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亜米利加レコード買い付け旅日記 8

 かつて、輸入中古レードを扱う店の経営者をしていました。アメリカ中を旅しながらレコードを買い求め、それを日本に運び入れ、せっせと盤を磨いて綺麗にして、ボクらなりのコメントを添えて、お買い求めいただきました。そんな生活を25年ほど過ごしてのち、数年前に代表を退任しました。
 「亜米利加レコード買い付け旅日記」シリーズは、そうしたレコード買い付けの旅の最中に経験したことを記し、ホームページに掲載していた原稿の再掲です。今回の原稿は、そういう意味ではアメリカ旅日記ではありません。店頭でレコードをお買い上げいただきながら、ふと思ったことを記したものになります。
 挙げている例が古くてピンとこないかもしれないし、うたの歌詞を偏重しているし、説明不足で言葉足らずの箇所あります。インターネットの時代になって、ちょっと検索すればいろんな事がすぐにわかる環境になって、こんなことを言うのは時代錯誤かなとの思いもあります。
 しかしここに書いた文章の根っこのところは、今も変わっていないなと、久しぶりに再読して思いました。自分自身の足跡のようなものかもしれません。お読みいただければ幸いです。


 ハイファイで中古レコードの輸入と販売をするようになってそろそろ10年目を迎えようとしている。そのまえの20年間はレコード会社に勤務して日本のJポップ・アーチストの作品をつくり、それを宣伝する仕事をしていた。こちらは"日本語"の作品。その後のハイファイの仕事は、主として"英語"の作品の世界だ。


 日本語のうたを"売る"というのは、それはなかなか手応えのある仕事で、アーチストのキャラクターや歌詞や音楽のもたらすさざ波のようなものが、ひとたび作り手や売り手に戻って来ようものなら、それは大小に関わらず"ヒット"ということになり、かけがえのない喜びになる。仕事が報われたという気持ちにもなるし、自分が関わった作品が広がっていく現実を見るのは、とてもうれしい。


 それがこと"英語"による洋楽の制作現場となると、どうしても啓蒙の匂いがぬぐい去れないように思えてならない。たとえば世界的な知名度を持つアーチストといった大物感を利用して、なにかしら「えっ、知らないの?」的なニュアンスが込められたプロモーションが行われることがある。商品パッケージにそうした意味が込められた"コピー"が添えられることもある。知られざるアーチストの場合も、同様だ。この打ち出し方法に、一定の効果があることは認める。しかしこの手の宣伝手法は、どうも好きになれない。


 音楽をいっぱい知っていることが偉いことではないと、常々思う。いっぱい知っていることよりも、音楽のひとつでもいい、どれほどに受け止めることが出来るか、感じとるものを持っているかの方が、よっぽど重要だとも思う。音楽を感じとった心が、ひとつのつらなりを見いだし、それを重ね、いわば我流の音楽系譜を見いだしても良いし、ロックやジャズの歴史と響き合いながら、自分のうちにひとつの重層的な音楽地図を描き出すことも楽しいだろう。しかしいずれにしても、それは感じる心の豊かさあってのことだ。


 "うた"は、すでに当たり前のようにして日常にある。その歌詞は、すでに日常のどこかに秘められていた感情に形を与えている。組み立てられ用意されたコトバがメディアから流れ出すと、そこに共振する人々が、そのうたをヒットに持ち上げる。誰も知らない言葉が使われているわけではないし、新しい造語が挟み込まれていたとしても、その意味がすぐわかるようになっている。"うた"とは、人々のあいだに地下水のようにして流れている感情に、光をあてたものだ。ふと振り向くとそこにある想いを、さりげなくすくいとりながら、それぞれの時代の思いにコトバを与えてきた。


 日本語のうたの世界だと、これが実感を持ってよくわかる。ところがひとたび英語の歌詞になると、なかなかわかりにくい。ジム・ウェッブによる「恋のフェニックス」の主人公が利用する乗り物が、自分で運転する車なのか、それとも飛行機を乗り継いでいるのか、同時代のアメリカ人だったらすぐにわかったのだろう。モンキーズの「恋の終列車」が描く主人公は、明日にもベトナム戦争に徴兵される若者だが、これも当時のアメリカに暮らしていれば、歌を聴くやピンと来たに違いない。


