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ピート・シーガーは、ボブ・ディランを裏切り者だなんて、言ってない。

 最近になって、ソロ演奏でのライブを始めました。岐阜県大垣でのソロ・ライブの際に、客席にいらしたのが古川斉さんでした。
 終演後に古川さんから、ピート・シーガーとアメリカで面談した経験があると、伺いました。ピート・シーガーといえば、「花はどこへ行った」「天使のハンマー」「ターン・ターン・ターン」など、今なお歌い継がれる親しみ深いフォーク・ソングの作者であり、歌を携えて行動したフォーク・シンガー、そしてアクティビストとして知られています。

 古川さんは、さらにこう続けました。エレキ・ギターを手にしたボブ・ディランに反対した旧主派であると自分は伝えられているが、それは事実と違うと、ピートが述べたということでした。これには驚きました。

 フォーク・ギターをエレキギターに持ち替えたボブ・ディランによる、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでの演奏をもって、ロックが誕生したとするのは、音楽史の定説になっています。そのディランの行動に、フォーク・ソングを守ろうとして現場で裏切り者と酷評し、ノーを突きつけた急先鋒がピート・シーガーだったとすることも、ひとまずの定説となっています。つい先日、2024年3月8日にNHKで放送された番組「ボブ・ディラン〜ノーベル文学賞 原点のステージ〜」においては、当日の会場でステージ制作を担当していたジョー・ボイドの発言を根拠に、ロックの扉を開けたディランに失望して怒りを表明したフェス・スタッフたち重鎮の一人として、ピート・シーガーが描かれていました。

 こうしてまことしやかに語られるロック史上のピートをめぐる言説は、事実と違うというのが、彼の主張だったというのです。これは大変に興味深いと思い、自宅に戻ってから古川さんにメールでインタビューを申し込みました。二週間ほどして、古川さんより長文の返信が届きました。それをまとめたものが、こちらになります。当時の写真などもお借りして、文中に挟みました。

矢沢寛さんとの出会い

大江田:2000年に訪米されて、ピート・シーガーと面談されたと伺いました。どのようにしてピートと会うことになったのか、その際の経緯をお教え願えますか?

古川:2000年当時、私は北海道の公立高校の社会科教員でした。社会の動きに伴うに従って、教員としての自分の活動や、これからの自分の人生について、閉塞感に苛まれている状態でした。新婚だったにも関わらず、人生もそろそろ最後だ、思い残す事があるならば、今のうちに少しづつやっていこうなどと、思っていました。
 私の「最後の夢」はピート・シーガーを見たい、見られなくてもせめてファンレターを書きたい、返信なんて来なくていいから、想いを伝えられれば、私は十分満足して死ねると考えました。ピート・シーガーの歌を聞いたことをきっかけに、いろんな社会問題に強く関心を持ち、ピート・シーガーのようになりたくて皆の前で歌ったり、彼のように生きたいと思って学生自治会に入り、いくつかの市民運動にも参加し、企業就職を拒否し、都会ではない場所で何かをやっていきたい、といきめいていた・・・彼の歌と共にあり、影響を受けた私の青年期の想いを、ピート・シーガーに伝えたいと思ったのです。

古川:ふと本棚を見ると、大学通学の際に毎日のように利用していた国立駅真横の古本屋で500円で購入した「歌わずにはいられない ピート・シーガー物語 」(D.K.ダナウェイ著、矢沢寛訳、1984年、社会思想社)が、ありました。巻末を見ると翻訳を担当された矢沢寛さんの住所が、書いてありました。「そうだ、ピート・シーガーにファンレターを書こう」と思い、矢沢さんに葉書をしたため、ピート・シーガーへのファンレターの宛先を聞きました。勿論ピートは神様ですから彼からの返事なんて期待していませんし、さらに著名な音楽評論家の矢沢さんからのお返事さえもないだろうと思いましたが、とにかく自分の憂鬱とした気持ちを払拭するために葉書を書きたかったのです。

 すぐに矢沢さんから電話が来ました。仕事から帰ると「矢沢っていう人から電話あったで」とツレが言うので、「心当たりないなぁ」と呟き、もらった番号に掛けました。そこで初めて、相手が葉書を送った相手の矢沢さんだと知りました。矢沢さんは、私のご挨拶に「美辞麗句や、おべんちゃら言わなくていいの!翻訳の件で6月にピート・シーガーに会いに行くので、一緒に行こう。ツアー形式にしてあるので、ハドソン・リバー・フェスティバルも行けるし、お得な一週間だよ」と言われ、即答で「行きます」と伝えました。

