[メモ]エレミヤとダニエル(1)二種類の紀年法

https://note.mu/makojosiah/n/n4dd2b42a10d0

上記メモでは、メルキゼデク系の祭司の系譜があると考えた場合にその有力な候補としてエリヤとダニエルを挙げ、その間の時代を繋ぐ人々として、ナジル人の系譜である「レカブの子ヨナダブの家系」を発見した。

彼らと捕囚期の預言者エレミヤとの邂逅の場面がエレミヤ書に記されている。

"わたしはレカブびとの前に酒を満たしたつぼと杯を置き、彼らに、「酒を飲みなさい」と言ったが、彼らは答えた、「われわれは酒を飲みません。それは、レカブの子であるわれわれの先祖ヨナダブがわれわれに命じて、『あなたがたとあなたがたの子孫はいつまでも酒を飲んではならない。また家を建てず、種をまかず、またぶどう畑を植えてはならない。またこれを所有してはならない。あなたがたは生きながらえる間は幕屋に住んでいなさい。そうするならば、あなたがたはその宿っている地に長く生きることができると言ったからです』。"エレミヤ書 35:5-7

これによって、幕屋生活(祭司的生活)を営むナジル人の系譜がダニエルの「時代まで」続いていたことがわかる。しかし、レカブの家系からダニエルへとどのようにメルキゼデクの職位を継承させたかはわからない。上記メモではここで一度エレミヤを経由してダニエルに渡す可能性を示唆したが、実際にそれが可能なのか、時系列を整理する必要がある。

エレミヤとダニエルは明らかにエレミヤが先行する預言者であるが、ダニエルの方が先にバビロンによる捕囚に遭っている。

それで、もしこのレカブ族とエレミヤの邂逅がダニエルの捕囚より明確に後の場合、エレミヤを介する継承ルートは使えない。むしろレカブ族から直接ダニエルへの継承を考えることになる。なぜならダニエルの酒断ちの誓いはダニエル書の最初期の出来事であるため、エレミヤが捕囚でバビロンに来るより前のことと思われるからである。

"ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた。"ダニエル書 1:8

ではまずダニエルの捕囚がいつ起こったかについて。(ダニエル書の紀年法で)ヨヤキム(エホヤキム)王の治世第三年に捕囚にあったとされる。

"ユダの王エホヤキムの治世の第三年にバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムにきて、これを攻め囲んだ。主はユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手にわたされたので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。時に王は宦官の長アシペナズに、イスラエルの人々の中から、王の血統の者と、貴族たる者数人とを、連れて来るように命じた。"ダニエル書 1:1-3

ただし、これを列王記やエレミヤ書の紀年と比較する際は注意が必要である。

まず、エレミヤ書によれば、[エレミヤ書(の大部分)の紀年法による]ヨヤキムの治世4年がカルケミシュの戦いのあった年としている。

"エジプトの事、すなわちユフラテ川のほとりにあるカルケミシの近くにいるエジプトの王パロ・ネコの軍勢の事について。これはユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年に、バビロンの王ネブカデレザルが撃ち破ったものである。その言葉は次のとおりである"エレミヤ書 46:2

エレミヤ書の別の場所によればヨヤキムの四年とはネブカドネツァル(ネブカデレザル)の元年と同じ年とされる。

"ユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年(バビロンの王ネブカデレザルの元年)にユダのすべての民についての言葉がエレミヤに臨んだ。"エレミヤ書 25:1

