「諸原理について」序文 1-5章(オリゲネス)

(1章)
恩寵と真理とは、イエス・キリストによって成立させられたと信じ、また、それについて確固としている者たち、そして「私が真理である」(訳注:ヨハネ14:6) と彼自身が言ったことに従い、キリストが真理である、と認識した者たち、そのような者たちはみな、他のどんなところからでもなく、キリストの諸々の言葉と教え自体から、善く、また祝福された生に人を先導する、知識を引き出すのである。

そして、「キリストの諸々の言葉」は、彼が人と成され、肉のうちに所在を据えていたときの言葉のみを言うのではない。先にモーセと預言者たちのうちにあった神の言葉なるキリストのことをも言うのである。というのも、神の言葉なしでは、どうしてキリストについて彼らが預言することができたであろうか?

このこと、つまり、「いかにモーセも預言者たちもキリストの霊に満たされて、語り、また彼らの行った全てのことを行っていたのか」ということ、そのことに対する証明を、神的な書から明示することは難しい事柄ではないだろう。(本稿をできうるかぎり短く制限することが我らの狙いでない限りだが。)

そこで、へブル人への手紙からこの一つのパウロの証言を引用することを、証明として十分なものであると私は位置づける。その中で以下のようにそれを彼は肯定している。「モーセは信仰により、大人に成されたとき、ファラオの娘の子と言われることを拒否した。一時的な罪の快楽を持つよりも、むしろ神の民と共に受苦することを選び、エジプト人たちの諸々の宝より、キリストの非難をより偉大な富と位置付けたのである。」(訳注:へブル11:24-26)

さらに、彼の天への引上げの後には、彼の使徒たちのうちで彼が語られたということを、パウロがこのような仕方で示唆している。
「それとも、私のうちで語っているキリストについて、あなたがたはその証拠を追求するのか?」(訳注:第二コリント13:3)



(2章)


ところが、キリストを信じると告白する者たちの多くも、互いに主張が異なっている。例えば、小さく些細なことにおいてだけでなく、実に、大きく究極な点、つまりは「神について」、「主なるイエス・キリストについて」、「聖なる霊について」といったことにおいても、さらにそれだけでなく、他の諸々の被造物について、つまりは諸々の主権や聖なる諸々の力についても(訳注: "vel de dominationibus, vel de virtutibus sanctis"...「主天使たちと力天使たち」?)、異なっているのである。そうであるゆえ、先にこれら一つずつについて確固とした筋と、明確な基準を置き、そして次に他のことをも追求する、ということが必要であると思われる。

たしかに、「キリストは神の子である」と私たちが信じ、また「我々は彼自身から真理を学ぶべきである」ということに私たちが納得させられた後では、
真理を、誤った見解からそれを主張するような全てのギリシア人や異国人の陳述するところから追求することを、私たちはやめたのである。
であるから、自分たちはキリストの見解が何であるか把握していると見做す者が多くいて、またそのうちには本当に把握していた先人たちから四散している者たちがいるといえど、使徒たちからの順々の継承により伝えられた、教会的宣明は、実に、保存されており、現在に至るまで諸教会のうちに維持されている。そしてそれだけが真理として信じられており、教会的、また使徒的伝承といかなる点でも異ならないのである。



(3章)

さて、以下のことは、知られなければならない。なぜなら、キリストの信仰を宣教した使徒たちは、ある諸々の事柄については、はっきりと、全ての人にとって(神的な知識の探求を退屈に思うような者たちにとってでさえ、)必要なことであると信じており、この上なく明確に伝えたからである。
知ってのとおり、彼らの主張の道理を、霊の卓越した諸々の賜物に相応する者たち、特に言論、知恵、知識の恩寵を聖なる霊自身によって捉えさせられた者たちによって、探求されるに任せたのである。

諸々の他のことについては、実に、はっきりと、単にそうなっている、ということを彼らは言ったが、それがどのような様式で、あるいはどうしてそうであるかについては、彼らは沈黙した。
きっとこれは、彼らの後人たちのうち熱心な者たち、つまり知恵を愛する者である人々が、自分たちの才能の実りを明示するための演習を持てるようにするためである。当然、このような者たちは知恵を受取る者として適するよう、また相応しくあるように、自分を整えるのである。



(4章)

その、使徒的宣明により明確に伝えられた種々のこととは実に、以下である。
第一に、
神は唯一であること。
この方が、全てを創造し、また構築した。
この神は、第一の被造物と世界の基礎から、無であったところに、万象を成立させた。
この神は、全ての義人たちの神である。すなわち、アダム、アベル、セト、エノシュ、エノク、ノア、セム、アブラハム、イサク、ヤコブ、十二族長、モーセと預言者たちの神である。
この神が、終わりの日々において(訳注 : "in novissimis diebus")、彼の預言者たちによって前もって通達したように、
我らの主なるイエス・キリストを送り、
そして第一にはっきりとイスラエルを招き、
そして第二に、実に、諸民族をも、イスラエルの民の背信の後に招いた。