 家には2月に生まれたばかりの赤ん坊がいたにも関わらず、ツレは「赤ん坊の事はいいから。行って来たら」と、言ってくれました。高校では担任を受け持っていましたが、翌日には「1週間休ませてくれないなら、学校を辞める」と学年主任に言い切り、相談しました。教科書に「勝利を我等に / We shall overcomeの歌ができるまで」というタイトルで、バスの後部座席にしか乗れない黒人差別のドキュメンタリーが掲載されており、キング牧師とピート・シーガーの事が写真入りで紹介されていることを英語の教員が発見し、校長・事務長からも「そんな偉い人に会うのか」ということで、自宅外研修扱いが認められました。といっても旅費等は自己負担でしたけれど。新年度が始まり大事な時期でもありましたが、学校を1週間離れることを許可してもらいました。

古川:ツアー・コンダクターの阿部さんからは、全く知らない人を矢沢さんが直接お誘いするのは珍しく、さらに矢沢さんは当時肺がんの手術をされ、余命がきついと言われている状態であり、気が立っていたり、夜中に起きてガサガサしたり、いろいろ怒られることもあるので、ホテルの部屋は自分と同室にしたと言われました。矢沢さんは、難しい方かなぁと思ってしまいました。滞在中、阿部さんから、「矢沢さんがゆっくり君と話がしたい」と言っていると伝えられ、「怒られてもうまく流してね」などと、アドバイスされました。
 矢沢さんからは、こんなお話がありました。「単なる造糞機になるなよ。実はピートの家にある資料の整理をする人を探しているんだが、紹介してやってもいいけど、絶対にピート・シーガーのコレクターだけにはなるな。人間の社会を少しでも良くなるような活動をしろよ。頼むからフォークの運動でもなんでもやってくれよ。俺も協力してやるから。今フォーク歌手でそんなことをしているのはトム・パクストンだけだよ。日本にもフォークソング・ブームやうたごえ運動があったけど、いまあの頃に出来た歌でフォークソングと言えるものは、中島光一の「大きな歌」ぐらいじゃないのかなぁ」。
 アメリカ滞在中、矢沢さんとお話する機会を何度か持とうとしたのですが、体調面などでなかなか適いませんでした。 

ニューヨークへ

古川:ピート・シーガー氏に初めてお会いしたのは、ハドソン・リバー・フェスティバルの初日か、準備日の時だったと思います。6月中旬で、雨でした。会場を探していろんな人に矢沢さんが場所を聞き、冷たい雨の中、オレンジのレインコートを着て、設営のためのロープなどを張っている背の高い人に声を掛けると、一気に立て板に水のように、かつ長々と精力的にお話をされました。彼がピート氏だと気づくまでには、しばらく時間がかかりました。そこにはピート氏が作った手作りの電気自動車が置いてあり、「やる気になれば、こんなことは簡単に作れるのだ」とのことでした。その後、矢沢さんはピート氏と二人で、その後の予定を確認するためにお話をされました。何かピート氏と話そうと思い「雨は嫌ですね」と声をかけたら、目を見開いて微笑みながら、「雨は木々や植物を育て、動物たちを潤すのだから嫌いじゃないよ」と言われました。

 翌日に行ったフェスティバルのクリア・ステージでは、ピート氏の出番が始まると多くのお客さんが集まりはじめ、当時流行っていたソニーのハンディカムを皆がずらっと並べて、VTRを撮っていました。ハドソン川を背景にした舞台で子供たちと「アビヨーヨー」を歌うなどしたのち、「私は長生きし過ぎたおかげで、幸運にも世の現実が変わっていくのを、見ることができた。おかげでじっくりものを考えて行動していけば、なんとかなるという作戦を手に入れた」と話され、歳をとればとるほど前向きに考える姿勢を見せてくれました。そしてかつて大変な汚染があったハドソン川を差して、「うしろで泳いでいる子供たちをみるたびに、そう思う」と締めくくられました。


「アビヨーヨー」とは、南アフリカの昔話をもとに、ピート・シーガーが創作した物語歌。日本では1987年に岩波書店より、翻訳された絵本が出版されており、岩波書店のホームページでは、このように紹介されています。

ウクレレの好きな小さい男の子と魔法の杖をもつお父さんは,力をあわせて人食い巨人から村人たちを守ります.南アフリカの昔話をもとに,フォーク歌手ピート・シーガーが創作したストーリー・ソング。



ピート・シーガーのライブの模様


ピート氏との会談

大江田:古川さんは、ピート・シーガーご本人とどのようなお話をされたのでしょう?

