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実在していたジョン・ヘンリー

 アメリカの古いフォーク・ソング『ジョン・ヘンリー』のことを、書いてみたい。といっても、ご存知ない方がほとんどだろう。まずはブルース・スプリングスティーンの熱唱を聴いていただこう。


 歌のストーリーの骨子はこんな具合だ。
 ジョン・ヘンリーは、トンネル工事に従事する鉄道労働者。ハンマーを手に、固い岩を掘るのが仕事だ。ある時、親方が採掘の効率をあげるために、蒸気ドリルを持ち込むという。人間にしかできないことがあるとして、彼は反発した。ならばと、蒸気ドリルとジョン、どちらが早く掘り進められるか、両者の競争が用意される。ジョン・ヘンリーは、この競争に勝つことは勝ったものの、その翌日に死んでしまう。

 アメリカで広く周知されているからだろう、スプリングスティーンがはっきりそうと歌うことはないが、主人公のジョン・ヘンリーは、アフリカン・アメリカンの黒人ということが暗黙の了解になっている。時は南北戦争後の1870年ごろ、ヴァージニア州西部の山中のトンネル工事の現場。今日では複数の町が物語の舞台であることを主張し、ジョンの胸像が建てられている町、またジョンを英雄と称えるお祭りが、年に一度、開催されている町まである。

 このジョン・ヘンリーとは伝説上の人物か、それとも実在の人物なのか、長い間にわたって研究者の興味の的となってきた。ずっと伝説だと思い込んでいたけれども、調べるうちに実在する人物とわかったと、歴史学者、スコット・ネルソンは、自著『Steel Drivin' Man: John Henry』(Oxford University Press, U.S.A., 2008)に記している。残されていた公文書などの一次資料を駆使しつつ、この歌の成り立ちからその後の展開に至るまで、同書においてスコットは豊かな想像の翼を広げた。
 スコットの調査によると、ジョン・ヘンリーは南北戦争終了後の奴隷解放期に、軽微な犯罪によって10年の刑を科され収監された19歳の黒人の若者だったという。なるべく安く工事をしたい鉄道会社と、運営費の困窮に直面していた刑務所との双方の合意によって、何百人もの黒人の囚人が刑務所からトンネル工事に安価に貸し出された。彼もその中の一人だった。
 現場の環境は劣悪だったようだ。蒸気ドリルが置かれていたものの、魔法の機械などではなかった。トラブルが絶えることなく起きた。人の手の方が効率が良かったため、機械の横には人員が配置された。蒸気ドリルとハンドドリルが隣り合うことによって、絶えず巻き起こる大量の粉塵を吸い込み、労働者のほとんどが肺の病気によって死亡した。この状況を「悪魔の国から出られない」と歌うヴァージョンもあるほどだ。ジョン・ヘンリーもまた、数え切れない無名の死体のうちの一つとなった。

 『ジョン・ヘンリー』の歌は、鉄道や炭鉱で働く労働者や、囚人達の間で口伝えに広まり、人々の移動とともに黒人のみならず貧しい白人たちにも伝わった。彼らにとって、ジョン・ヘンリーが蒸気ドリルとの競争に勝つことが極めて重要だった。もしもジョンが負け、蒸気ドリルが競争に勝ってしまうなら、日々の仕事を失うことを意味した。それは、もう生き続けることは出来ない、との宣告に等しい。興味深いことに、同時に「働きすぎるな」との警告でもあったらしい。「あまり真面目に働きすぎると、命を失うことになる」という教訓を、伝えたのだ。まるで死者を悼む葬送曲のように囚人たちが歌う音源も、残されている。こうしてみると、『ジョン・ヘンリー』は、ただ彼を英雄と賛美するために、歌われ始めたのではないことがわかる。

 1900年代に入って、民俗学者たちが『ジョン・ヘンリー』の歌を"発見"した。様々な場所で歌われていたヴァージョンが、彼らの手によって一つのまとまった歌として整理された。登場し始めたブルース・シンガー歌い(ビック・ビル・ブルージーの回想によれば、『ジョン・ヘンリー』はパーティやキャバレーでの人気曲だったという)、またカントリー歌手のフィドリン・ジョン・カーソンがラジオ番組で歌った。1924年には、彼が初めてのレコード録音を行なっている。カントリーのシンガーが『ジョン・ヘンリー』を歌った際には、歌詞に黒人と特定されていないことから、白人の聴衆はジョンのことを白人労働者と思ったらしい。

