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マレーネ・ディートリッヒと「リリー・マルレーン」

マレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich, 1901 - 1992)は、ドイツ、ベルリン生まれ。演劇学校で学んだのち、1922年に映画デビュー。1930年に映画「嘆きの天使」( Der blaue Engel )に出演し、「100万ドルの脚線美」と称えられる。同年のアメリカ映画「モロッコ」( Morocco )ではアカデミー賞主演女優賞にノミネート。米ハリウッドに本拠を移し、 1932年の映画「上海特急」( Shanghai Express )に主演、スター俳優の座を確立した。

100万ドルの脚線美と称えられた

当時のドイツ宣伝省大臣、ヨーゼフ・ゲッベルス( Paul Joseph Goebbels , 1897 - 1945 )より本国に戻るように繰り返し要請されるも、ナチス・ドイツ( Nazi-Deutschland )を嫌うマレーネは拒絶し、1939年にアメリカの市民権を取得。そのためマレーネの映画は、ドイツでは上映禁止となった。

1943年に第二次世界大戦の欧州前線で戦う米軍兵士の慰問を始め、終戦まで続けた。

1953年からは歌手活動に傾注した。1958年から65年の間は、バート・バカラックが音楽監督を務め、アメリカ、ヨーロッパ、ソ連、イスラエル、南米などを巡演。1960年には、念願の故郷ドイツでの公演を行った。1975年9月、コンサート中に足を骨折して活動から引退。

1992年、パリにて90歳で没した。晩年は寝たきりだった。

マレーネ・ディートリッヒ 1933

マレーネは、第二次世界大戦の戦時下において、"「リリー・マルレーン」を歌った歌手"としてもその名を知られている。
彼女は第二次世界大戦中の1943年から終戦に至るまで、米軍前線兵士を労う米国慰問協会 USO( United Service Organizations )の一員として活動し、兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡り、慰問先で「リリー・マルレーン」( Lili Marleen )を歌った。
「リリー・マルレーン」 は、1939年にドイツの女性歌手、ララ・アンデルセン( Lale Andersen , 1905 – 1972 )が始唱したドイツ語によるポピュラー・ソング。戦地の兵士が、故郷に残す恋人を深く想う内容が歌われている。


兵舎の前 大きな門の前に
街灯が立っていた
今でもそこにあるのなら
そこでまた逢おう
あの街灯の下で
かつてのように リリー・マルレーン

私たちの二つの影は一つになった
私たちが愛し合っていることは
誰にもすぐにわかった
あの街頭の下で
また抱き合おう
かつてのように リリー・マルレーン

見張りが呼んでいる 消燈ラッパだ
遅刻は三日間の営倉だ
戦友たちよ いま行くよ
私たちは別れを告げる
だが あなたと一緒にいたい
あなただけと リリー・マルレーン

あの街灯はあなたの足音を知っている
あなたの優雅な歩き方を
街灯は今も燃えている
街灯のかたわらに誰かが立っている
それが私を悩ませる
あなたと共に誰がいるのか リリー・マルレーン

静かな部屋の奥から 大地の暗い底から
あなたのやさしい唇が
私を夢のような気持ちにさせる
名残の霧がひろがるとき
またあの街灯の下に立とう
あのときのように リリー・マルレーン

前線の兵士の前で

「リリー・マルレーン」については、次のような指摘がある。

「ゲッベルスの天才的な直感力が、この歌の持つ不吉な前兆を予感した。(中略)ゲッベルスはこの原盤をもつエレクトーラ社に、原盤を破壊するよう命令を発している」。(鈴木明著「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」 株式会社文藝春秋 1980)
ナチスドイツがどのように「リリー・マルレーン」を評価したのかについて、記録は残されていない。ララ・アンデルセンが歌唱した音源を収録するドイツ国内の原盤は、1942年に破壊された。ゲッベルスが感じた"不吉な前兆"とは、ドイツ兵士に厭戦気分を醸成する可能性を見出したことを意味すると思われる。

「この歌が第二次世界大戦中、敵も味方も歌った唯一のものである」。(「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」 )
"ドイツ占領下、旧ユーゴスラビアのベオグラード放送局が第二次世界大戦中、ラジオで毎晩21時57分から「リリー・マルレーン」を放送した。アフリカ戦線でドイツ軍、イギリス軍の兵士が聞き始め、口伝えで広まり、やがてヨーロッパ中で聞かれるようになり、オーストラリア軍、アメリカ軍へとひろがっていった"。これが戦時下に「リリー・マルレーン」がひろがった経緯の通説だ。これを踏まえての見解だろうと思われる。
ベオグラード放送局が放送したのは、ララ・アンデルセンによるドイツ語歌唱の音源だった。なお当時のヨーロッパにおいて、ドイツ語は世界言語であり重要な商業言語でもあったので、英語を母語とする英米兵士にも、ララ・アンデルセンの歌声は理解の範囲にあったと想像される。さらに、ほどなく「リリー・マルレーン」の英語歌詞が作られ、これをマレーネ・ディートリッヒが米軍の前線兵士慰問に際して歌った。

兵士を慰問するマレーネ

さらにこのような情報もある。

アメリカ中央情報局CIA( Central Intelligence Agency )の前身にあたる戦略諜報局 OSS( Office of Strategic Services )の元部員エリザベス・マッキントッシュ( Elizabeth Peet McIntosh , 1915-2015 )は、次のように証言した。
マレーネのプロパガンダ・ポテンシャルに気づいたOSSのボス、ウィリアム・ドノバンは、マレーネは口が固く、反ナチの意思を強く持っていると判断し、 1944年に「リリー・マルレーン」のドイツ語歌唱を依頼した。ドイツ兵士の厭戦気分を高めるためだった。マレーネは快諾し、歌唱を録音した。マレーネが歌う「リリー・マルレーン」は、ドイツ兵士をメランコリーにして、戦意を喪失させた。(ジョン・デイヴィッド・ライヴァ監督 映画「真実のマレーネ・ディートリッヒ」(Marlene Dietrich : Her Own Song、 2001)

証言者のエリザベス・マッキントッシュは非常に有能なスパイの一人であり、第二次世界大戦の勝利を導いた一人として米国内で著名な人物。彼女は戦時中にヨーロッパに派遣され、様々な秘密作戦に関与したとされている。

エリザベス・マッキントッシュ

人々を高揚させるために歌が利用されるのは、勢力の左右を問わず、これまで歴史に繰り返されてきた。戦意の高揚や慰労、あるいは反戦運動の正統性の裏づけや、さまざまな運動に参加する者の一体感の醸成が目的だった。
エリザベス・マッキントッシュの証言を信ずるならば、敵軍兵士に厭戦気分を広めるために、国家が歌を利用したという極めて珍しい事例となるだろう。

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