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ボブ・ディランが受けたブーイングの真相は?


音楽文化論の聴講[第9回]
1960年代 | フォーク・ロックの誕生 プロテスト・ソングと社会運動

●大学の音楽文化論の授業の9回目は、ロックの誕生に寄与したアメリカにおけるフォーク〜フォーク・ロックの動きについて、振り返るものでした。

「フォーク・ロックの源流であるフォーク・ソング(ミュージック)とは何かを理解」し、「フォーク・ロックの誕生の契機と展開とその社会背景について理解する」というものです。

●フォーク・ソング、あるいはフォーク・ミュージックとは何か?を、厳密に問い始めると容易ではないことになります。ここでは市井の人々の中から生まれ口伝継承された地域色を持つ民謡・民俗音楽とします。フツーの人たちによって生み出され、耳コピされてきた歌、あるいは音楽。ひとまずこうして理解して、先に進みます。

アメリカにおいてフォーク・ソングが生まれる契機となったものは、「肉体労働」と「コミュニティ」。「肉体労働」において作業のタイミングを合わせるために歌われ、また労働後の疲れやストレスを軽減すること、また地域の「コミニュティ」において、共に歌を歌い音楽を演奏する楽しみを見出し、さらには人々のつながりを確認するものとして用いられました。
その歌詞においては、日常の生活、故郷のこと、また日常的に遭遇する社会の不正や不公平が歌われました。

●アメリカにおいて伝統的なフォーク・ミュージックを発見し、また継承した人物として下記の人たちが紹介されました。

1930年代に全米各地でフォーク、ブルース、ジャズなどの多様な民俗音楽の発掘、録音、映像記録、研究を行ったジョンとアランのローマックス父子。

数百曲のレパートリーを記憶しており、それらを録音し、また後継のミュージシャンに影響を与えたレッドベリー。


フォーク・ミュージックのシンガー・ソングライターとして数多くの歌を作り歌い、また社会主義者・労働組合活動家であったウディ・ガスリー。


●1950年半ば〜60年代前半の米英でフォーク・ミュージックのリバイバル・ムーブメントが起き、多数のミュージシャンが誕生。演奏の中心となった楽器がギターであったこと、そしてフォーク・ミュージックをベースに自ら作詞・作曲を行う方向へと進化させていったことが述べられました。こうして"フォーク"は、固有の音楽ジャンルとして認識されるようになります。

●フォーク・ソングにおいて重要だった要素のひとつに、反戦、差別への抗議を歌うプロテストソングがありました。60年代後半には、フォークのみならず、ロック、ソウルへとその姿勢は拡大し、ロックにおけるメッセージ性の強い歌詞の誕生に寄与しました。

背景にあったのは、マーティン・ルーサー・キング牧師を中心とした公民権運動。運動は、1964年に公民権法を成立させ一定の成果を生みます。
そしてもう一つがベトナム反戦運動。1960年初頭から米国はベトナムに軍事介入、戦争が長期化し多くの米国人が徴兵され派兵されたことを背景に、1967年頃には全米に反戦運動が広がったことが指摘されました。

●フォーク・ミュージシャンたちがブリティッシュ・インヴェイジョンに影響を受け、エレクトリック・ギターを手にするなど、フォーク・ソングがエレクトリック楽器を使用しロックンロールのリズムを用いた形態へと変化していったこと、それらはフォーク・ロックと呼ばれたと述べられました。

●ここでロック史上において最も影響力のあるミュージシャンの一人として、ボブ・ディランが紹介されます。
1962年のデビュー直後からプロテスト・ソングを歌うフォーク・ミュージシャンとして注目を集め、「時代の代弁者」として多くの若者の支持を得たこと。その後ギターでの弾き語りと、自分に対してファンが持つイメージに限界を感じ、ブリティッシュ・インヴェイジョンの影響を受けロック・サウンドを取り入れた作品を次々に発表したこと。そうしたディランの変化は「フォークに対する裏切り」とか、「商業主義に身を売った」と非難されたものの、フォーク・ロックへの潮流は止められず、後継のミュージシャンが続々と続き、フォーク・ロックのヒットソングが次々と誕生し、そうした過程でロックにおいてはシンガー・ソング・ライターが当たり前の存在となっていった、と指摘されました。

