見出し画像

アメリカ、イタリア、ドイツと巡りめぐって日本のヒット曲になった"情熱の花"

情熱の花

ザ・ピーナッツで知られる「情熱の花」。元をたどっていくと、アメリカのポップ・グループ、フラタニティ・ブラザーズが1957年に発表した「Passion Flower」がオリジナルだ。

一聴して分かるように、この曲の元々のメロディは、1810年にベートーベンが作曲した「エリーゼのために」。ブラザーズの一人、ペリー・ポトキンJr.によれば、スタジオでリサーハル中に、とあるメンバーがリズミカルに「エリーゼのために」をピアノで弾いていたのが楽しく、歌詞を載せて遊んでいるうちに出来上がったという。シングル発表したところ、アメリカでは反応を得られなかったものの、なぜかイタリアでヒットした。イタリアのテレビ番組に出演した際の映像も、残っている。


これをドイツを拠点に活動していたカテリーナ・ヴァレンテがフランス語とドイツ語でカバーした。彼女のフランス語歌唱のシングル盤が日本発売され、1959年に日本国内でヒット。当時を知る音楽評論家の青木啓氏は、「1959年にパチンコ店で『軍艦マーチ』のかわりに流されたほどの大ヒット曲」と述べている。

そしてザ・ピーナッツが日本語でカバーして、同じく1959年にヒットした。

「情熱の花」は、こうしてアメリカ、イタリア、ドイツと巡りめぐって日本のヒット曲となった。

なお「情熱の花」のヒットをきっかけとして、カテリーナ・ヴァレンテとザ・ピーナッツは、互いの相手国を訪問し合って公演するなど、交流を深めた。
カテリーナ・ヴァレンテの初来日は、1963年。ザ・ピーナッツが所属する渡辺プロダクションが招聘し、公演期間中にはザ・ピーナッツと共に、休日を過ごす一日も用意された。
この時、渡辺プロダクションの渡辺美佐さんは、マネージャーだったカテリーナの夫君より、レコードの「原盤権」について教示を受けている(このように書いたのち、「1963年にヴァレンテのマネージャーに渡辺美佐さんが原盤権を教えてもらった、というのは違う。1961年発売の「スーダラ節」が初のナベプロ原盤と言われている」と、昭和音楽大学において客員教授として教鞭をとっておられる森川卓夫さんよりご教示をいただきました。ここに記して御礼を申し上げます)。渡辺プロダクションはこれを実行し、アーチスト・マネージメントの系列会社がレコード音源の権利を持ち、それをレコード会社に貸し出す方式の先鞭を切った。

さらにまたザ・ヴィーナスによって「キッスは目にして」に生まれ変わり、1981年にも再び日本国内でヒットした「エリーゼのために」のメロディだが、この「エリーゼ」というのはベートーベンの悪筆のための誤読というのが、定説になっているという。

実はかつてベートーヴェンが結婚を申し込んだこともある女性、テレーゼ・マルファッティだったとする説が今日では有力。ベートーベンが書いた譜面が、テレーゼの手紙箱の中から発見されたからだ。つまり「エリーゼのために」ではなくて、「テレーゼのために」だったのだ。それにしてもベートーベン、やるじゃん、愛する想いを曲にして送ったなんて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?