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いつ戦争に徴兵されてもおかしくない不安の日々を過ごす若者たちと、60年代ロック

音楽文化論の聴講[第10回]
1960年代 | 1960年代のウエストコースト、カウンター・カルチャーとロック

●大学の音楽文化論の授業の10回目は、1960年代のウエストコーストの状況、カウンター・カルチャーとロックを振り返るものでした。

「1960年代の全体的なロックの動向について確認」し、「ウエストコーストのロックについて概要を理解」し、「1960年代のカウンター・カルチャーとロックの関係について理解」するというものです。

●ロックンロールがロックと呼ばれるようになるのは、1960年代後半。そこにはブルース、R&B、ジャズ、フォーク、ラテン、民族音楽、クラシックなどの様々な音楽要素が混成した「ロック」が誕生したこと、ソウル、プロテストソングと同様に「ロック」においても複雑で意味の深い歌詞が増えたこと、歌詞と楽曲の進化によって従来は3分以内だった楽曲が、3分以上の「ロック」となり、それが通例となったとされました。

●60年代後半のロックの革新を推進した代表的なバンドとして、ニューヨークから登場したザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ウエストコーストから登場したバンドとしてベンチャーズ 、ビーチ・ボーイズ、ジャン&ディーン、バーズ、ジェファーソン・エアプレーン、グレイトフル・デッド、ザ・ドアーズ、クイックシルバー・メッセンジャー・サービス、そしてファンクの先駆けとなったジェームズ・ブラウンが挙げられました。

●1960年代のアメリカは、東西対決と冷戦の時代であり、不安と不信の世界情勢に影響を受けつつカウンター・カルチャーが進展したと説明され、その中心には「いつベトナム戦争に徴兵されてもおかしくない不安の日々を過ごす若者たち」の存在があったと指摘されました。今につながる環境保護運動、マイノリティや女性、障害者の権利獲得を目指す人権運動は1960年代に始まっており、多くの若者たちが包摂的で寛容な新しい社会の実現に向ける社会運動を推進。これは社会に不満を持つも活動はしなかった1950年代の若者たちとは、違う動きだったと解説されました。

●1960年代のアメリカのカウンター・カルチャーには、ピルの開発と併走した性革命、当時は合法であったLSDなどのドラッグの使用体験を表現に盛り込むドラッグ文化、ビートニクの思想をうけ継ぎ東洋思想、スピリュチャル、自然指向を目指したヒッピーの登場などがあることが示されました。

●ロック表現の革新には、スタジオ技術の発展が大きく寄与しました。ビートルズが67年に発表し実験的なサウンドを盛り込んだ「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が、音楽関係者に多大な衝撃を与えたとして、「ロック史に残る名盤」と紹介されました。

●ウエストコーストではサーフ・ミュージックが進展したロック、LSD使用時の幻覚体験を想起させる瞑想的なサウンドのサイケデリックロックなどが、近郊に映画音楽制作の拠点であるハリウッドを擁するロサンゼルスと、ヒッピーが移住しコミュニティを形成し、また学生文化の拠点となったカリフォルニア州立大学バークレー校を擁したサンフランシスコにおいて進展し、そして1967年に世界初のロックフェスティバルと称される「モンタレー・ポップ・フェスティバル」の開催へとつながったことから、1960年年代後期には、ロックがカウンター・カルチャーのシンボルとなったと説かれました。フェスをプロモーションする曲として作られた「花のサンフランシスコ」を視聴しました。


●ラブ&ピースを標榜するロックが、よりよい社会を作っていくための手段であるとの認識が若者達の間で広がったこと、それを示す最も顕著な例が世界初の衛星中継として世界中にライブ放映されたビートルズが演奏する「愛こそはすべて」だったとして、映像を視聴しました。当時は2億人を超える人々が視聴したとされます。

●1969年8月にニューヨーク郊外で3日間にわたり開催され、32組の英米のフォークやロックのミュージシャンが出演し、40万人以上と推定される聴衆が集結したとされるウッドストック・ミュージック&アート・フェスティバルは、道路渋滞、食糧・トイレ事情の悪化、医療設備の不備などあるも、若者達の助け合いや地域住民の食料援助もあり、無事に閉幕しました。
若者達の夢と理想は実現が可能であり、ひいてはロックは社会を変えることができると思われた一方で、同年12月にローリング・ストーンズがカリフォルニア州オルタメントで主催した無料屋外コンサートにおいて、警備担当のヘルズ・エンジェルスにより観客の黒人青年が刺殺されるという事件が発生。この「オルタモントの悲劇」は、ウッドストックでのラブ&ピースが幻想にすぎなかったものとするとして、音楽関係者、カウンター・カルチャー関係者に多大な衝撃を与え、60年代カウンター・カルチャーの夢の終焉を象徴したと説明されました。

●カウンター・カルチャーのシンボルとされたロックが抱えた矛盾がこうして露呈するも、すでにロックは大きなビジネスになっており、また大多数のロック・ミュージシャンは、非政治的だったとして結論付けられました。

●60年代ロックの前段のひとつと位置付けられる公民権運動において、広く歌われた「We Shall Overcome」、邦題では「勝利を我らに」について、フォーク・グループのピーター、ポール&マリーのメンバーのひとり、ピーター・ヤーローに、彼らが歌う意図をインタービューしたことがあります。彼らは今世紀に入っても、この歌を熱心に歌ってきました。

ピーターのコメントは、「勝利を我らに」との邦題のもと、「勝利の日まで 勝利の日まで 戦い抜くぞ」と歌われる日本語詞の意味するところとは全く違っていました。"いつの日にか、人々が様々な抑圧や差別から解放される時を夢想しながら歌っている"と、彼は回答をくれました。勝利を我らの手に勝ち取ろうとアジテーションのようにして訴えるものではなく、自分自身も含めて、人々が解放されている姿への夢想を込めて唄っているのだというのです。確かにそうかもしれない、そのほうが歌詞の「Shall」という言葉に即していると思います。聴衆と共に「We Shall Overcome」と歌いながら、理想の姿を夢みること。夢を具現化する場は、聴衆ひとりひとりの日常にあるでしょう。それがピーター、ポール&マリーが歌う「We Shall Overcome」の本意だとボクは受け取りました。

60年代カウンター・カルチャーの夢はあえなく終焉したとの理解は、間違いがないのだろうと思います。その一方で、60年代に熱心に歌われた「We Shall Overcome」を、こうして歌いつなぐ態度があるということを、ボクは知りました。

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