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「君を独り占めしたい!」とのナンパの歌

中国行きのスロウ・ボート

「中国行きのスロウ・ボート」は、小説のタイトルとして知った。著者は村上春樹。そういう歌があることは、知らなかった。小説を読み終えてから、初めて歌を聞いた。

恋人に欲しいと希望する数多い志願者を岸壁に取り残して、アメリカから中国まで彼女を独占しつつ長い船旅を過ごせば、気を許してくれるだろうと歌う。スロウ・ボートとは貨物船のことだ。作詞作曲は、フランク・レッサー。1948年にハリー・バビットとグロリア・ウッドの男女ボーカルをフィーチャーしたケイ・カイザー・オーケストラのレコードが全米2位を記録し、そのほか6種類のレコードが50位以内にチャート・インするヒットとなった。

この後、多くのポピュラー・シンガーやジャズミュージシャンに取り上げられた。村上春樹は、ソニー・ロリンズが演奏する「中国行きのスロウ・ボート」が大好きで、そこから小説のタイトルを取ったという。

ある時、アメリカ買い付けで買ったレコードを日本に送ろうと、郵便局に立ち寄った。片田舎の小さい郵便局だった。窓口にレコードを目一杯詰め込んだ箱を乗せると、係りの女性は「By boat? Or plane?」と尋ねた。レコードの買い付けを始めた初期のこと、そして国際郵便にまだ船便という選択肢があった頃だから、20年くらい前のことだろうと思う。できる限り経費を安くしたくて「By boat」と答えると、彼女は「I'd like to get you」と歌い出して、笑った。ああ、これは「中国行きのスロウ・ボート」の冒頭の歌詞だとわかった僕も、一緒に「On a slow boat to China」と続けた。
いわば恋人を幽閉する歌なのだから、危ないといえば危ないのだろうが、むしろどこかユーモラスな歌と思われているのかも知れないと、彼女の笑い声から思った。そういえば「China」を「Japan」に変えて歌えばよかった。今になって気づいても遅いけれども。

こうした文章を、ささやかなメルマガに投稿したことがある。

友人の女性がこれを読んでくれ、「月でも異国でも何処でもいいから、君をライバルから遠ざけて、独り占めして二人きりで居たい!という感じ。"幽閉"というよりは、もっと砕けたナンパ文句のような気もしないでもないけど」と感想のメールをくれた。

砕けたナンパの歌じゃない?という指摘に、なるほどと思いつつ、もう少し調べてみた。

「中国行きのスロウ・ボート」が書かれた1948年、この時、すでにクルーズ船による世界旅行の旅が始まっている。その一方で、多くの船は貨物とともに旅客も運んでいた。米中間には郵便物を運ぶ定期便もあった。サンフランシスコから香港まで、航路でほぼ1ヶ月。となると「中国行きのスロウ・ボート」も、あながち空想の産物ではなく、実際に運行されていたのかもしれない。

だからと言って当時のアメリカにおいて、中国が手の届く外国だったのかと言うと、どうやらそうでもなさそうだ。「中国行きのスロウ・ボート」から3年後、ドリス・デイによる1951年の全米9位のヒット曲「シャンハイ」は、こんな物語だ。恋人に引き止めて欲しいと願っている主人公が、シャンハイに行くつもりだと、つい嘘をついてしまう。喧嘩のあとの仲直りが欲しくて、彼女は可愛い言い訳を弄している。ここでの"シャンハイ"は、もう二度と会えないくらい途方もなく遠い場所の比喩だ。おそらくこれが、多くのアメリカ人にとっての中国だったのだろう。


こうしてみると、長時間の船上で「二人きりになって、君を独り占めしたい!」との友人女性の解釈は、なるほど、その通りかもしれないと思った。ボクが使った"幽閉"ではいささか陰湿な感じもして言葉が過ぎると思い直し、"砕けたナンパ文句の歌"とは言い得ているなあと思わず笑った。

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