 1930年代には、『ジョン・ヘンリー』の歌われ方が、大きく様変わりした。アメリカの大恐慌が深刻化するなかで、『ジョン・ヘンリー』のようなフォーク・ソングを掲げながら、志を同じくする勢力を結集しようと考える急進的な左翼勢力が登場した。アメリカ共産党である。彼らは『ジョン・ヘンリー』を、非人間的な資本家に対し「人間は人間でなければならない」と胸を張って抵抗し、人間の尊厳を表明した英雄的な人物と解釈してみせ、アメリカ南部における人種差別や、あからさまに黒人を差別する法律などを告発する端緒を見出した。チャールズ・シーガーは、この運動を牽引した音楽畑の代表的な一人だった。第二次世界大戦中、ヒットラーやムッソリーニらの独裁者が支配する国とは違い、アメリカは多民族を擁する活気に満ちた多様性に富む民主国家だと欧州に向けて宣伝するラジオ放送においても、フォーク・ソングが活用された。こちらの国家的な事業にも、チャールズ・シーガーは参加している。

 1950年代に始まるアメリカのフォーク・リヴァイバル期には、チャールズ・シーガーの息子、ピート・シーガーが、バンジョーを手に高らかに『ジョン・ヘンリー』を歌った。同時期のリヴァイバル・フォークのファンは、必ずやピート・シーガーの歌声を聴いているはずだ。彼は、ロックンロールの殿堂入りを果たしたフォーク・シンガーであると同時に、2014年に94歳で亡くなる直前まで平和や環境保護を訴える社会活動家であり続けた。冒頭において聴いて欲しいと取り上げたブルース・スプリングスティーンのヴァージョンは、彼が2006年に発表した『シーガー・セッション』収録の一曲で、同作はピート・シーガーのレパートリーを深い敬意を込めて歌ったアルバムだ。いわばピート・シーガー直系、さらに言えば1930年代に源流が求められる、もう一つの解釈による『ジョン・ヘンリー』を歌っていると言っていい。

 1966年には、ジョン・ヘンリーの郵便切手がアメリカで発行された。さらには2002年7月、5弦バンジョーを手に歌うピート・シーガーの写真をプリントした切手も発行された。エルビス・プレスリー、セロニアス・モンク、レイ・チャールズ、フランク・シナトラらと並んで、アメリカが誇る音楽家として切手に描かれる一人にピートが加わった。ジョン・ヘンリーも、ピート・シーガーも、このような敬意と共に扱われる人物である。


 かつて半世紀ほども前に、ボクは大学の卒論に『ジョン・ヘンリー』を取り上げた。古びた卒論を取り出して恐る恐る読み返してみると、こんなことを結論として書いていた。「歌われた歌は、事実のそのままではない。"蒸気ドリル"が物語る近代化の進行におびえつつも、人間の力を誇りたいとする人々の願いがジョン・ヘンリーという想像上の人間像を作り出した。『ジョン・ヘンリー』において、人々はあたかも事実を口承するかのように装いつつ、そこにもうひとつの物語を縫い込んだに違いない」。
 スコット・ネルソンの詳細な調査によってジョン・ヘンリーが実在の人物だった可能性が大きく開かれてみると、この点の修正が余儀なくされるだろう。しかし「想像上の」という一言を省きさえすれば、スコット・ネルソン以降の今も、この結論は有効ではないかとボクは思った。フォーク・ソングとは、伝言ゲームのようなものだ。あたかもニュースを歌にして伝えるドキュメンタリーのような顔をしているくせに、物語の向かう先は実際の出来事から離れていく。そこに人々の願いや恐れや知恵が、縫い込まれていく。フォーク・ソング『ジョン・ヘンリー』が描くところの人物、ジョン・ヘンリーは、実在の人物でありつつ、人々の想像が加味された人物でもあったのだ。

 1870年頃のヴァージニア州において黒人がおかれた状況は、とてつもなく苛烈だ。微罪と引き換えの10年の収監刑は、ジョンに途方もない絶望を与えたことだろう。そしてこの絶望は、彼一人のものではなかった。たとえ刑務所に収監されていなくとも、多くの黒人たちにふとした機会に降りかかる可能性があった。
 英雄とは、栄光のすぐ隣に死を携えて生きる人間に与えられる称号なのだろうか。ジョン・ヘンリーの栄光と死を巡る物語歌『ジョン・ヘンリー』には、栄光という名の人々の願望と、絶望という名の現実の直視が折り込まれているように、ボクには聞こえる。


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