楔形文字の記録によれば、カルケミシュの戦いはネブカドネツァルの即位直前に起こった出来事で、カルケミシュの戦いがあった年のアブの月(7/8月, 第五月)に前王ナボポラッサルが死に、エルルの月(8/9月, 第六月)にネブカドネツァルが即位している。

https://note.mu/makojosiah/n/n623af9210dd8

バビロンの暦は第一月から始まる。バビロン王は即位年の次の第一月からが治世第一年となる。ユダヤの政治暦は第七月から始まり、宗教暦が第一月から始まる。

南ユダ王の治世を政治暦で数えていた場合、カルケミシュの戦いがヨヤキム王の第四年にあったとすると、ヨヤキム王の第四年は次のティシュリ月(9/10月, 第七月)で第五年になってしまい、その次のニサン月から始まるネブカドネツァルの治世一年とは重なる時期がない。当然、宗教暦で数えていた場合もヨヤキムの第五年がネブカドネツァルの第一年となる。

このような、バビロニア側の記録と列王記およびエレミヤ書の記録の一年のズレはあちこちで見られる。

例えばヨヤキン(エホヤキン)の捕囚は列王記によればネブカドネツァルの治世八年に起こったとされる。

"ユダの王エホヤキンはその母、その家来、そのつかさたち、および侍従たちと共に出て、バビロンの王に降服したので、バビロンの王は彼を捕虜とした。これはネブカデネザルの治世の第八年であった。"列王紀下 24:12

しかし楔形文字の記録によればこれはネブカデネザルの治世第七年のことである。

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エレミヤ書は最後の章でバビロニアの紀年法に合わせた記録を付している。

"五月十日に、——それはバビロンの王ネブカデレザルの世の十九年であった——バビロンの王に仕える侍衛の長ネブザラダンはエルサレムに、はいって、主の宮と王の宮殿を焼き、エルサレムのすべての家を焼いた。彼は大きな家をみな焼きはらった。"エレミヤ書 52:12-13
ネブカデレザルが捕え移した民の数は次のとおりである。第七年にはユダヤ人三千二十三人。またネブカデレザルはその第十八年にエルサレムから八百三十二人を捕え移した。ネブカデレザルの二十三年に侍衛の長ネブザラダンは、ユダヤ人七百四十五人を捕え移した。この総数は四千六百人であった。"エレミヤ書 52:28-30

このエレミヤ書52章の前半の紀年法による「ネブカデネツァルの十九年」と、後半の紀年法による「ネブカデネツァルの十八年」は同じ年のことを言っている。後半の出来事がエルサレム陥落の前年に起こった別の捕囚のことを述べているという解釈はできない。なぜならエルサレム陥落の年の第四月までエルサレムの防衛線は維持されており、陥落の前年にエルサレムの民を捕囚とすることは困難であるためである。

"その四月九日になって、町の中の食糧は、はなはだしく欠乏し、その地の民は食物を得ることができなくなった。そして町の城壁はついに打ち破られたので、兵士たちはみな逃げ、夜のうちに、王の園の近くの、二つの城壁の間の門から町をのがれ出て、カルデヤびとが、町を攻め囲んでいるうちに、アラバの方へ落ちて行った。"エレミヤ書 52:6-7

つまりここでエレミヤは、エルサレム陥落の起こった年について、列王記の紀年法と同じ「ネブカドネツァルの第十九年」を示し、そしてそれが別の紀年法によれば「ネブカドネツァルの第十八年」にあたることを示している。

この後者の紀年法がバビロンの楔形文字の記録の紀年法と一致する。つまりおそらくこの紀年法は、即位年の翌年第一月から治世第一年を開始するものである。

これは紀年法が半年ズレているために起こるものではないと思われる。なぜなら、もし半年ズレた紀年法を並行して用いていた場合、南ユダが宗教暦を用いながら、宗教暦と一致するはずのバビロニアの暦を半年ずらして数える意味はないので、つまりは南ユダが政治暦を用いながら、バビロニアの暦を宗教暦と一致する春始まりの暦で数えているということになる。南ユダの暦が先行していることは記録の系統的なズレからわかる。しかしエルサレム陥落はアブの月(第五月)に起こっているため、ここでズレが見えるということは第一月にバビロニアの暦が更新された後であり、第七月に南ユダの暦が更新される前であるので、この前の十二月にはバビロニアの暦が数字上2年も遅れることになってしまう。ヨヤキンの捕囚は後述のように第十二月に起こっているが二つの暦のズレはやはり一年である。つまりエレミヤ書が二種類の年数を示しているのは半年のズレではなく一年のズレと思われる。それで、このズレは即位年を0年とするか1年とするかによるものであることがわかる。

