh, no, no, no                                             いやだ いやなんだ
And I don't know if I'm ever coming home 家に帰れるかなんてわからないんだ

Take the last train to Clarksville     クラークスヴィル行きの最終列車に乗って来て
Take the last train to Clarksville     クラークスヴィル行きの最終列車に乗って来て
Take the last train to Clarksville     クラークスヴィル行きの最終列車に乗って来て
Take the last train to Clarksville     クラークスヴィル行きの最終列車に乗って来て

作詞作曲:Tommy Boyce(1939-1994)、Bobby Hart(1939-)

「恋の終列車」の発売は、1966年8月16日。
主人公はとある駅から、恋人に電話をしている。繰り返し「クラークスヴィル駅で会いたい」と彼女に懇願している。明日の朝には定められた列車に乗って、彼はどこかに向かうことになっている。その後、家に帰れるかどうか、わからないと呟いている。
駅構内の騒音によって彼女の返事を聞くことができず、もしかすると彼女は来ないかもしれないと予感しつつ、それでも彼は自分の願いを電話口で話している。このように想像させている歌詞とも、受け取れる。

2016年8月23日付のロリーング・ストーンズ誌の上級編集委員アンディ・グリーンによるインタビューにおいて、メンバーのミッキー・ドレンツは次のように答えた。「戦争に行く若者の歌だ。率直に言って、反戦歌だ。テネシー州のクラークスヴィルという陸軍基地に行く若者の歌なんだ。彼は明らかに徴兵されていて、ガールフレンドに "もう家に帰れないかもしれない "と言う。この曲がモンキーズの最初の曲であることを考えると、レコード会社がこの曲をリリースしたことにいつも驚かされる」。
インターネットサイトSongfactsのインタビューにおいて、作者の一人、ボビー・ハートは次のように答えている。「僕たちはただ、響きのいい名前を探していた。夏にオーク・クリーク・キャニオンに行く途中に通っていたアリゾナ州北部にクラークスデールという小さな町がある。クラークスデールまで行ったとき、クラークスヴィルの方がもっといい響きだと思った。当時は知らなかったが、テネシー州クラークスビルという町の近くに空軍基地があり、ストーリーラインにはぴったりだった。モンキーズに対してあまり直接的なことは言えなかった。プロテスト・ソングにするわけにもいかず、こっそり入れたんだ」。

1966年のモンキーズのテレビ番組やインタビューなどでの振る舞いから、彼らが"「恋の終列車」をプロテスト・ソングとして表現していた"とする受け止めはあり得ないだろう。今日になって作者のボビー・ハートが現実の陸軍基地(フォートキャンベル第101空挺師団)にほど近い地名を「こっそり入れた」と告白しても、リードシンガーとして歌唱したミッキー・ドレンツが真意を証言したとしても、それは発表当時の「恋の終列車」に寄せられた若者たちの共感の説明になってはいまい。そもそも「恋の終列車」は、プロテスト・ソングと呼ぶには、抗議の歌としての訴えがない。主人公には厭戦とか徴兵忌避といった態度は伺えず、彼は政府の意向に従順に沿う青年として描かれている。時の政府に抵抗する運動家の青年などではない。実はこの点こそが、「恋の終列車」を人々に受け入れさせることになった核心なのだ。
「恋の終列車」のシングル盤は100万枚を売り上げ全米1位を記録し、同曲収録のアルバムも含めると600万人以上が音源を手にした。
若者を主とするモンキーズのファンは、「恋の終列車」に描かれる主人公の不安を聞き取っていた。さらには彼が「もう家に帰れないかもしれない」と呟く理由も嗅ぎとっていた。明日の朝の列車に乗り込むことは、生きて帰れない片道切符の旅の出発かもしれない。青春の恋の風景の展開を聞き取りつつ、徴兵に対する自身の不安を「恋の終列車」に重ね合わせた。1966年当時の若者たちに迫っていた徴兵、ベトナム派兵という現実に直面することから生じる不安と焦燥に、「恋の終列車」の歌世界は通底し響き合っていたに違いない。


こうして「恋の終列車」をめぐるあれこれを考えてみたいと思ったのは、足繁く買い付けに通ったアメリカのとあるレコード店の主人が、ボクと同じ年齢、さらには誕生日も同じという偶然の重なった人物であり、その彼が語るベトナム戦争の話を聞いたからっだ。高校卒業時点で、学校単位で徴兵選抜の抽選が行われたと、彼は言った。ということは、1971年のことだ。アメリカの敗色が見え隠れし始めるなか、まだベトナム戦争は続いていた。100万人が参加する反戦デモが行われたのも、この年だ。選抜の対象となったのかと聞くボクに、彼は「いや、ならなかった。ラッキーだった」と答えた。その「ラッキー」という言葉に、なんともいえない苦さをボクは感じ取った。彼はアメリカのポップスやロックが、どんな風にベトナム戦争を扱ったのか、ずっと関心を持って来たとも語った。ボクらはあの曲はこうだ、この曲はこうだとしばし語り合った。
ベトナム戦争に行くことになるか、行かないこととなるか、それは単にラッキーだったか、それともアンラッキーだったか、その程度のことで決まってしまった出来事だったのだ。事態に直面する若者は、どれほどの不安を抱いたことだろう。彼とこうした話をしてからのこと、ボクの耳に響く「恋の終列車」は、まったく違うものとなった。

イラストレーション ツトム・イサジ

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