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ロックンロールにおいて始まった「黒人音楽と白人音楽の混合」が、その後、どのような展開を見せたのか

音楽文化論の聴講[第8回]
1960年代 | R&B、ソウルと独立系レコード会社

●大学の音楽文化論の8回目を欠席しました。レジュメを元に、授業内容を書き起こしておきます。

●大学の音楽文化論の8回目の授業は、「米国ロック史の「谷間」の時期としてみなされがちな60-64年の動向を確認」し、「分断されてきた白人音楽と黒人音楽のミュージシャンと聴衆者の関係の変化を理解」し、そして「新しいR&Bとソウルの誕生の概要を理解」するというものです。
以下に、先生の指摘や説明をまとめます。

●ロックンロール衰退以降からブリティッシュ・インベイジョンまでのアメリカの動向を見ると、
▶保守的な大人も容認する比較的「健全な」曲がラジオでオンエアされヒット。
ポール・アンカ、ニール・セダカ、デル・シャノンなどの白人シンガーや、ザ・シュレルズ、ザ・ロネッツなどの50年代末〜60年代前半の黒人ガールグループなど。

▶その一方、のちのロックに影響を与える様々な動きが起きた。
フィス・スペクターやブライアン・ウィルソンによる録音編集技術を盛り込んだ音楽制作の充実。
ベンチャーズ 、ビーチボーイズなどのサーフ・ミュージックとインストルメンタルバンドの台頭。
フォークが絶大な人気を獲得するとともに、ロックの誕生に多大な貢献。
女性音楽関係者の台頭。
黒人音楽が全国ヒットチャートに登場し、黒人による新しいタイプのR&B、そしてソウル、ファンクが誕生。

●白人音楽への黒人音楽の影響とその後の動向▶1950年代後半より、黒人音楽と白人音楽の混合の時代。
1957年頃より黒人ミュージシャンの曲が白人層に受け入れられるようになり全国チャートに登場、そして60年代に入ると全国ヒットが誕生する→以降、多くの黒人音楽がヒットチャートを占めるかと思われたが....
今一度、これまでの経緯を確認:黒人聴取層を対象に制作された黒人音楽が白人ロックンロールに取り入れられる→黒人音楽を愛好する白人聴衆の増加→より大きな資本に支えられた白人ロックンロールと黒人音楽が競合するようになる→これによって白人聴衆を意識し、より白人聴衆に好まれる曲とサウンドへと黒人音楽が変化した→一方で誰に向かって音楽を作るのか?自分たちが本当に表現したい音楽とは何か?とのジレンマが生まれ始めた。
▶ブリティッシュ・インベイジョンと、その後のロックの誕生によって、モータウンを除いて黒人音楽の売り上げは一時的に低迷→新たな音楽の模索を余儀なくされた。

●ソウルの誕生
白人マーケットを意識しながらも、R&Bにゴスペルの要素を加えた音楽としてソウルが誕生した。
黒人が自分たちのアイデンティティ「ソウル」を歌った。歌詞の内容が内面的であり深いものとなった。
▶ソウルの先駆けとなったアーチストとサウンドの模索
聴取層の違いによってサウンドを使い分けたサム・クック。

黒人のみの聴衆を意識したサウンド表現を行なってきたものの、多数の白人に受け入れられたジェームス・ブラウン→やがてファンクの先駆けとなる。

●成功例としてのモータウン
1959年に黒人であるベリー・ゴディー・ジュニアがミシガン州デトロイトに前身のタムラ・レコードを設立。1960年にモータウン・レコードに社名変更(Motownは自動車産業の中心地デトロイトを意味する Motor Townの省略形)。
地方の独立系レコード会社であったものの、黒人R&Bやソウルを中心としたレコード制作によって全国的なヒットを連発(1960〜69年の間にビルボード・チャートのトップ10に79曲をランク・インさせ、世界的にもヒット)した。黒人ミュージシャンのイメージを覆すための上品な振る舞いや発言等の指導を行い、白人からの偏見の払拭を目した。
モータウンサウンドと呼ばれるシンプルな楽曲とアレンジによる作品を戦略的に制作した。
ホランド=ドジャー=ホランドと呼ばれるホランド兄弟をはじめとする専属作家チームによる楽曲制作。
ファンク・ブラザーズとの愛称で呼ばれた専属スタジオ・ミュージシャンによる演奏(のちのロックミュージシャンに多大な影響を与えた)。

