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現実に起こるとは思わなかった世界大戦が起きた・・ウクライナ侵攻に想うこと 17

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まさか第3次世界大戦が現実に起こるとは・・・

第3次大戦が起こるとは思っていませんでした。今ウクライナで起きている事は一応まだ、テレビや新聞では「第3次世界大戦」とは言っていません。しかし西側諸国の多くがウクライナに武器弾薬、食料、医薬品などを大量に支援として送り込んでいる以上、これはもう世界大戦以外の何物でもないと思います。

私は1958年生まれです。子供の頃は、戦いに憧れていました。第2次大戦時の記録映像をふんだんに使った戦争映画がたくさん作られていました。たくさん見ました。子供の私には、兵器のカッコよさだけが印象的でした。特に、飛行機には強く憧れました。これは、襲撃機、今で言う戦闘攻撃機のパイロットであった父の血を受け継いでいるのかも、とも思いました。

そして子供向けの漫画もアニメも、戦いの物語が多かったように思います。そういった多くの戦いの物語は、作品のテーマ的には、戦士の人間性を賞賛する作品が多かったように思いますが、私は作品の人間的なテーマには全く関心がなく、私の関心はひたすら戦闘メカについてでした。

戦闘メカには、現実に存在する戦闘メカ(この場合は第2次大戦時の兵器であることが多かったように思います)、戦闘機や爆撃機など飛行機の類や、戦艦、駆逐艦、空母、潜水艦など船の類と、もう一つは架空の、つまりは未来的な空想兵器の2種類がありました。

私はどちらも好きでした。誕生日のプレゼントには、出来たばかりの中野のブロードウェイのおもちゃ屋さんで、紙巻火薬を仕込んで小さな火花と大きな音の出る機関銃のオモチャと、火薬は使わず、音も出ないけれど、プラスチックの小さな弾丸を発射する機関銃のオモチャを買ってもらいました。

その後も、戦闘系のアニメやSFが好きで、それは今も続いています。このnoteにも「銃について」というシリーズで、銃についてを詳細にたくさんの記事にして、読者の皆さんに読んで頂いています。

しかしそれは、何故楽しめたかというと、「実際に自分が戦闘に巻き込まれることはない」という前提があって、楽しめたものであったことを、今実感しています。こうまで大規模で、こうまで一般市民が悲惨な目に遭っている事を、毎日毎日現実として受け止めなければならない状況では、今まで素直に楽しむことの出来た戦闘系の物語を、楽しめなくなっています。

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第2次大戦の爪痕の場所で生まれ育った私

私は戦争の体験はありません。戦争によって自分の命が危機にさらされたことなどありません。現実的な問題として、自分が戦争の惨禍に見舞われた事がないので、戦争は私にとって、遠い昔、私が生まれる前の出来事、というイメージでとらえていました。

しかし、心の奥底のどこかで、記憶のうんと底のほうで、戦争が自分自身の根幹の記憶の中に沈んでいるような気がしていました。記憶の一部として確かに存在しているんです。ずっと昔、幼少の頃からです。それは、私が生まれ育った場所が、戦争の爪痕を色濃く残す場所だったせいだと思います。

その場所は、東京都港区南青山。青山と言えば、今でこそ「お洒落な街」というイメージが定着しているようですが、当時、昭和33年の青山には、そんなイメージはどこにもありませんでした。物理的に私が生まれたのは、渋谷の日赤病院ではありますが、最初の住居は南青山でした。

住居? いや、到底住居などと呼べる場所ではありませんでした。廃墟の中に住んでいたようなものでした。あまりに印象的だったせいか、生まれた直後であるはずのその時の光景、未だに思い出すことができます。

まず建物は、戦時中の倉庫だった場所です。木造の巨大な掘立小屋です。中には照明もありません。だから中に入ると昼間でも真っ暗でした。その倉庫の壁際を、十戸ほどに区切ってたった一部屋の住まいにしたんです。4畳半一部屋に小さな台所がついているだけの場所でした。

部屋と呼べるようなものでなく、風呂もトイレもありません。トイレはその倉庫全体の端っこに一つ、共同トイレがあるだけでした。ボットントイレです。恐かったです。風呂は、近所の風呂屋に通いました。そんな場所に家族3人が生活していました。

いや、生活などと呼べるような状況ではなく、家族3人、4畳半に閉じ込められて、というか、押し込められて、やっと何とか生きていた、という感じですかね。私、そんな場所で生活していたんです。

そしてその倉庫の前には、空き地が広がっていました。空き地と言っても、キレイな更地などではなく、今思えば、あれは爆弾が落ちた痕だったのでしょうか、何かの大きな力で破壊された、石かコンクリートの瓦礫というか、不定形な物体が散乱する、さながら廃墟のような風景でした。

そう、廃墟ですよ廃墟。そんな中で私は生まれ育ったんです。第2次大戦が終結したのは昭和20年。私はその13年後、昭和33年に生まれました。まだ日本全国に、第2次大戦の爪痕が色濃く残っている時代、空襲痕の倉庫の瓦礫の中で生活していたんです。

その後、小学校に通うようになり、給食なるものが昼食に出され、それを食して生き延びて来ました。その給食には、悪名高い「脱脂粉乳」が毎日ついていました。これ、アメリカから供与された物資です。ただしアメリカ人が、牛乳からバターを搾り取ったあとのカスですよ、カス!それを食料のない日本の子供たちに恵んでやろう、という、金持ちが乞食に施しものを与えるような感覚の供与品、私はその「脱脂粉乳」で育ちました。

ウクライナ侵攻が起きてから、幼少期の戦争の爪痕の記憶が・・・

そんなこんなで、ウクライナ侵攻が起きてから、私が生まれ育った瓦礫の中の風景、よく思い出してしまうんです。

すみません、今日はとりとめのない記事になってしまいました💦

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