『Megillah 23b』(バビロニア・タルムード)

[それゆえ]その必要もない。[訳注:ここでは律法の後に読まれる預言書朗読(ハフタラ)の節数の最低数が話題となっている。]

ラヴァはこれに強く反対する。「しかし「あなたがたの燔祭を加えよ」(エレミヤ7:21-28)[から始まるハフタラ]については、二十一節に満たないが、それを我々は読む。」 そこでは話題が完了しているので、難しい。

しかし話題が完了していないところはそうではないのだろうか。ラヴ・シュムエル・バル・アッバが言ったではないか。「何度も私はラヴィ・ヨハナンの前に[通訳者として]立ち、我々が十節読んだとき彼は我々に言うこともあった。『止めなさい』」 通訳者がいる場において[も]、難しい。ラヴ・タハリファ・バル・シュムエルがこう教えた。「彼らは通訳者のいない場のみ[二十一節が読まれなくてはならない]と教えた。しかし通訳者がいる場では、止めることができる。」

ミシュナ:[十者より少ないところでは、]シェマ[(「聞け、イスラエルよ」[申命記 6:4]から始まるユダヤ教の集会の中心的な宣言)]にあたっての祝祷を朗誦しない。また[アミダ(会衆が順に立ってアーメンと唱える儀礼)のために]聖櫃の前を通過しない。また[祭司が祝祷のために]両手を挙げない。また律法が[公的に]朗読されない。また預言書によって締めくくられ[ハフタラ]もしない。

また[葬儀の祝祷のために]立ち上がり座る慣習を行わない。また哀悼者の祝祷の朗誦や哀悼者への慰め、花婿の祝祷をしない。かの名[(神の名)]によって[ビルカト・ハマゾン(食後の恵みの祈り)のために]招かない。以上は十者に満たずには[行われない。]土地[の聖別(レビ記 27:16-)]には九者と祭司[が必要]である。人[の聖別(レビ記 27:2-)]にも同様である。

ゲマラ:これらの議題はどこからのものか。ラヴィ・ヒッヤ・バル・アッバが、ラヴィ・ヨハナンがこう言ったと言った。「かの節が述べる。『そして私はイスラエルの子らのただ中で[תוך]聖別されることになる。』[レビ 22:32]それで神聖のいかなる表現も十者に満たないでは行われることができない。」

どこから推察されるか。ラヴィ・ヒッヤが教えたとおりである。「それは『ただ中で[תוך]』から推察される。『ただ中で』と書かれている。『そして私はイスラエルの子らのただ中で聖別されることになる』そしてここにも書かれている。『この会衆[עדה]のただ中[תוך]からあなたがた自身を分離せよ』(民数記 16:21)

そして『会衆[עדה]』から推察されること。『会衆[עדה]』はここに書かれているとおりである。『いつまでこの悪しき会衆[עדה]に私は耐えることになるのか?』(民数記 14:27) まさにここにあるように、[民数記14章のヨシュアとカレブを除く十二部族の首長から成る「会衆」は]十者であり、それでここも[民数記16章のコラの一味もおそらくは]十者である。」

「十者より少ないで立ち上がり座る慣習を行わない」について。[葬儀の長は]「立ちなさい、親愛なる者たち、立ちなさい」「座りなさい、親愛なる者たち、座りなさい」と言うことが要請される。十者より少ないならばそれは不適切な行為である。

「哀悼者たちの祝祷と花婿たちの祝祷を朗誦しない」について。哀悼者たちの祝祷とは? [墓所の隣の]区画のうちの祝祷である。ラヴィ・イツハクが、ラヴィ・ヨハナンがこう言ったと言った。「哀悼者たちの祝祷は十者を[要し]、議会に哀悼者たちは含まれない。花婿たちの祝祷は十者を[要し]、議会に花婿たちは含まれる。」

「十者より少ないで、かの名によって、栄養のために招かない」について。「我らの主を祝福しよう。」と言うことが要請される。十者より少ないならばそれは不適切な行為である。

「土地には九者と祭司、同様に人にも。」について。これらの議題はどこからのものか。

シュムエルが言った。「律法のそのパラシャー[(分割の意、ここではレビ記26:3から27:34が該当の箇所を含むパラシャ—)]には祭司[という語]が十度書かれている。一つはそれ自体のこと[を示し]、そして一つは[祭司以外を]除外すること[を示し]、そして他は制限に続く制限になっており、あるもう一つのものの後の制限は数を増やす[意味]のみがある[のが解釈の原則である]。それで[この規定は]九人のイスラエル人と一人の祭司[を要する]。」

[訳注:祭司の語は該当箇所に十一度書かれているように見える。21節の「לכהנ(for priest)」を「הכהנ(the priest)」と区別したのか?]

そして[その解釈原則を適用した際に、]五人の祭司たちと五人のイスラエル人とする[解釈]は難しい。

「同様に、人にも。」について。人は聖別されるものなのか。

ラヴィ・アッバフが言った「それは教えられているように、『私の査定が私に課されている』と言う者に対して[述べられている]。『私の査定が私に課されている』と言う者を、[議会は]奴隷として査定する。そしてこのように書かれている通り、奴隷は土地と並び扱われる。『そしてあなたがたは彼らを取って、あなたがたの後の、あなたがたの子どもたちのための相続とすることになる。所有として彼らを相続させるためである。』(レビ記 25:46)」

ミシュナ:律法から読む者は、三節より少なく読むべきではない。そして彼は通訳者に対しては一節より多く読むべきではない。




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