●授業のなかでいくつかの映像を視聴しましたが、なかでも1965年にボブ・ディランがニューポート・フォーク・フェスティバルにおける「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏が印象的でした。この年のニューポート・フォーク・フェスの映像は、これまでも目にすることが出来ましたが、新たにyoutube上で公開されているとして先生が紹介されたディランの映像は、ボクには初見でした。


エレクトリック・ギターを手にしたこの日のボブ・ディランは、プロテスト・ソングからの「転向」や「裏切り」と酷評され、会場から彼を批判するブーイングが起きたと伝えられてきました。伝統的なフォーク・フェスティバルに集ったフォーク・ファンは、エレクトリックなディランを容認できず、商業主義に堕落したとの批判の矢を向けたとされました。
「ライク・ア・ローリング・ストーン」を含む3曲をエレクトリックなサウンドで演奏したのち、いちどステージ裏に引っ込んだディランが、再びアコースティック・ギター1本を手にステージに戻り、"すべては終わった、すぐに立ち去った方がいい"と説く「イッツ・オールオーバー・ナウ・ベイビー・ブルー」を歌ったことも、そのような批判への対応とされました。エレクトリック・ディランを認めることが出来ないファンに向ける別れのメッセージが、「イッツ・オールオーバー・ナウ・ベイビー・ブルー」だったとの受け止めが、そこにありました。

●ニューポート・フェスではどのような事実があったのか。ディランに向けて、批判的なブーイングがあったとする説は、それは事実に即したものなのか。これまで検証が進められてきました。
近年では、ブーイングはディランの歌と演奏がよく聞こえなかったことに対して起きたものというのが、有力な説として提示されるようになりました。ほとんどの出演者たちがアコースティックな演奏だったところに、ディランが直前になってエレキ・バンドを従えて演奏をすることが決まったので、音響の調整がうまくいかなかったというものです。
フェスの大トリを任されたディランが、たった3曲しか演奏しなかったことへのブーイングもありました。「エレキ・バンドとの共演は3曲しか用意していなかった。何曲かアコースティック・ギターで歌ってから、エレキに持ち替えるはずだった。それなのに、なぜかディランはエレキ・ギターの演奏から始めた」とするバンド・メンバーの証言もあります。その一方で、ディランを応援する声があったとの説もあります。
ただしディランに向けた批判的なヤジは確かにあり、それはディランの耳にも届いていました。「それでも仲間か!」との声があったことを、ディラン自身が回想しています。「エド・サリバン・ショーに行っちまえ!」というヤジには、周囲から笑い声が起こったとも伝えられています。

こうして現場での様々が少しずつわかってくるにつれて、ニューポート・フェスの会場での出来事を含め、変化を求めたエレクトリック・ディランに批判を寄せたのは、フォーク純粋主義者だったとする見方が有力になってきました。どうしてフォークの世界に純粋主義者が出現するのかについては、かつてディランの恋人だったスーズ・ロトロ(『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のジャケット写真でディランと一緒に写っている女性)が、それは彼ら純粋主義者が都市の中産階級出身の学生であり、フォークを本やレコードでしか知らず、実際の現場を知らなかったからだと述べています。要するに頭デッカチだったということなのでしょう。「お前の歌はウディ・ガスリーの物真似だ。本物じゃない」とするその種の純粋主義者からのケチについて、ディランは「スノッブ」の一言で切り捨てました。

●1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルの最終日、7月25日夜にディランが歌った「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、7月20日にシングル盤としてすでに発表されていました。7月24日にはチャートに初登場、9月2日には全米2位のヒットとなります。こうしてフォーク純粋主義者を遥かに凌駕する多くの聴衆が、ディランのエレクトリック演奏を支持しました。
そしてディラン本人は、この年を最後にニューポート・フェスへの出演を取りやめ、2002年まで同フェスに出演することはありませんでした。

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