古川:滞在の後半の頃、「ピート・シーガーと孫のタオさんのコンサートが、フェスティバル初日の夕方からあるが、その前にピートと世界貿易センター前広場で会う約束をした。1時間ほど時間あげるから、好きなことを話していいよ。通訳も来てもらうから」と、矢沢さんから言われました。私は自分が話すことぐらいは英語で話したいと思い、ホテルの部屋で草稿を練りました。
 翌日には私たちツアーの一行と、30代前半と思しき通訳の日本人女性とで世界貿易センターに行きました。通訳女性は確か航空会社に勤めており、「同僚にピート・シーガーという人の通訳を頼まれた、と言ったら、皆からびっくりされて、『凄い幸運だよ!』と言われたのですが、私はすみません、ピートの事は知りませんでした」と、言っておられました。

 ピート氏は奥様のトシさんとフェスティバルの主催の方とともに、人通りの多いドアの傍でごく自然に背筋をしゃんとして、立っておられました。ソフトクリームを食べながら口の周りをチョコでべたべたにして、首からハドソン・リバー・フェスティバルの宣伝のチラシを貼った段ボール製と思しきプレートをぶら下げて。唖然として見ていると「食べたければ、あっちに売っているよ」と、真顔で教えてくれました。時折、通る人があいさつやサインを求めていました。「私はあなたを尊敬しております」と若い通りがかりの方が言うと、ピート氏は「あの頃とは違って、頭の髪の毛はご覧のように無くなってしまいましたよ」と笑っていました。
 私たち一行への挨拶が終わると、「ちょっと待っていてくれ」と言って、30分ぐらい戻って来ませんでした。帰って来るなり、両手にいっぱいに「種をまく人 / Seed Folks」の本を買ってきて、皆に1冊づつプレゼントしてくれました。「これを読んでほしい。これからの市民運動の参考になると思う」と、言っていたと思います。30分かかったのは、きっと一つの書店だけでは足りなかったので、何店舗も回りかき集めてきたのではないかと思いました。

Seed Folks  by Paul Fleischman , 1997

古川:その後、世界貿易センターの外の広場に出て、カフェテーブル横の花壇に座り、みんなで話を始めました。ピート氏のお友達の人が、横に座ってマイクを持って録音していました。ピート氏は、一方的にしゃべり始めました。「私の人生は無数の裁判の連続で(これは下院非米国活動委員会の件やマッカーシズムや人種差別闘争の闘いの事を言い始めるのだな、と勘繰っていたら)、「アビヨーヨー」や「ライオンは寝ている」などの著作権の裁判等で訴えられて、その対応に迫られることに沢山の時間を費やしてしまったのです」と語り、「そんなもんですよ」と言いたいのでしょう、苦み虫を噛み潰したような顔をされました。そしてハドソン河浄化運動のこと、最近、力を入れているというスラムでのガーデニング運動と話は続きました。彼の話は尽きず、さっき買ってきた「種をまく人」という本を手に、レクチャーまで始めました。  


ハドソン河浄化運動については、Wikipediaのピート・シーガーの項において、下記のように説明されています。

シーガーは、1966年に環境保護団体“Hudson River Sloop Clearwater”の創設に参加して以来、この組織に長く関わっている。この組織は当時からハドソン川の水質汚染を取り上げて、その改善に取り組んできた。その取り組みの一環として、帆船(スループ)「クリアウォーター(Clearwater)」が1969年に建造され、処女航海ではメイン州からニューヨーク市のサウス・ストリート・シーポート博物館へと回航し、そこからハドソン川を遡上した。


