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警告!この記事を読んではいけない 2「褒めて伸ばす教育」への疑問と提言

最近続けてきた「現在の私」シリーズは、ただの回顧録にすぎなくなりつつありますが、刺激が少なく、他からの非難も起こらないような作りになっています。しかし前回のお話の中で、自分が、学校の先生に褒められたことが異様に少ないことを話題にしてしまい、お話がはじけました(笑)。

今回のこの記事は少々危険なので「警告シリーズ」に載せることにします。刺激的で人によっては不愉快になるかもしれません。なので警告しました。「褒めて伸ばす」???なに言ってるんですか? 褒めたら人間、伸びなくなるんだよ。

と、言いたいわけです。それだけではなく、派生的にいろいろな事が言えるようになると思います。そして「褒めて伸ばす」を信じて実践している方々は、きっとこう思うんでしょうね。「何、偉そうなこと言ってんの?あんたに教育の何が判るわけ?」と。そういう方々には、こう申し上げましょう。

「それはこっちのセリフである。教育に関して何が言えるか、君たちより私の方が、遥かに経験も実践も深い。浅く薄く軽い経験と知識と洞察力しかない人たちは、黙っていなさい」う~む、このくらいなら、ギリギリ許される表現かな? 特定の誰かを非難してないし、非難するつもりもないので。 

実は今まで私、このnoteで、他人を非難、中傷するような表現は避けてきましたし、非難、中傷していると誤解をされないように努力もしてきました。これからもそうします。が、世間で言われている「褒めて伸ばす教育」という表現には「そうですね」と同意はできません。

実は以前「本当の事、言っていいですか?」という書き始めで、半仮想随筆とでもいうべき文学作品を書こうとしたことがあります。「本当の事、言っていいですか?」こう言いたくなったのは、テレビも、新聞も、ラジオも、そこで話している誰もが、本当の事を言わなくなってしまったからです。

誰にも非難されないために、どんな相手も非難することなく、耳障りのよいことをしゃべっているだけに聞こえます。そりゃあ誰だって、他人から非難されたくはありません。中傷されたくはありません。ネット等の中傷が原因で自殺してしまった人もいます。

だから、他人を非難しない、中傷しない、という考え方そのものにはむしろ賛成です。不用意に他人を非難すべきではないし中傷もしてはいけません。そして誰だって、他人から褒められたいです。褒められればうれしいし、褒めてくれた人の事を好きになりますし、褒められればやる気だって出ます。

しかし、教育という世界で、本当に真剣に誰かを育てようとする場合には、つまり責任をもって誰かを育てなくちゃいけない任務を負ってしまった場合には、「褒めて伸ばす」などという甘い考え方で、教わる生徒が伸びるはずはないし、シビアな世界では、そんな考え方の指導者はいないはずです。

「褒めて伸ばす」という考え方は、指導者が、指導する相手の生徒に対して、責任を持ちたくない、というか、責任を持つ必要がない場合にだけ、言うことのできる言葉だと思います。シビアな世界では全く通用しない考え方だと思います。

ていうか、もっと端的に言うならば「褒めて伸ばす」などと言っている人は、単に、生徒を傷つけることによって、自分がその生徒に嫌われたくないという、そんな理由で行動しているのではないでしょうか。まあ、先生をやっていれば、そりゃあ生徒に嫌われたくはないです。それは判ります。

ただ、嫌われないで済ませたいから「上手だねえ!」とか「それでいいんだよ!」とか「がんばったねえ!」とか・・・そんな事しか言わない先生も、実際にいますし、そういう優しい先生はそれなりに生徒の評判もよいです。しかしそれは、私は賛成できません。

そんな耳障りのよいことだけを言って済んでしまうような場所にいる人は、どうぞその姿勢を続けてください。きっと楽でしょう。本当にそれで済んでいるのであれば、問題もありません。しかし、何か大きな目標を達成したいと願っている生徒からは、相手にされなくなると思います。

実を言うと、音大受験生の受験指導、つまり受験生を音大に合格させるための指導を請け負ったことがあります。数えてみれば12人いました。全員が第一志望大学に合格しました。受験指導を請け負う、ということは、その子の合格に責任を持つ、ということです。