また、この議論から、秋始まりにしても春始まりにしても、列王記記者はバビロン王の治世を自分たちの紀年法に合わせて数えていたと思われる。もしバビロニア暦が半年ズレていた場合、年の後半か前半のどちらかで紀念に一年のズレが生じ、他方は同じになるか二年のズレが生じる。このような現象が第十二月(後半月)にも第五月(前半月)にも見られないということは、列王記においては二つの暦は同じ月で更新されることが予想される。

では、ここに戻ろう。

"ユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年(バビロンの王ネブカデレザルの元年)にユダのすべての民についての言葉がエレミヤに臨んだ。"エレミヤ書 25:1

カルケミシュの戦いのあったヨヤキムの第四年にネブカドネツァルの第一年が重なるということは、南ユダ王国の紀年法が王の即位年を第一年とする紀年法であった場合と整合する。

この預言は、南ユダ王国が自分たちとバビロニアの両方について政治暦で王の治世を数えていた場合、ヨヤキムの第四年が終わるティシュリ月[第七月]の前で、かつネブカドネツァルの即位するエルルの月[第六月]の後の一ヶ月間のどこかで為された預言ということになる。

もし南ユダ王国が宗教暦で数えていた場合、第六月から次の第一月の間の七ヶ月間のどこかで為された預言ということになる。

さてヨヤキムの治世は十一年間とされている。列王記のゼデキヤ王に関する記述を読めば(統治年数が十一年とされ、治世第十一年に退位している)、列王記の紀年法によるヨヤキムの治世第十一年にヨヤキムが死没してヨヤキンが即位したと思われる。

ヨヤキンは三ヶ月の治世ののちアダルの月に退位している。楔形文字の記録は明確にその日付を記しており、歴代誌の記述からもアダルの月(第十二月)であることが確認される。

"年が改まる頃、ネブカデネザル王は人をつかわして、彼を主の宮の尊い器物と共にバビロンに連れて行かせ、その兄弟ゼデキヤをユダとエルサレムの王とした。"歴代志下 36:10

このヨヤキンの治世は列王記の紀年法によればネブカドネツァルの第八年であり、バビロンの紀年法によればネブカドネツァルの第七年にあたる。

ここから遡るとヨヤキムの死去は列王記の紀年法によるヨヤキムの治世第11年のキスレウの月(第九月)である。

秋始まりにしても春始まりにしても、ヨヤキムの第十一年の第九月にヨヤキムが、そして第十二月にヨヤキンが退位してゼデキヤが即位している。先述のように列王記記者は即位年を治世第一年とするので、ヨヤキムの第十一年=ヨヤキンの第一年=ネブカドネツァルの第八年=ゼデキヤの第一年である。しかし実際にはゼデキヤの第十一年=ネブカドネツァルの第十九年となっているため、ヨヤキンの第一年=ゼデキヤの第0年となってしまい、先ほどの話と矛盾してしまう。

しかしこの矛盾から、遅らく南ユダ王国の暦は春始まりで王の治世を数えていたと推測できる。つまり、春始まりの暦で、ヨヤキンがアダルの月(第十二月)に退位し、何週間か王の選出に時間がかかって、ゼデキヤがニサンの月(第一月)に即位すれば、ヨヤキムの第十一年=ヨヤキンの第一年=ゼデキヤの即位前年となり、矛盾が解消されるのである。

ヨヤキムの第四年に話を戻そう。ヨヤキムの第四年は以下のような出来事があった。

第一月
ヨヤキムの第四年(即位年=治世1年)始まる。同時にナボポラッサルの第二十一年(即位年=治世0年)が始まる。

?月
王太子ネブカドネツァル、カルケミシュの戦いでエジプト軍撃破。シリア地方を制圧

第五月
ナボポラッサル死去

第六月
ネブカドネツァル即位。(バビロニア:治世第0年、列王記:治世第一年)

