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カントリー&ウェスタンはいつ始まったのか

音楽文化論の聴講[第3回]
ロックンロール前史2 | ティン・パン・アリーとカントリー&ウェスタン

昨日、聴講生として通学している大学の音楽文化論の授業の3回目がありました。

テーマは、「ロックンロール前史2 | ティン・パン・アリーとカントリー&ウェスタン」。

ロックの重要なルーツであるロックンロールは、"ブルース〜R&B"と"ティン・パン・アリー音楽"と"カントリー&ウェスタン"を、その要素としているとの前提を踏まえて、「ティン・パン・アリー」と「カントリー&ウェスタン」について噛み砕いて、見ていこうというものでした。

ティン・パン・アリーの作曲家、音楽出版社などの関係者にはユダヤ人が多かった、ティン・パン・アリーの音楽にはユダヤ教会音楽の影響があったとされる、カントリー&ウェスタンにはイギリス系移民によって伝えられたケルト系の音楽と東欧系移民が伝えた民謡が影響しているなど、もう少し突っ込んで調べてみたいと思わされる興味深い点が、いくつも浮かび上がってきた授業でした。

なかでも面白かったのは、カントリー&ウェスタンという呼称が、一般的に使われるようになった経緯でした。1930年代末から40年代初頭にかけて起きた、著作権保護団体とラジオ局加盟団体との間での争い。これと"カントリー&ウェスタン"の呼称の広がりが関係しているとして、経緯の具体的な説明がありました。

この点をもう少し詳しく調べてみようと思い立ち、マサチューセッツ大学ボストン校で教鞭をとっていたリービー・ガロファロ氏の論文を読みました。

以下にガロファロ先生の論考を要約します。
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1930年代までのポピュラー音楽市場は、ブロードウェイとハリウッドの作家や出版社たちによって支配されていた。彼らは楽曲の著作権を登録したうえで、楽曲が演奏された際の使用料を徴収する団体「ASCAP (American Society of Authors, Composers, and Publishers)」を通して、権力を行使していた。ASCAPの170人の創立メンバーのうち、黒人はたったの6人であり、設立後もASCAPの会員になることは容易ではなかった。

ASCAPがその力をさらに発揮するようになったのは、権利の行使をラジオに適用するようになってからである。ASCAPのラジオからの使用料収入は、1932年には約78万ドルだったものが、37年には590万ドルにも増加した。

1940年にASCAPは、楽曲の使用料を従来の倍の金額にするようにと、ラジオ局側に要求した。過大な要求とこれに反発した全米放送事業者協会(NBA) は、独自の著作権管理団体「BMI (Broadcast Music Incorporated) 」を立ち上げた。NBAは、メジャーなラジオ局約600社を代表する組織。ASCAPがニューヨークとハリウッド以外の地域で制作されるポピュラー音楽や、フォーク・ミュージックなどに比較的無関心であることを利用して、BMIは「草の根地域」の作家や出版社に協力を求めた。

そして1941年にNBAがASCAPのボイコットを決定するや、ラジオからはBMIが独自に権利を獲得した音楽が流れ出した。これはブロードウェイとハリウッドのポピュラー音楽の独占に対する、初めの公的な挑戦だった。それから10ヶ月間にわたって、アメリカ全土のラジオからは、都会生まれの音楽ではなく、アメリカのルーツ・ミュージックがたっぷりと溢れ出した。まだポップスのるつぼの中で煮詰まっていない、本物の地方音楽がそのまま大衆に放送されたのである。
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以上が、ガロファロ先生の論考の要約です。

1941年のこの時点から、カントリー&ウェスタンという呼称が使われ始めたというのが、授業での説明でした。貧しい東南部の白人農業従事者を侮蔑的に呼ぶ際の用語のヒルビリーをそのまま当てはめる”ヒルビリー”や、アメリカ南西部の白人系音楽として単に"ウェスタン"と呼ばれた音楽が、BMIの成立と伸張と歩調を合わせるように、新たにカントリー&ウェスタンと呼ばれるようになったということです。

手元の資料によると、アメリカにラジオ局が誕生したのは、1920年代初頭。最初の定時ラジオ放送は、1920年11月2日に行われています。1922年初めには約30の放送局が開局し、この年の終わりには583の放送局がスタート。その後もラジオ局は増え続け、1930年代になると音楽ビジネスの一角をなす存在となりました。

都会生まれの音楽の権利擁護団体のASCAPに対抗して、「草の根地域」の音楽を放送のソフトとして用いるためにBMIが創設されたとの経緯に、なんともいえない面白みを感じます。きっかけが使用料の増額要求への対抗措置だったという点には、ラジオ局側のたくましさも感じます。もしかすると、これがアメリカにおけるルーツ・ミュージックの"発見"の道筋のひとつとなった、という見方も成り立つのかもしれません。

なおASCAPとBMIは、今でもアメリカの二大音楽著作権団体として、活動を続けています。ちなみにと思って調べてみたら、カントリー音楽の重要なルーツの一つ、1920年代から活動を始めていたカーター・ファミリーの作品も、BMIが管理していました。

次回の授業では、エルヴィス・プレスリーが取り上げられます。これまた楽しみにしています。

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