 学習的に洋楽を受け取るのではなく、独自の態度で音楽に接する人がいることも、店頭でレコードをお買いあげ頂きながら、感じたことがある。いささか古い例で恐縮だが、ニック・ドレイクのアルバムを手にして喜ぶ方の顔を見ていると、彼の心の中にあるなにかがニック・ドレイクの音楽と共振していることがわかる。彼はニック・ドレイクの音楽を聞くことによって、震え始める鈴を持っている。サイケデリックと称される音楽、内省的な色彩の強いシンガー・ソングライターの作品などが、池に投げ込んだ小石のように波紋を浮かべることが多いと感じてきた。


 それにしても、と再び思う。僕はいったい何のためにわざわざ"英語"で歌われる音楽を販売しているのだろうか。


 過去にぼくはこんなコメント書いて発表したことがある。センチメンタル・シティ・ロマンスという日本のロック・バンドのデビュー・アルバムに収録された作品「うん、と僕は」についてのコメントだ。


 日本に暮らしながら、カリフォルニアを生きること。それが最も理想に近づく道筋だと思い込んでいた時代。70年代中頃のこと。ナイキのスニーカーを履き、リーバイスのジーンズに足を通し、街を歩く手にはイーグルスのLP。雑誌「ポパイ」は毎号きらめくカリフォルニアを取り上げていた。名古屋から登場したセンチメンタル・シティ・ロマンスのアルバムを聞き、ぼくらは地続きの場所に立つ日本人の若きロッカーと出会うことになる。ロスから流れくる風を受けながら、自分たちの言葉で歌を歌っていた。カリフォルニアを生きよう、そう思っていた仲間がここにもいた。1975年発売のデビュー・アルバム「センチメンタル・シティ・ロマンス」のA面2曲目。はっぴえんどよりもずっと若い世代が、はっぴえんどからの影響を素直に吐露する歌でもある。(喫茶ロック ソニーマガジンズ刊より)


 30年近く前に、本当にそう思っていた。カリフォルニアのロックが運んでくる風には、新しい時代の行き方や、よりよい世界のあり方への指針や、ありうべき男女の関係の提言が含まれていると感じていた。


 確かに未熟なあこがれや憧憬がそこにはあった。カリフォルニアでロックを歌っていた彼らが、それほどに自覚的な人たちばかりではなかったということを、後々知ったという面もある。なんとも青臭いコメントでもあるのだが、しかし「日本に暮らしながら、カリフォルニアを生きる」ということ、これは海外の文化を日本において受け止める際の基本的な姿勢のひとつではないかと改めて思う。海外の文化を我がものにするとは、文化を受け止めた後に、日本の状況のなかで何をするかが問われるのではないか。


 なにしろそんな風に今一度思うようになったのは、日本のハワイ音楽アーチスト、山内雄喜さんとおつきあいをするようになってからだ。


 取材をきっかけに山内さんとお会いして、そして同時に音楽を聴くようになり、山内さんがうたった作品「たからもの」を聞いた。このうたは、ハワイの素晴らしさを伝える歌であると同時に、ハワイを心に持ちながら東京でどのように生きるのかを示唆しているように聞こえてきた。


 そんな思いを持って「東京でハワイを生きるためのサウンドトラック」とするコラムを書いたことがある。そして6枚のアルバムを紹介する中に、山内さんの「たからもの」を入れさせてもらった。このうたをハワイの海沿いや山の中を走りながら、カーステレオから聞くのが夢だった。まるでこのうたの一場面のように。その夢をこの夏にかなえることが出来たことが、とてもうれしい。


「たからもの」山内雄喜
ハワイを歌う日本語のうたの中で僕のナンバー・ワン。ハワイはたからもの。ハワイのロコのように生きよう。こんな風に僕には聞こえる。耳の奥でこのうたが響く限り、ぼくはどこでもハワイアンになれる。そんな気がする。山内さん、またうたを歌って下さいね。(relax ハワイ特集号より)


 山内さんは、東京に生きるハワイのロコだ。もちろん"東京"に重きが置かれることもあれば、"ロコ"に重きが置かれることもあるが、いずれにせよ東京でハワイを生きている。そしてそこから音楽が流れ出してくる。それがわかればわかるほど、山内さんの音楽がおもしろくなる。
 ハワイ音楽には、疲弊した心の憂さを吐露するメインランドのロック・ミュージックとは、根本的に違うスピリットがある。前向きなエネルギーがある。そうした音楽がなぜハワイで可能なのか。たぶんその疑問を解きほぐしていくには、山内さんの音楽のあり方や、音楽の生まれ方を受け止めることが、まず第一歩なのではないかと改めて思い始めている。もちろんお人柄にもハワイの風が吹いている。「東京に暮らしながら、ハワイを生きること」は、たぶん可能なのだ。山内さんを見ながら、僕はそう思い始めている。

イラストレーション ツトム・イサジ


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