[メモ]使徒言行録年代復元(1)パウロの宣教旅行

※2021/4/4加筆 この記事の執筆時点から、いくつか大きな見解の変化がありました。詳しくは新しい記事でまとめていく予定ですが、主には次の2点です。 ①ガラテヤ書の「第14年」の起点を回心時点と解釈し、そこでの描写を使徒11-12章の時期のことと解釈する蓋然性を感じていること ②第二コリント執筆の根拠としている「パウロがアトスに行った」という解釈は、僕が小アジアのアソスとマケドニアのアトスを混同した勘違いに基づいていそうということ 読む際は以上に注意してください。

AD51-52 ガリオン(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Lucius_Junius_Gallio_Annaeanus)がアカイア州総督

このころまでの1年半の間、パウロはコリントで宣教(使徒 18:11-12)

ここがパウロの活動に関して最も信頼性の高いChronological Anchor(年代復元基準)と思われる(が、幅がある)。

使徒行伝のコリント宣教記事では、クラウディウス帝治下のAD 49にローマでユダヤ人追放令が出されたため、「最近」ローマから来ていたアキラとプリスキラと合流したとあり、ガリオンのころまで1年半の間宣教したことと整合する。

総督への直訴がその着任期に行われる慣習があるように見える(使徒 25:2-3)ため、ガリオンの着任した紀元51年の8月がコリント宣教の終了と特定できる可能性もあるが、これは踏み込んだ仮定となる。

これは使徒会議(使徒 15章)の後のできごと。使徒らは使徒会議の後、アンティオケアから宣教を始め、
バルナバとマルコがキプロス島へ行った一方で、パウロはシラスと共にシリア・キリキア→デルベ・ルステラ(テモテを弟子に)→フリギア・ガラテヤ→ムシヤ・トロアス(ルカと合流, 使徒16:1)→サモトラケ・ネアポリス→ピリピ(シラスと投獄される)→アムピポリス・アポロニア→テサロニケ(安息日3回)→ベレア(シラスとテモテは居残り)→アテネを経てコリントに来ている。コリントでシラスとテモテと合流している。

安息日の数に言及されているということは、パウロの巡回宣教は概ね一回の安息日の説教を中心とし、毎週集会に出るために移動も合わせて1週間程度の期間が通常のサイクルであったと思われる。よって、シリア・キリキア宣教への出発からコリント着までは半年から1年程度と見込まれる。

時代を戻すと、パウロはダマスコ途上で回心した後、エルサレムへ行く前にアラビアに退いており、もう一度ダマスコに戻っているはずである(ガラテヤ1:17)。

回心直後の使徒9:19-25においてパウロはダマスコで活動しており、9:26でエルサレムに来ているので、アラビア寄留は9:19-25のどこかに入るはずである。

相当の日数がたったころ、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。ところが、その陰謀が彼の知るところとなった。彼らはサウロを殺そうとして、夜昼、町の門を見守っていたのである。そこで彼の弟子たちが、夜の間に彼をかごに乗せて、町の城壁づたいにつりおろした。-使徒行伝 9:23-25

おそらくこの「相当の日数」の間にパウロはアラビア地方へ退いていると思われる。

この9:23-25の記述はコリント人への第二の手紙11:32-33の記述と対応していると思われる。

ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕えるためにダマスコ人の町を監視したことがあったが、その時わたしは窓から町の城壁づたいに、かごでつり降ろされて、彼の手からのがれた。コリント人への第二の手紙 11:32

アレタ王はおそらくナバテア王国のアレタス4世フィロパトリスを指す(下記リンク参照)。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Aretas_IV_Philopatris

ナバテア王にパウロが追われる意味はよくわからないが、パウロの言うアラビアとはナバテア王国と関係の深い地域だった可能性がある。

さて、ガラテヤ書1:15-2:9によれば、パウロは回心してアラビアからダマスコに戻り、(おそらく回心から)3年後にエルサレムで使徒ペテロと主の兄弟ヤコブとエルサレムで邂逅し、その14年後におそらく使徒会議(使徒15章)を迎えている。

