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エルヴィスにはなれなくとも、ロニー・ドネガンにはなれる

音楽文化論の聴講[第6回]
1950年代 | イギリスとアメリカポピュラー音楽

大学の音楽文化論の授業の6回目は、「1950年代 | イギリスとアメリカポピュラー音楽」でした。「イギリスでのロック誕生以前のポピュラー音楽の歴史を、イギリスの社会状況とともに理解」し、「アメリカ文化、アメリカのポピュラーが音楽が、イギリスに与えた影響について理解」するというものです。

冒頭でイギリス社会を理解する上で必須となるイギリスにおける階級について、そして大英帝国最初が最初の植民地としたアイルランドについての諸問題が教示されました。

イギリスには、おおまかに分けると上流階級(大土地所有者、大企業経営者)、中産階級、労働者階級(熟練、また不熟練の労働者、臨時雇いの労働者)があり、中産階級にも上層(医師、高級官僚)、中層(トップではない経営者、管理職)、下層(商店主、教員、中小企業経営者、事務職)とがあり、1960年代のイギリスでは90%以上の人々が階級は存在すると考えていました。階級への帰属意識は彼らの行動を強く方向付けていて、階級ごとに、学歴、生活習慣、振る舞い、娯楽・スポーツ・音楽の趣向などの極端な違いがあり、例えばサッカーは労働者階級のものであり、上流階級はラグビーを観戦します。

ここで階級について歌った作品として、ジョン・レノンの「Working Class Hero 労働階級の英雄」を視聴しました。

ジョン・レノンは、出身地のリバプールについて、このように発言しています。「リバプールはアイルランド人が主食のジャガイモが乏しくなった時に移り住む土地だった。アフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちが立ち寄り、そのまま残って住みつくケースもあった。リバプールにはアイルランドの血をひく者が多いし、黒人や中国人や、とにかくあらゆる人種が集まっている」。

ジョンが言及しているように、1845-1855年の「ジャガイモ飢餓」によってアイルランドでは100万人の死者が出て、200万人が国外に移住しました。1851年には、リバプールの人口の20%を占めたと言われます。彼らは差別されながら都市の発展をささえ、いつしかリバプールはダブリンに次いでアイルランドの第二の首都と呼ばれるようになります。

アイルランド移民は、アメリカにも大量に移住しており、同時期のニューヨークの人口の25%、シカゴで20%をアイルランド人が占めました。こうした移民が持ち込んだアイルランド音楽が、アメリカの音楽の成り立ちに大きく関わってくることも、大事な論点になるだろうと思いながら授業を聞きました。

なおリバプールには第二次世界大戦後に米軍が駐留し、基地からはラジオ番組が放送され、米兵が好むR&Bやニューオリンズ・ジャズ、ロックン・ロールが放送されたこと、またリバプールが貿易都市だったことから、貿易船の若い船員が持ち込むアメリカの黒人音楽やロックンロールのレコードが、労働者階級の若者たちの憧れの的となったこと、さらにそもそも人種差別感が希薄で黒人音楽を取り入れやすい土壌を持つ街だった、との指摘がありました。これらは、こののち論じられるビートルズの音楽の誕生にも、大きく関わることだろうと思いました。

ついで1950年までのイギリスのポピュラー音楽について、論じられました。それほどの発展を見ていなかったイギリスのポピュラー音楽ですが、酒場兼各種の芸能の会場となったミュージック・ホールでの音楽が楽しまれたこと、19世紀後半のアメリカのミンストレル・ショーや、20世紀に入って渡英してきたアメリカの黒人ジャズ・ミュージシャンやブルース・ミュージャンが大歓迎されたこと、1950年代に入って英国バラッドを掘り起こし保存しようとするフォーク・リバイバルが起こったこと、これらが示されました。

スコットランド、アイルランドで伝承されたバラッドが英国ロックに多大な影響を与えたとして(先生からは「アメリカのロックとイギリスのロックとは、全くの別物だ」との発言もありました)、イワン・マッコールとペギー・シーガーが歌うバラッドの「The Elfin Knight」を視聴しました。


同時代のアメリカ映画、たとえば「乱暴者」「暴力教室」、そして主題歌の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」はイギリス全土でヒット(全英1位)、エルビス・プレスリーほかアメリカのロックンロールもヒットして、イギリス全土にアメリカのロックンロールが浸透し始めます。
イギリスではロックンロールは「労働者階級の音楽」とみなされました。("ロック・アラウンド・ザ・クロック”とは絶倫を意味する言葉なので)映画「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の上映禁止をとった自治体もあったものの、8週間にわたってチャート1位を占める大ヒットとなりました。

さらにイギリスでブームとなった音楽として、スキッフルが示されました。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のヒットに刺激されて始まったスキッフルは、空前のブームとなりました。アコースティック・ギター、バンジョー、洗濯板、のこぎり、水差しなどを使って、20世紀前半にアメリカで誕生したブルース、ジャズ、カントリー、フォークなどを演奏するスキッフル。労働者階級に安物のギターとありあわせの自作楽器で自ら「演奏する楽しみ」をもたらしたこと、そしてイギリスには教会のホールやカフェなど、演奏を披露する場所があったとの指摘がありました。

スキッフルブームは、のちにポップ、ブルース、ロック、フォークなど様々な分野で活躍するミュージシャンの活動を始めるきっかけとなり、のちのちのイギリスのロックの主要な源流となったことが示されました。

スキッフル・ブームを代表するロニー・ドネガン(「エルヴィスにはなれなくとも、ロニー・ドネガンにはなれる」とヴァン・モリソンは言ったそうです)の「ロック・アイランド・ライン」を視聴しました。


ビートルズの前身、クォリーメンによる「イン・スパイト・オブ・オール・ザ・デインジャー」を視聴しました。これは彼らが1958年7月に自主制作したレコードからの音源です。ポール・マッカートニーが14歳の時に書いたオリジナル曲でした。


イギリスを理解する第一歩として「階級」を知ること、アメリカから流入したロックンロールに熱狂したのは労働者階級の若者だったこと、さらにはビートルズを生んだイギリス第二の都市、リバプールでは人種差別感が希薄であり、街の発展の背景にアイルランド人の努力があったこと、これらが1950年代のイギリスのポピュラー音楽を考える際の主要な論点なのだろうとして、授業を聴き終えました。

帰宅後にいつくかのポイントになるデータを、確認しました。
空前の戦費を要した第二次世界大戦に起因する深刻な財政難を経て、イギリスにおいて食料の配給制が終わったのは1954年、総選挙によって緊縮財政の終了が確認されたのは1955年。そしてイギリスの「豊かな社会」への歩みが始まりました。
21歳以上の男性労働者の賃金は、1951年に週平均8.30ポンド、61年には15.35ポンドと、ほぼ倍増しました。ついでに付け加えるならば、71年には30.39ポンドにまで上昇。インフレによる相殺もあるものの、賃金の上昇は小売価格の上昇率を大きく上回り、可処分所得が増えました。テレビの保有率も、自動車の所有も急増します。1956年には8%だった冷蔵庫の保有率は62年に33%、71年には69%に上昇しました。おおよそ15歳で学校を離れる労働者階級であれば、早いうちから賃金をほぼ丸ごと自分の好きなように消費できました。
1960年に徴兵制が廃止されたことも、兵役に時間を奪われることなく、若者たちの行動の自由の裏づけになったものと想像されます。
こうして「豊かさ」の恩恵をもっとも受けたのが、労働者階級の若者たちでした。

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