この義なる、そして善なる神、我らの主イエス・キリストの父なる神自身が、
律法と預言者を、そして福音を、与えたのであり、
またこの方が使徒たちの神であって、旧約聖書と新約聖書の神なのである。
(訳注 : "et vetus et novi Testamenti" ...testamentumは"遺書"の意。日本語の「旧約聖書」・「新約聖書」の「約」はギリシア語原文において"διατηκη"であり、「契約(foedus)」と「遺書(testamentum)」両方の意味がある。)


そして次に、
キリスト・イエス、すなわち、彼自身、来られた方は、
全ての被造物より前に父から生まれたこと。

この方が全ての基礎付けの際に神に付き従っていた。 
「たしかに彼自身によって、全てが成立させられた」(訳注 : ヨハネ1:3)のである。
終わりの時に、彼は神でありながら、彼自身を空虚にして(訳注 : フィリピ2:7)、人と成されて、受肉した。
そして人とされながら、かつてそうであったように神であり続けている。

体は我々の諸々の体と似たものが採られたが、処女と聖なる霊によって生まれたということ、それだけが違っている。

このイエス・キリストは、生まれ、そして受難した。これは真理である。空想によってではなく、人と共通の死を受け、真に死んだ。
真実に、たしかに、死者たちのうちから彼は復活し、
そして復活の後に彼の弟子たちのところに留まり、それから引上げられたのである。


そして次に、
父および子の、名誉および尊厳、に結ばれた聖なる霊を、使徒たちは伝えた。

この方においては、生まれたものか、生まれぬものか、また、神の子自身であるかそうでないかも、ただ明確に区分されたわけではなかった。

ただこれらのことは、神聖な書から力のかぎり探求されるべき、また、注意深い調査により研究されるべきことである。

そしてまさにこの霊が聖徒たちに、つまり預言者たちにも、また使徒たちにも、一人一人に吹き込んだこと、
そして、一方の霊が旧い諸時代の者たちのうちにあり、また実は別の霊がキリストの到来において霊を吹き込まれた者たちのうちにあった、というわけではないこと、
これらのことは教会においてこの上なく明確に宣教されてきたのである。


(5章)

さてこれらのことの後に、以下が使徒的宣明により伝えられたことである
すなわち、魂は、固有の実体と命を持つが、この世界から離脱すると、その相応によって報われ、
その諸々の行いが魂に提供するならば、永遠の命と、祝福との相続を、得るであろうし、その悪行の咎が魂を転向させるならば、永遠の火と、刑罰とに、引き渡されるであろう、ということ。

そしてまた、死者たちの復活の時が来るはずであるということ。そこで、この、今「朽ちるものへと播種されており、朽ちないものへと立ち上がる」(訳注:第一コリント15:42)この体、そして「不名誉へと播種されており、栄光へと立ち上がる」この体、と共に復活するのである。

以下もまた教会的宣明のうちで確定されている。すなわち、全ての理性ある魂は、意志決定と意向において自由を有するものであるということ。そしてまたそこに、悪魔と彼の使いたち、また敵対する諸力に対する防戦が、つまり、彼らが、魂が諸々の罪を負うよう、引き寄せることからの防戦が、あるのである。しかし実に、我々が正しく、また思慮深く生きるならば、このような負債から我々が抜け出す方法を、私たちは発見するのである。

そしてまたこれに伴い、あらゆる点で、たとえそう望んでいなくても、悪を、また善を為すことを強いられているような、そのような必然に我々は服していないということを理解するのである。

たしかに、もし私たちが我々自身の意志決定者であるなら、ひょっとするとある諸力は我々を罪へと追い立て得るし、また別の諸力は救済へと補助し得る。
しかしながら、必然により、正しく、また悪しく、物事を為すよう我々は強いられているのではない。そのように成されていると判断させられている者たちは、すなわち星々の進路と動きが人間たちの諸々の行いの原因であると言う者たちである。それらが意志決定の自由を越えて降りかかる諸々のことの原因というだけでなく、さらに我々自身の能力の範囲内に置かれていることの原因となっているというのである。

実に、魂については、​それが遺伝的過程による種子に由来し、その理性や実体は彼ら自身の体の種子的粒子のうちに置かれていると考えられるのか、
それとも、何か他の始まり持つのか、また、その始まり自体も、誕生によるのか否か、あるいは外から体に与えられるのか否か、そのようなことについては、教会的宣明のうちで十分明確に分類されているわけではない。

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