パウロは回心し、アラビアに寄留し、ダマスコに戻り、さらにダマスコを脱出した後、エルサレムに向かう(使徒9:26)。このときペテロのもとに15日間滞在し、主の兄弟ヤコブとも会ったと思われる(ガラテヤ1:18-19)。

その後ガラテヤ書によればパウロはシリアとキリキアに向かっている(ガラテヤ書1:21)。一方、使徒行伝ではユダヤで命を狙われたのでカイサリアに行ってタルソスに向かったと書かれている。この情報から、ここのカイサリアはパレスチナのカイサリア(カイサリアのエウゼビオスの活躍地)でもなく、カパドキアのカイサリア(カイサリアのバシレイオスの活躍地)でもなく、シリアのピリポ=カイサリア(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Caesarea_Philippi)であることがわかる。タルソスはキリキア地方の都市である。

使徒行伝は20章以降は一人称で語られ、ルカ自身の目撃証言をまとめている。そしてそれ以前はおそらく福音書と同じくパウロの証言を中心にまとめていると思われる。パウロは8章1節から明示的に現れるが、その前のステファノの殉教記事を挟んで5章33節からのサンヘドリンでのガマリエルの発言などもパウロの証言と思われる。(パウロはガマリエルの弟子)

ステファノの殉教記事のあと、ペテロとヨハネとフィリポのサマリア伝道の記事があり、サウロの回心記事がある。サウロの回心記事は途中で先述のように三年弱の空白期間を含んでおり、この間に起こったできごとが回心記事直後のペテロの活動記事(9:32-11:18)と思われる。

そしてここまでの内容がパウロとペテロの邂逅(ガラテヤ1:18)の時にペテロから聞いた内容と思われる。その後、使徒9:30にあるようにパウロはタルソスに行き、11:19-26の記事にあるようにバルナバによってタルソスから連れ出されるまでそこにいたため、この間の期間については記事の時間に対する密度は小さいと思われる。

パウロがタルソスからアンティオケアに出てきたのはクラウディウス帝(在 AD 41-54)の飢饉の少し前(使徒11:26-28)であり、飢饉に際してバルナバとパウロはユダヤに派遣されている(11:28-30)。

また、バルナバとパウロが派遣されたのはヘロデ・アグリッパ1世の死去から数年以内と思われる。つまりバルナバとパウロがユダヤに派遣された記事の後、アンティオケアに戻る記述に挟まって、ヘロデ・アグリッパの迫害記事があるが、それらの出来事をユダヤ滞在中にパウロはユダヤの人々から聞いたと思われる。(おそらく情報源となったのはこの記事中に出てくる名を挙げられた人物、おそらく女中ロデかマルコ=ヨハネの母マリアと思われる。)

ヨセフス(『古代誌』20.5.2 )によればクラウディウス治世下の大飢饉はヘロデ・アグリッパ(在 AD41-44)の後にユダヤの統治権を継いだクスピウス・ファドゥス(在 AD 44-46)(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Cuspius_Fadus)の時代と、その後継者ティベリウス・アレクサンデル(在 46-48)(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Tiberius_Julius_Alexander)の時代にあったと読める。複数の統治者の期間にまたがって飢饉があったとすると少なくとも交代の年AD 46が飢饉の年であった可能性が高く、その前後にどの程度飢饉が続いたのかはわからない。

ヘロデ・アグリッパの死去年にゼベダイの子ヤコブの殉教(使徒12:2)があったとすると、それは紀元44年の春(除酵祭の頃)の出来事ということになる。

この後、バルナバとパウロの第一次宣教旅行が始まる。行程はキプロス→パフォス・パンフィリア(ここでマルコが離脱してエルサレムへ帰る)→ピシディアのアンティオケア(2回の安息日)→イコニオン→リストラ・デルベ→リストラ・イコニオン→シリアのアンティオケア