KISSの原則[Keep it Simple, Stupid]と呼ばれるポリシーがあった。

スモーキー・ロビンソン&ミラクルズ、ザ・スプリームス、スティービー・ワンダー、ザ・フォートップス、マーサ&ザ・ヴァンデラス、マービン・ゲイ、テンプテーションズ、ジャクソン5などが代表的なアーチスト。

▶モータウンの意義
黒人音楽の聴取層を白人層に拡大した。黒人アーチストの曲を白人が愛好することが「あたりまえ」になった。
大衆的で洗練されポップな独特のサウンドが、後のロックのサウンドに多大な影響を与えた。
地方のインディーズ・レコード会社でも、黒人経営の会社でも、大手メジャーなみのヒット曲を送り出せることを証明した。

●スタックス・レコード
1957-58年にジム・スチュワートとエステル・アクストンの姉弟が前身のサテライト・レコードをテネシー州メンフィスに設立し運営を開始。
スタックス Staxとは、ジム・スチュワート(Jim Stewart)とエステル・アクストン(Estelle Axton)の姓をあわせたもの。
サザン・ソウル、メンフィス・ソウルと呼ばれた南部独特のソウルの形成に大きく寄与した。
大手アトランティックとの提携によりミュージシャンの発掘、全米と世界への売り出しに成功した。
ゴスペル、ブルースをルーツとした泥臭いサウンドが売り。モータウンほどにヒットを出してはいないものの、黒人の伝統的な音楽に基づいたサウンドを追求したことが、黒人、そして黒人音楽を愛好する白人層から根強い支持を得た。
オーティス・レディング、サム&デイヴ、ブッカーT & MG'sなど。
スタックス専属スタジオ・ミュージシャンであり、また自身のヒット曲も持つブッカーT & MG'sは、黒人と白人の混成バンドだった。
黒人と白人の「人種混合」の象徴でもあり、多くのミュージシャンに多大な影響を与えた。

●アトランティック・レコード
1947年に黒人音楽の愛好家だったアーメット・アーティガンとハーブ・エイブラムソンがニューヨークで設立。
R&B、ジャズのレコード会社として成功を収め、さらにサザン・ソウルの普及に多大な貢献をした。
アトランティックは、のちにロックのマーケットに進出した。


●「米国ロック史の「谷間」の時期としてみなされがちな60-64年」は、かつて「端境期」とされ見すごされていました。いやそうではない、むしろポピュラー音楽の発展において決定的に重要な期間だったとするロック史観が提示され、20年ほど経ちました。つまり「天才の不在の停滞期」ではなく、後のロックに影響を与える様々な動きが育まれたとして、この時期を読み解こうという史観です。それは偉大な作品を時系列に並べることだけが、歴史ではないはずだとの認識の上に成り立っています。ここでの先生の授業も、そうした新たなロック史観によってなされました。まず、この点は知っておいていいと思います。
なお1964年は、アメリカにビートルズが降り立った年です。ここからまたアメリカのポピュラー音楽は、大きく変化を見せ始めました。

●そしてもう一つの重要な点は、1950年代の半ばにロックンロールにおいて始まった「黒人音楽と白人音楽の混合」が、さまざまに形を変えた広がりとなり、多くの聴衆に歓迎され始めたことです。もちろん黒人音楽の扱いについてはモータウンのようなポップな味付けもあれば、スタックスのような泥臭い味付けもありますが、いずれにしても黒人音楽が音楽マーケットにおいてその一角を為し、多数の白人聴衆が購入者になるという状況が生まれました(1940年に30億ドルほどだった黒人市場は、十年後には110億ドル、1961年には200億ドルに達しました。並行してインディペンデント・レーベルも数多く誕生しています)。
こうして生まれた「黒人音楽と白人音楽の混合」が、こののちどのような展開を見せて行くのか、この点にも注目してポピュラー音楽史を見ていく必要があるのだろうと思います。

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