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アニータ・ムアジャーニと霊性進化

霊性進化はあるのか

前回、アニータ・ムアジャーニは霊性進化を念頭に置いてないのではないかと書いた。それは著者が魂は生まれながらにして神と等しく、現世の悪を浄化させるために現世に生まれると『喜びから人生を生きる』で書いていたからだ。しかし、曖昧な部分もあった。現世での効果を「意識の拡大」などと言っていたし、現世の役割をすれば結局のところ霊的成長するしかないのではないか、という疑問が払しょくできなかったからだ。

しかし、2冊目の著書『もしここが天国だったら』では、はっきりと霊性進化の肯定をしている。それは275ページで、

痛みは、必ず贈り物を伴います。何にも増して、痛みは喪失感や悲嘆、苦悩を経験している人たちをもっと理解したいという共感を、私たちに与えてくれます。これらの経験は、私たちをもっと人間らしくし、もっと神に近づけてくれることでしょう。

とあるからだ。霊性進化がなければ、どうしてもこの世で苦痛を味わわなければならない理由が正当化できないのだ。悪の浄化への実験として一方的に派遣されているだけだと、神は苦痛を与える存在ということに終始してしまうのではないか。

階層はないというけれど

霊性進化があるとなると、個別の霊魂間の進化度に応じた階層が存在するのではないか、という疑問が浮かぶが、著者がこれを否定するのは、全ての魂は神のもとにワンネスだからだ。著者の中では、全ての魂が同一のものだから、個別に評価することがそもそもできないのだ。

だがしかし、現世で個別性を与えられるのは、死後の世界でも個別性が存在するからだ。死後の世界では個別性が神のもとにワンネスの状態で、真の個別にならない。だから、現世で完全なる個別になることによって、個別ということの経験をするのだ。

このあたりの話は江原啓之と共通のものだ。

しかし、個別性と霊性進化が存在するならば、階層がないとおかしい。江原啓之の教義だとここで「類は友を呼ぶ」という概念が出てきて、近いレベルの者同士が集合しているのが死後の世界で、だから階層というものが存在する。

アニータの話だと、死後は神のもとにワンネスに戻るから一個になる、だから階層はない。

江原は言っていただろう「個にして全、全にして個」と。

アニータの話も間違いではない、しかし、それは一側面なのであり、やはり階層も存在するとするのが理に適っているのではないだろうか。

アニータが既存のスピリチュアル思想に疎いわけではない。著者は引き寄せの法則について、癌の闘病中に懸命に追求した。その過程で、カルマや階層の話にも出くわしたのだと思う。だからこそ、カルマや階層がないことをことさら強調したいのだと思う。

ちなみに引き寄せの法則についても本書では否定されている。ポジティブになろうとするあまり、それができないと不安を増長させ、例えば癌が余計にこじれる。ネガティブでも良いのだ、どこまでもありのままの自分でいればいいのだ、ありのままの自分でいることが個別性の発揮なのであり、現世を生きる目的なのだ、と著者は言う。

私はこの点については大変理に適っていると思う。ありのままの自分でないと、個別性を発揮したことにならない。誰かの言う通り右へならえだと、自分が生きていることにならない。

カルマはない、そして輪廻転生の概念

罰はない。ここは江原啓之と違う。罪は苦しみの結果である。それは死後の世界で癒される問題で、罰を受けることではない。

輪廻転生で過去のカルマを解消することもない。個別の魂が輪廻転生するのではなく、一個の神から常に派遣されるものが魂なのである。だから個別の魂のカルマなどと言うものはない。

じゃあ、一度きりの人生なのか、生まれ変わることはもうできないのか、というと、そうでもない。あくまで死後の世界ではすべてがワンネスだ。だから、新しく派遣される魂はたくさんある。そういう意味で常にワンネスは輪廻転生している。個別の魂が輪廻転生するという見方がおかしい。

江原啓之では自由意思と自己責任が強調されていた。だからカルマの解消があり、それが霊性進化論を形作っていた。

アニータでも自由意思はある。しかし、いくら自由意思でも犯罪をせざるを得ないのは不可抗力だとする。だから罰されない。カルマもない。むしろ、大変な仕事を終えたということになる。

霊性進化の哲学は維持される

結局、著者は霊性進化を肯定した。ならば、霊性進化の哲学という神秘主義の本丸は命脈を保ったままだ。

著者がとりわけ強調したいのは、ありのままの自分で生きるということに尽きる。神が現世に派遣したのは、個別性が個別であるためなのだ。その個別を体現せずして生きたことにならない。社会の因習とか、はたまた近代スピリチュアリズムの教義でも良いのだが、誰かが言ったことに忠実である必要はない。自分の心の声に忠実であるべきだ。著者はそう言うのだ。

自殺者の魂は罰されない

ここも江原啓之、いや近代スピリチュアリズム全体と大きく違うところだ。自殺を禁止することは元はキリスト教から来ている。

だが、著者は自殺するほど苦しい思いをしたのに、どうしてその仕事が死後の世界で罰されようか、という。これも犯罪と同じ理屈である。

私はこう思う、ただでさえ苦しみの現世に、神の成長のための実験として来たのに、どうしてその使者の仕事がたとえ挫折したとしても罰の対象になるだろうか、と。

江原啓之と近代スピリチュアリズムは、自殺者はその人生をもう一度初めから同じカルマ、同じ苦しみを味わってやり直さなければならない、という。霊性進化とはそれほど苦しいものだ。これは意地の悪い世界構造だ。

神が愛の存在なら、そんなイジメのような世界構造にはしないはずだ。

やはり、霊的知識は新しくもたらされるほど改良されていくような気がする。

アニータの世界と近代スピリチュアリズムの違い

近代スピリチュアリズムでは、神との融合は長い研さんの末叶う。

アニータ・ムアジャーニでは、神との融合は死後に即来る。

アニータ・ムアジャーニの言いたいところはそこなのではないか、という気がする。

もっとも、その違いは現世を生きる私たちにとって、それほど重要ではない。重要なのはこの世を生きるための哲学の方なのだ。


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