また

シリアのアンティオケア→ピシディア州→パンフィリア州・ペルゲ→アタリア→シリアのアンティオケア

となっている。この使徒会議前の宣教は半年から1年程度の期間と思われるが、宣教拠点と思われるシリアのアンティオケアにおける滞在期間が長ければその分だけ長くなる。そしてこの後、直後か、あるいは何年か置いてかで、使徒会議を迎える。ここが回心から3+14=17年後ということになり、ヤコブの殉教(AD 44)より後で、コリント宣教開始(宣教終了がAD51-52で宣教期間が1年半なので宣教開始はAD49-51)より前のことである。

これらの情報から年代を絞っていく。

イエスの磔刑はユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスの在任期間(AD 26-36)である。ルカ福音書によれば洗礼者ヨハネの活動開始もピラトの時代である(ルカ3:1)。また、ヨハネの福音書によればイエスの公生涯中に少なくとも三回の過越祭があるため、磔刑まで2年以上かかっている。洗礼者ヨハネの活動はイエスに先立つため、イエスの磔刑は紀元29年以降である。

イエスの磔刑(AD 29-36)からコリント宣教開始(AD 49-51)までの期間は最大22年、最小13年である。しかしコリント宣教以前に行われた使徒会議はパウロの回心から3+14=17年経っているはずであり、さらに使徒会議からコリント宣教までに半年以上の宣教期間があるはずであり、さらにパウロの回心は磔刑後、五旬節(過越の1か月半後)以降にさまざまな出来事があった後であるので少なくとも半年の期間があると思われるので、結局、磔刑からコリント宣教開始までの期間は最小で18年である。コリント宣教がAD 51以前であることを信じると、イエスの磔刑もAD 29-33 に絞られる。

同様に磔刑から使徒会議までは最小で17年半であり、使徒会議からコリント宣教開始までは最小で半年間であるので、使徒会議があった年はAD 46-50に絞られる。

コリント宣教の後については以下のようになっている。パウロはケンクレアイで髪を沿った後、エフェソに立ち寄った後でカイサリア→エルサレム→アンティオケア→ガラテヤ→フリギアを経てエフェソに戻り、そこに2年3ヵ月以上(ミレトスでエフェソの長老たちと話したときは「3年間」と発言している)滞在した。おそらくこのエフェソのパウロの留守中にアポロがアキラとプリスキラと邂逅し、アポロはコリントへ向かった(使徒18:24-28)。エフェソからパウロが出発する前にテモテとエラストをマケドニアに派遣する(使徒 19:22)。

その後マケドニアを通ってギリシア(おそらくコリント)に3か月滞在し、その年の除酵祭から五旬祭(ペンテコステ)の間に陸路でトロアス(小アジア)へ向かう(この同行者はソパテロ、アリスタルコとセクンド、ガイオ、テモテ、テキコとトロピモ)。トロアスでピリピから船で来たルカらと合流し、また陸路でアトス(マケドニア)へ向かってルカらの船にのり、ミテレネ、サモス、ミレトス、コス、ロドス、パタラ、ツロ、プトレマイオス、カイサリアを経てエルサレムに行く。エルサレムでおそらくすぐに捕まり、総督フェリクスの下で二年間監禁される(使徒 21-24)。二年経ってポルキウス・フェストゥスが着任した頃(フェストゥスの着任年は歴史学的に論争があり年代特定には使えない)もう一度裁判が起こり、パウロが皇帝に上訴したためローマへ行くことになる(使徒 25-27)。クレタ島のラサヤ付近に到着するが、ピニクス港へ移動する際に流され、三か月間マルタに滞在して冬を越す(使徒 28)。パウロは二年間ローマで軟禁される。

