スクリーンショット_2014-05-08_17.46.12

ポエムと言われたら、それはポエムだ。

 その広告コピーが「ポエム」か否かを決めるのは、書き手じゃない。読者・視聴者だ。1冊目の著書にも書いたけど、そもそも言葉において主導権を握るのは、発信者ではなく受信者(ときに審査委員も)。「こんなつもりで書いた(言った)のに」なんて通じない。

 「広告コピーがポエム化している」という批判があったとき、われわれ書き手は、まずそれを甘んじて受け止める必要がある。「そんなこと言わないで」なんてお願いしても、意味がない。その上で、僕がいちばん有意義な提言だな、と思うのは、BCJの本田さんによるコメント(以下引用)。

 コミュニケーション全体がポエム化しない限りは機能するはずであり、  PRはその特性上「ポエム化を防ぐ役割」だとも言えるかもしれない。

 PRだけでなく、インタラクティブも一助になるはず。たとえば、「earth music & ecology」のコピーはかなり詩的だ。マス広告だけだとポエム化のそしりを受けた可能性もあるけど、写真アプリが爆発的に流行ったことで「あした、なに着て生きていく?」は一気にみんなの言葉になった。コピーが詩的だったことが、面白さを加速している。ほらね。

 「言葉だけだとポエムに見えちゃう」なんてのは、詭弁じゃないかな。日本でもっとも有名な言葉の賞である「新語・流行語大賞」は常に「言葉と受賞者のみ」を発表している。これをポエムだと感じる人は少ないだろう。そもそも、CMのストーリーやビジュアルから離れても、売り場や検索といった際に機能するのが広告コピーの役割なんじゃないだろうか。

 私見だけど、「コピー=ポエム」批判の背景には、本来は受け手のモノになっているべき言葉にべっとりとこびりついた「書き手の自意識」への嫌悪感があるのではないか。新語・流行語大賞がポエムに見えないのは、みんなの言葉になっているから。「ぜんぶ雪のせいだ」がポエムと批判されないのは、コピーライターやJR東日本の手を離れて、みんなの言葉として使われたから。もう一度、言おう。言葉は、書いた人の持ちもんじゃない。使う人のものだ。

 僕も、昔はポエムを書いた。でも、これからはニュースを書きたい。どちらもパッと見は広告コピーなんだけどね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?