第七月
(両者とも治世の年数は秋には更新されない。)

第十一月
再度ネブカドネツァルのシリア遠征。

第十二月
ヨヤキムの第四年=ネブカドネツァルの元年の終わり。


さて、ダニエルのこの記述はいつの話だろうか。

"ユダの王エホヤキムの治世の第三年にバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムにきて、これを攻め囲んだ。主はユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手にわたされたので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。 "ダニエル書 1:1-2

このヨヤキムの治世初期のバビロンによるエルサレム攻囲戦は他の記録には明確には現れないが、確かにヨヤキムの時代からエジプトに変わってバビロンが南ユダ王国を従属させていることは確かである。

"エホヤキムの世にバビロンの王ネブカデネザルが上ってきたので、エホヤキムは彼に隷属して三年を経たが、ついに翻って彼にそむいた。主はカルデヤびとの略奪隊、スリヤびとの略奪隊、モアブびとの略奪隊、アンモンびとの略奪隊をつかわしてエホヤキムを攻められた。すなわちユダを攻め、これを滅ぼすために彼らをつかわされた。主がそのしもべである預言者たちによって語られた言葉のとおりである。 "列王紀下 24:1-2
"エホヤキムは王となった時二十五歳で、十一年の間エルサレムで世を治めた。彼はその神、主の前に悪を行った。時に、バビロンの王ネブカデネザルが彼の所に攻め上り、彼をバビロンに引いて行こうとして、かせにつないだ。 "歴代志下 36:5-6

歴代誌によればこのバビロン侵攻によりヨヤキムが捕縛されるまでに至っているが、ヨヤキムはバビロンに従属して引き続き南ユダを統治したらしい。

この従属先がエジプトからバビロニアに変わった出来事は、エジプト軍がカルケミシュの戦いでバビロニアに敗れた、ヨヤキムの治世4年(列王記紀年)以降の出来事と考えるのが自然である。

しかしダニエルはヨヤキムの治世第3年にネブカドネツァルがエルサレムを包囲したと述べている。

この矛盾は、ダニエル書がバビロニアの紀年法に則り、即位年の翌年=治世第一年としていると考えれば解消される。

すると、ダニエルの言うヨヤキムの治世第3年とは、カルケミシュの戦いとネブカドネツァルの即位のあった年のことであり、エレミヤ書や列王記ではヨヤキムの第4年と呼ばれる年のことであると考えることができる。

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ネブカドネツァル碑文を読むと、確かにネブカドネツァルは、カルケミシュの戦いのあった年の、自分の即位前と即位後に一度ずつシリア方面へ遠征したことが書かれている。

ではダニエルの捕囚はこの二回の遠征のどちらであろうか。

これは実は最初のレカブ人の言葉から特定することができる。

"しかしバビロンの王ネブカデレザルがこの地に上ってきた時、われわれは言いました、『さあ、われわれはエルサレムへ行こう。カルデヤびとの軍勢とスリヤびとの軍勢が恐ろしい』と。こうしてわれわれはエルサレムに住んでいるのです」。 "エレミヤ書 35:11

レカブ人はもともとユダヤにいた(歴上2:55, 士師1:16)が、一部の人々は北上しており(士師4:11)、エフー朝期のレカブの子ヨナダブはイズレエル-サマリア(パレスチナ北部)の周辺でエフーと会っている(列王下10:10-15)

彼らの言葉から、このエレミヤとレカブ人の出会いの時点でネブカドネツァルの侵攻が既に一度あったことと、その頃みながエルサレムはまだ安全であると認識していたことがわかる。つまりネブカドネツァルの一回目のシリア侵攻(カルケミシュの戦い直後)ではパレスチナ北部までの侵攻に留まっていたということが推論できる。自動的に、エルサレム攻囲戦とダニエルの捕囚はネブカドネツァルの即位直後の遠征であることがわかる。

