『ヨハネによる福音書注解』第一巻 第十章 イエス自身が福音である次第(オリゲネス)

http://www.newadvent.org/fathers/101501.htm

福音の性質に関する先立つ調査は無益なものと見なされえない。知覚的な福音と、知性的な、また霊的な[福音]の間にあるどんな区別があるかを我々に分からせる。知覚的な福音から霊的なものに変化させることが今我々がしなけらばならないことである。

というのも、もし霊的なものに発展させられなければ、知覚的な福音の物語は何になるだろうか?それはとるにたらないものになるだろう。誰でもそれを読んでそれが告げる諸々の事実を確認できる、それだけである。しかし今や我々の能力全体は、福音の意味の深いところの諸々のことへと貫き、また諸々の予型がはがされたときにそのうちにある真理を探し出す努力へと向けられている。さて諸々の福音が言っていることは、諸々の良いことについての約束に照らして考慮されるべきである。そして使徒たちがこの福音において告知する諸々の良いこととは簡潔に、イエスのことであると我々は言わなくてはならない。彼らが告知していると言われる良いことの一つは、復活である。しかしこの復活はある意味イエスのことである。というのもイエスはこう言っている。[ヨハネ 11:25]「私は復活である。」 イエスは聖徒たちのために蓄えられている諸々のことを貧しい者たちに宣べ伝え、彼らを神的な約束へと召命している。そして聖書は使徒たちによって為された福音の諸々の告知と、我々の救助者によって為された[福音の諸々の告知]に対して証言を為している。ダビデは使徒たちについて、ひょっとすると福音記者たちについても、このように言っている。「主は宣べ伝える者たちに対して言葉を与える。大いなる力と共に。愛された者の諸力の王。」[詩編67:12LXX] 同時にそれは技巧的に編まれた談話でなく、わざとらしい様式でもなく、納得を生み出す良く鍛錬された雄弁さでもなく、神的な力の交信であることを教えている。それゆえパウロもこのように言っている。「私は飾り立てられた言葉を知らず、力[を知る]。というのも神の王権は言葉においてでなく、力においてあるからである。」そして他の文章では[1コリント 2:4][このように言っている。]「そして私の言葉や私の宣べ伝えることは説得的な知恵の言葉ではなく、霊と力の証明である。」 この力に対してシモンとクレオパがこのように言ったとき証言を為している[ルカ 24:32]「彼が我々に聖書を開示しながら、途上、我々の心は自分たちのうちで燃えていたではないか。」そして使徒たちは、神が話者たちに供給した力の量が大いなるものであったので、ダビデの言葉に従って、大いなる力を持った。「主は大いなる力と共に宣べ伝える者たちに言葉を与える。」 イザヤも言っている。「良い便りを宣言する者たちの足はいかに美しいことか。」  [イザヤ52:7, ローマ10:15]彼は、「私は道である」[ヨハネ14:6]という者に歩む使徒たちの告知がいかに美しくいかに好ましいものかを見て、そしてキリスト・イエスの知性的な道に歩み、その門を通って[ヨハネ10:9]神のもとへ行く者たちの足を称賛している。彼ら、すなわち美しい足を持つ者たちは、諸々の良い知らせを、つまりはイエスを、告知している。


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