古川:「あなたのレコードやCDを50枚ぐらい持っています。生まれたばかりの子にも、子守歌代わりに『勝利を我等に / We shall overcome』を歌ったりしています」と私が言うと、ピート氏は「それは嬉しいけど、嬉しくない。そういってしまうと、嘘になるかもしれないけど」と言われました。「旅人と仲間 / Stranger &Cousins」(1965)というアルバムの裏ジャケットに、彼が書いていたことだなとすぐにわかりました。「その地域の歌をその地域の言葉で歌うのが一番いいのだと思う。英語が広がりすぎるのは良くないと思う。Think Globally, Act Locally」と言いながら、英語の欠点をいろいろと話され、それをテーマにした歌(古川注:おそらくEnglish Is Cuh-Ray-Zee )も作ったとのことでした。「フォークソングの世界というのは、音楽の世界の中でも小さい小さい非常に小さい世界で、更に私たちが歌っている世界はその中でも、もっともっと小さな世界だ。だから歌で政治は変えられないよ。政治を変えたいと思うなら政治家にならないと」と、きっぱり言われました。

古川:「10年ぐらい前にインドに行った時です。カルカッタやアグラー、ジャイプールの街に行っても日本人と見るや、「ナイスガール買うか?いいホテルあるぞ」、「絨毯安いよ」と、ポン引きさんがたくさん押し寄せてきて、喧噪な雰囲気になるのです。そこで何の気なしにあなたの「旅人と仲間 / Stranger Cousins」に入っていた曲で、ガンジーが好きだったという「ラグパティ / Ragaputi」を口ずさみました。ヒンズー語は知りませんが、何回も聞いているうちに歌詞も覚えて歌えました。すると私を取り巻いていたポン引きの方々の態度がガラッと変わりました。一瞬静かになり、「なんでお前はその歌をしているのか?どこで習ったのか?日本ではそんな歌を教えているのか?これは凄いインドの伝統の歌なんだぞ!」と、質問が次々と来ました。そして「お前は今日は俺の家に泊まれ!」「俺がご飯をおごる。一緒に食べよう」と、まったく正反対の対応になってしまいました。普通はこんなこと言われても付いていきませんが、取り囲んだ彼らの目が明らかに違ったのでとある方の家に行き、家族の方を紹介してもらい、御飯もいただき一晩寝さしてもらいました。山の中腹にある洞穴のような感じの家でした。「こちらワイフ、キリスト教徒。私はヒンズー。でもノー・プロブレム。そして娘」。彼女は、小学生ぐらいでしたが、笑顔でラッシーを作ってくれたり、私の皿を洗ったりしてくれました。こんなことがあり、インドではあなたのレコードを聴いていたおかげで、ありがたい経験をさせていただきました」と、伝えました。
 ピート氏とお友達は私の拙い英語にもかかわらず、真剣な目でずっと無言で聞いてくれました。そして最後に「いい話だよ。すごいいい話を聞かせてもらった。これが歌の力であり、フォークソング、人々の歌なんだね」とお友達と言い合っていた。そしてお友達から「ラジオで流させてもらっていいかね」と聞かれたので「どうぞ」と答えました。

Pete Seeger と古川斉さん

1965年ニューポート・フォーク・フェスティヴァルの真実

大江田:先にお会いした際に、一通りの会話が終わってのち、ピート本人からこのようなお話があったと伺いました。
 1965年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルにおいて、ボブ・ディランがエレキ・ギターを持ってステージに登場し、「ライク・ア・ローリング・ストーン」を含む3曲をロックのサウンドと共に演奏したことは、ロック誕生の瞬間であり、音楽史に残る出来事とされています。その現場でディランをフォークから転向した裏切り者と酷評した旧主派を代表する人物が、ピート・シーガーだったとして、これまで伝えられてきました。この説は、デヴィッド・K・ダナウェイによるピート・シーガーの伝記書「歌わずにはいられない ピート・シーガー物語 」を根拠としています。
 「実は、決してそんなことはない」というのがピートの主張であり、この誤解をピート自身が解きたいとの希望を、長年に渡って持っているといった内容でした。

Where Have All the Flowers Gone: A Musical Autobiography by Pete Seeger

大江田:ピート・シーガーの著書「Where Have All the Flowers Gone: A Musical Autobiography」(1996, Oak Publications)(邦訳は矢沢寛訳「虹の民におくる歌」2000年、社会思想社)において、自作の「ターン・ターン・ターン」の歌詞の解説をする過程で、「ボブ・ディランが1965年7月25日のニューポートでエレキ・ギターに持ち替えたとき、私は彼に腹を立てたわけではない。私はサウンドシステムに激怒したのだ。ケーブルを切りたかった。ボブは彼のベストソングのひとつである「マギーズ・ファーム」を歌っていたが、ひずんでいて一言も理解できなかった」と述べています。また一方でザ・バーズのエレクトリックなサウンドによる「ターン・ターン・ターン」(1965年秋発表)に大喜びしたとも述べており、ロックなサウンドを否定していません。
 誤解を解きたいとしてピート自身が語った発言の詳細を、お教え願えますか?