ヨヤキムの第4年=ネブカドネツァルの即位年の終わりにこのバビロンへの従属があったとすると、ネブカドネツァル碑文を読むことで、なぜヨヤキムが3年の従属の後にバビロンに反逆できたのかがわかる。ヨヤキムの第5年, 第6年, 第7年はバビロンに従属していたとして、第8年はネブカドネツァルの第4年(バビロニア紀年)にあたり、この年バビロンはエジプト遠征に失敗しているのである。このエジプトの勢力の盛り返しにより、ヨヤキムは治世の終わりまで滅ぼされることなくバビロニアに反抗を続けたと思われる。

また、ヨヤキムの四年の終わりにバビロニアのエルサレム攻囲があったことから、エレミヤ書25章の預言の意味が明確になる。

"ユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年(バビロンの王ネブカデレザルの元年)にユダのすべての民についての言葉がエレミヤに臨んだ。 "エレミヤ書 25:1
"見よ、わたしは北の方のすべての種族と、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この地とその民と、そのまわりの国々を攻め滅ぼさせ、これを忌みきらわれるものとし、人の笑いものとし、永遠のはずかしめとすると、主は言われる。またわたしは喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、ひきうすの音、ともしびの光を彼らの中に絶えさせる。この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕える。主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。"エレミヤ書 25:9-12

この七十年間を、BC586のエルサレム陥落からBC517のエルサレム神殿再建までの七十年間とする説があるが、この時代背景を考えれば、第一義的には、まさにこの預言のあった年からバビロンの支配が始まり、キュロス王の解放令によって七十年が完了すると考えるのが自然と思われる。

"これはエレミヤの口によって伝えられた主の言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息をうけた。すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた。ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動されたので、王はあまねく国中にふれ示し、またそれを書き示して言った、 "歴代志下 36:21-22

カルケミシュの戦いはBC605とされている。キュロス王の第一年はバビロン陥落の年とされることが多く、それはBC539であり、期間は66年となっている。

しかし歴史学に無視されているクセノフォンの記録に現れるキュアクサレス2世がダニエル書の「メディア人ダレイオス」だとすると、この人物の統治期間が2年間ある。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Cyaxares_II

"カルデヤびとの王ベルシャザルは、その夜のうちに殺され、メデアびとダリヨスが、その国を受けた。この時ダリヨスは、おおよそ六十二歳であった。"ダニエル書 5:30-31
"メデアびとアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤびとの王となったその元年、すなわちその治世の第一年に、われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。"ダニエル書 9:1-2
"ペルシャの王クロスの第三年に、ベルテシャザルと名づけられたダニエルに、一つの言葉が啓示されたが、その言葉は真実であり、大いなる戦いを意味するものであった。彼はその言葉に心を留め、その幻を悟った。"ダニエル書 10:1

一般的にキュロスの解放令はキュロスがバビロンを陥落させた年のこととされているが、キュロスの即位はキュアクサレス2世と同時であったのか、後であったのか、治世はどのように数えていたのか、あまり定かでははない。

BC605から七十年目となる年はBC536である。
BC539 キュアクサレス即位年
BC538 キュアクサレス第一年
BC537 キュアクサレス第二年、キュロス即位年
BC536 キュロス第一年(解放令)
という数え方が存在すれば、丁度整合が取れるが、ここら辺は証拠が少なく「そのようなシナリオを考え得る」程度のものとなる。

脱線したが、結局、ネブカドネツァルの即位年の二回の遠征の1回目でレカブ人たちがエルサレムに移住し、2回目でエルサレムが陥落しダニエルが捕囚にされたとすれば、その間の期間にエレミヤとレカブ人の出会いがあったことになり、ダニエルとの接触も時系列的には可能である、ということがわかった。

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