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できることならもう一度だけ、あの部屋に戻りたい

1961年、20歳のディランは、シカゴを経てニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにたどり着いた。ミネソタ大学の学生として暮らしミネアポリス界隈のフォーク・クラブで歌う日々に見切りをつけ、フォーク・ムーヴメントの中心地、グリニッジ・ヴィレッジで自分を試したかったのだろう。またもう一つ、新たなステップを昇りたいとする気持ちもあったにちがいない。

1963年に発表されたセカンド・アルバム「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」には、彼を一躍有名にした「風に吹かれて」をはじめ、「戦争の親玉」、「はげしい雨が降る」、「くよくよするなよ」、「北国の少女」など、今日よく知られる作品に混ざって、ひっそりと「ボブ・ディランの夢」が収録されている。

西に向かう汽車の中でふと眠ってしまった「僕」は、「悲しい夢」を見る。かつての学生生活を振り返り、「僕らはそこで数多くの嵐を経験し、そして朝がくるまで笑い、歌った。古い暖炉のそばに帽子を掛けて、語り合い歌った。その他に何も望まず充分に満足していた」。「白と悪、善と悪を言い当てることは簡単な事だと思っていた」ともいう。物事の善悪を簡単に決め付けることが出来た屈託のない若さを回想する一節だ。そして「願っても無理なことだけれども、できることならもう一度だけ、あの部屋に戻りたい。僕らのあの日々が可能ならば、1万ドルだって惜しくない」と結ばれる。もう戻ることなど出来ない日々を想うも、もはや遥か遠い場所にいる自分。そこに疼く思いを、ディランは突き放すようにして歌う。これほどまで素直に過去を振り返り、独白するディランも珍しい。

「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」のジャケット写真で、ディランと腕を組んで歩く恋人スーズ・ロトロが、当時を回想した著書「グリニッチヴィレッジの青春」を発表している。数少ない洋服を取っ替え引っ替え着ては鏡に映し、自分を聴衆にどう見せようか、ディランは工夫していたという。フォーク・シンガーも、イメージが大切なんだと、彼女に語る。ディランはやや自意識過剰で、自己演出に熱心だったとスーズは言う。明日を目指した若き日々のディランの姿を、ともに歩んでいたスーズが包み隠すことなく記しているエピソードの一つだ。

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