古川:18時半からのコンサートを控え、声が出なくなるのを恐れイライラを隠せない様子だった妻のトシさんが、40分ぐらいでドクターストップをかけ、面談は終わりました。その後は、ツアーに参加された一行の方々が、日本酒やらいろいろなものをピート氏にプレゼントしました。ピート氏が「お酒だけでなく寿司も大好きです」と言うと、日本から来られた方が「ベジタリアンと聞いているのに、お寿司を食べてもいいのですか?」と聞き返しましたが、笑っていました。私は加納沖トンコリのアルバムをプレゼントしました。そしてハドソン・リバー・フェスティバルのTシャツやいろんなものにサインをもらいました。ピート氏のポルトガル盤のライブ・アルバムに入っていた解説書の家族写真にサインを求めると、「これは私どもが許可していない写真だ」とトシさんともども言われ、解説書を貸して欲しいと言われたのでお渡ししました。そして最後に、だいぶ割愛されたものの、日本で「虹の民におくる歌」が矢沢さんらのおかげで発売されることになったことのお礼を言われ、是非日本の方に伝えたいことが一つあると続きました。私は、市民運動で疲れた人々に勇気を与えるようなことを言われるのかな、と勘繰っていました。

Pete Seeger Ao Vivo Em Lisboa (RT Internacional – RTI 12-15, 1984, Portuguese Press)

古川:「以前に日本で発売された『歌わずにはいられない ピート・シーガー物語 』で、僕とボブ・ディランの仲が悪いと思っている人が沢山いるけれど、そんなことはない。これを伝えたい。『Where Have All the Flowers Gone』にもちゃんと書いたし、日本語翻訳版『虹の民におくる歌』でも残してもらった。最近も電話でボブと話をしたし、ウディ・ガスリーのメモリアル・コンサートでも一緒に歌ったんだよ。著者のデヴィッド・K・ダナウェイにも『ニューポート・フォーク・フェスティバルでの一件のところを書き直してくれ』と何度も頼んだけど、してくれないんだ。ボブが早い時期からエレキ・ギターに興味を持っていたことは知っていたし、使っているのも知っていた。私は彼の歌で『マギーズ・ファーム』は大好きだし、私は電気音楽が嫌いではない。トリニ・ロペスの『天使のハンマー』や、ザ・バーズの『ターン・ターン・ターン』でのやり方も、素晴らしいと思っている。あの時は、スタッフがディランの音楽スタイルのシステムに慣れていなくて、音が変になった時に、どの線をたどってどれを調整すればいいのか、私も含めてみんな混乱していたので、『斧でケーブルを切りたい』と言ったのだ。ボブがステージ裏に戻ってくる時には、あんな音で演奏させてしまって、ボブに本当に申し訳ない気持ちでいっぱいで泣きそうだったのだ」とのことでした。

前列左からピート・シーガー、ボブ・ディラン、アーロ・ガスリー。後列左からロバート・ライアン、ミラード・ランベル、ジュディ・コリンズ、マリー・ガスリー。1968年1月20日のカーネギー・ホールにおけるウディ・ガスリー・メモリアル・コンサートより。

余録:その後のコンサート

古川:その4時間後、これから約1ヶ月続くの初日の舞台に、ピート・シーガーと孫のタオ・ロドリゲスが立っていました。ライブがスタートする一時間前には、パイプ椅子席は全部埋まっており、立ち見やテラス、地べたに座り込んでいる人などをあわせると、1万人弱はその場にいたのではないかと思います。正直言って、こんなに集まるとは思ってもみませんでした。ソニーのハンディカムを廻している人もあっちこっちにいて、舞台の前にはずらっと凄い数のハンディカムの三脚が立ち並んでいました。
 そしてコンサートはアルバム「Banks of marble / バンク・オブ・マーブル 」に収められていた名曲「地球は回る / Well May the World Go」からはじまりました。観客と共にシングアウトしていく様子は、これまで聞いていたライブ・アルバムそのままでした。