指導を引き受けるとは「この子を合格させなければいけない」という義務と責任が生じることです。その義務と責任から逃れることはできません。どうすればよいのか。合格の為に必要なことを行えばよいのです。合格の為に必要な事とは何か。ここで、指導者は最もシビアで過酷な現実に直面します。

まず最初に、できれば初対面の席で、その子が志望する音大に合格できるかどうか判断しなければなりません。万が一、初対面の席で判断できない場合は、「合格できる素質があるか試してみましょう、これをやってごらん」と言って、何かをやらせてみて、遅くとも次の週には判断結果を出すのです。

ここで、えっ? と思った人も多いでしょう。合格するかどうかの判断は、受験が終わらないと判らないじゃないか、と。そう思った人は残念ですが、音大の受験指導はできないと思います。受験指導のレッスンが始まる前に、合格するかどうかが判断できなければいけないのです。

優秀な指導者、受験生の合格に責任を持てる指導者というのは、レッスンを開始する段階で「この子の素質はこうだから、このように指導すれば合格するはず。だから受験指導を引き受けよう」と判断し、そのことを本人と親御さんにお伝えし、受験指導を開始するのです。

私を指導してくださった、ピアノの梅谷先生、作曲の土肥先生、石桁先生、皆、そういう指導者でした。そして私自身も、誰かの受験指導をする際には、そのような指導者でありたいと思い、実践し、そして12人の受験生を合格させてきました。

ですから、指導者がやみくもに努力して、あるいは生徒にやみくもに努力させて、頑張れるだけ頑張って、それでも不合格だったら仕方ないじゃない。そういう考え方では、いつまでたっても合格者を出せません。「受かるかどうか判りませんが」などと言う指導者では合格確率は低いと思います。

合格者を出せる指導者というのは、レッスンを始める前に、その子の素質で合格できることをすでに確認している指導者です。対面し、あるいは最初に少しだけ試してみて、素質がない、合格できないと判断したら、「残念ですが合格できないでしょうから、別の道を模索してください」

このように言える指導者こそ、本物の指導者。つまり、最初の段階で、その子が合格するかどうか判断できる能力、これこそ指導者に必要な能力です。私、世の中に出てビックリしました。この能力、指導者ならば当然、全員が持っているものと思っていました。私を指導した先生全員がそうでしたし、

私自身も、12人全員第一志望校合格という結果を出していますから、そういう指導者になれたものと自負しています。ところが世の指導者たちに、そういう能力の持ち主が実は殆どいないことに気付き愕然としました。そして彼等はあの言葉を言います。「受かるかどうか判りませんが・・・」て。

必要なことは、「受かるかどうか判りませんが・・・」などと言って、自分の逃げ道を作ることではありません。必要なことは、合格という結果です。合格という結果が出たら、その後「おめでとう、今日までよく頑張ったね」と褒めてあげてよいと思います。

うんと本質的な事を言いましょうか。でもこれ、非常に危険な言い方ですから、誤解されないか心配です。でも言っちゃいましょう、本当の事だから。今まで私のnoteを読んでくださった方々だから、大丈夫、きっと誤解されないで済みます。

「本当の事、言っていいですか?                      音大の受験指導、合格者の出せる指導者って、レッスンを始める前にその子が合格するかどうか判っている指導者です。そして導き方さえ間違わなければ、その子は、受験当日によほどのアクシデントがない限り合格します。」

「伸びる素質がある子」を選び「伸びるように導いてあげる」ことが、指導なのであって「誰でもが伸びられる」わけではないんです。これが、世の中の厳しい真実です。私が「褒めて伸ばす教育」という考え方に、同意できない理由、お判りいただけたと思います。

実はまだ少し言い足りないんです。「まだあんのかい!どれだけ言えば気が済むんじゃいっ!」という声が聞こえてきそうですが、実際のレッスンの様子、少しだけお話しさせてください。今日はここまでにします。読んでくださり、ありがとうございました、あ、でも、読んではいけないと警告・・(笑)

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