Pete Seeger & Tao Rodriguez Seeger @ Hudson River Festival

古川:高校1年の時、ソニーからリリースされた Another Side of 60's シリーズのうちの一枚、ピート・シーガーの「勝利を我らに(ピート・シーガー・ライブ)」でカーネギー・コンサートでのライブを聞きました。アルバム1曲目、「バスの後部席で / If You Miss Me At The Back Of The Bus」の冒頭、「If You Miss me」と流れた瞬間、この雰囲気、こんな歌、この歌い方、こういうメロディ・・・ああこれが自分が探し求めていたものだ!と霊感しました。

「勝利を我らに(ピート・シーガー・ライブ)」(CBS/Sony 20AP 2117, 1981)

古川:その時は、彼は既に亡くなっているのではないかと思ってレコードを聴いていたし、まさか彼のコンサートに行くことも、共にも角にも「勝利を我等に / We shall overcome」なんて聞けるなんて思っても見ませんでした。勿論のこと、直接お会いして30分以上も話しをすることも。
 今振り返ると、「最後の夢」が「新しい夢」の始まりになっていました。


Pete Seeger photo by Furukawa


大江田記:
 古川さんが聞いたというピート・シーガーの発言には、耳を傾けさせる誠実さがあると感じました。ピート・シーガーのディランに寄せる想い、ピートと伝記作家とのやりとりにも、リアリティを感じます。
 そして人生に閉塞感を感じていた一人の青年、古川斉さんが、ピートとの面談を通して「新しい夢」を得ることになったという経緯に、なによりボクは共感させられました。

 ボブ・ディランの1965年ニューポート・フォーク・フェスティバルにおけるロック演奏をめぐって、丁寧に追いかけた良書「ボブ・ディランの転向は、なぜ事件だったのか』(2011年、太田睦著、2011年、論創社)においても、やはりD.K.ダナウェイの「歌わずにはいられない ピート・シーガー物語 」を参照した記述があります。ダナウェイ著による伝記のほかに、ピートの経歴を知ることができる資料が見つからないということも、恐らくその理由の一つなのでしょう。
 一方でボブ・ディランの作品の日本における発売元CBSソニーで、長く担当ディレクターを担われた菅野ヘッケルさんから、このようなお話を伺ったことがあります。1999年9月7日のことでした。

大江田:でも、実際に65年のニューポートで、ポール・バターフィールドたちとエレキ・ギター持ってステージに立ったら、すごいブーイングが起きた、とか何とか。
菅野:あれはね、いろいろ説があるけど。一番最近の説として信憑性高いのは、ひとつには「時間が短すぎる」と。みんなディランを目当てに来てるのに、ディランのステージはすごい短かった。エレクトリックでやれるのは3曲しか無かったしね。それだけでステージが終わっちゃった、とお客さんがみんな思っちゃって(ブーイングした)。それが最大の原因。もう一個の説は「ミキシングが悪くて、ディランの声が聞こえない」。初めてだからね、ああいうデカい野外でエレクトリック・バンドでやるってこと自体もね。
松永:確かに「フォークしか聴かないから、電気楽器なんかケシカラン」って過剰反応は変ではありますよね。話としては判りやすいかもしれないけど。
菅野:マスコミとかがね、「ああいう神聖なフォークの場所でロックをやったので非難された」って報道をやって、それが全世界に広まって。だから、その後、ザ・バンドと行ったイギリス公演では、みんなが「これはブーイングしなきゃいけない」って雰囲気を作っちゃった。純粋フォーク信仰者たちは「ディランがエレクトリックで出て来たら、ゆっくりした手拍子をしてブーイングをする」って打ち合わせまでしてたんだから。そういう話が、そのまま日本まで伝わってきて定説になっちゃったんだ。

 菅野さんは英米の情報を受け止めつつ、冷静に分析されています。こうした知見を踏まえて、古川さんの体験談を読まれてもいいのだろうと思います。上記のインタビューは、松長良平著「20世紀グレーテスト・ヒッツ~20世紀ポピュラー音楽をめぐる記憶から~」に収録されています。

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