このマルタと訳されるΜελιτηは、一般的にはシチリア島の南のマルタ島のことと思われているが、使徒行伝によればイタリアとダルマティア(現クロアチア)の間のアドリア海で漂流中に停泊したところがΜελιτηであるはず(使徒行伝 27:27-29, 27:39-44, 28:1)であり、マルタ島とは場所が離れすぎている。アドリア海のΜελιτηと呼ばれる島としてより整合するのはクロアチアの南東にある島ムリェト(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Mljet)である。

古くから広く分布する伝承によればパウロはネロ帝の迫害(AD 64-68)下で殉教している。ただしその前にイベリア半島へ宣教に行ったという伝承も存在する。


パウロ書簡について。

ローマの信徒への手紙はケンクレアイの教会員フェベにより送られた(ローマ 16:1)と思われるが、コリント宣教とエフェソ宣教の間のケンクレアイ滞在にはアキラとプリスキラが同行しており(使徒 18:18)、彼らにあいさつを送っている(ローマ 16:3)ローマ書簡はこの時に書かれたものではなく、これ以降に書かれている。クラウディウスが死去したAD 54以降にアキラとプリスキラがローマ教会に戻ったと思われるため、ローマ書簡もAD 54以降と予想される。パウロは執筆時点でローマに行ったことがなく(ローマ 1:15)、献金を届けにエルサレムに行こうとしており、マケドニアとアカイア(アテネ周辺)で既に献金を集めている(ローマ 15:25-26)。このことから、エフェソ滞在の後の「ギリシアへの三か月の滞在」(使徒 20:2-3)の間に書かれたものとされることが多い。たたしその後のマケドニア滞在中などもありえる。執筆時点でテモテ、ルキオ、ヤソン、ソシパテロ、筆記者テルテオ、ガイオ、エラスト、クワルト(15章)と共にいる。パウロはエフェソ滞在中にエラストとテモテをマケドニアに派遣しているので、ローマ書執筆までにテモテと合流したことになる。

コリントの信徒への第一の手紙は「五旬節(ペンテコステ)まではエフェソにいる(1コリント16:8)」という表現から、エフェソ滞在最後の年の、五旬節までそう遠くない季節に書かれたと思われる。エフェソは騒動(使徒19章)のため五旬節までいられなかった可能性もあるが、「敵対する者も多い(1コリント16:9)」と言っていることから、騒動を受けて五旬節までいようと決意した可能性もある。また、「あなたたちのところで冬を越すかもしれない(1コリント16:6)」と言っており、「ギリシアへの三か月の滞在」(使徒 20:2-3)にはコリント教会が含まれることが予想される。執筆時点でアポロ、アキラ、プリスキラ(16章)、ソステネ(1:1)と共にいる。

コリントの信徒への第二の手紙からは、コリントからマケドニアへ行き、もう一度コリントへ戻ってからエルサレムに行く計画であったが、それがうまくいかなかったということが読み取れる(2コリント 1:15-17)。パウロは執筆時点で既に二度の訪問を終えており、三度目を望んでいることを述べている(13:1)。パウロは小アジアのトロアスでテトスと合流予定だったがうまくいかず、マケドニアに戻ってそこで合流したようである(2:12-13, 7:5-6)。その後テトスはそこからコリント教会に匿名の人物と共に派遣されたらしい(8章)。マケドニアとトロアスの往復は使徒20:3-14と整合しており、この場合、テトスと合流して書簡が書かれたのはマケドニアのアトスであると思われる。テモテが共同執筆者である(1:1)。

ガラテヤ書は年代や場所を特定可能な記述が少ないが、使徒会議の内容を話していると思われるので、使徒会議以降である。

エフェソ書は獄中書簡と思われる(エフェソ3:1, 4:1)。ティキコ(6:21)が書簡を運んだと思われる。使徒行伝ではパウロが投獄された場所としてフィリピ、カイサリア、ローマが出てくるが、第2コリントによればその執筆時点、エルサレムへ向かう前の段階で複数回投獄されており(12:23)、つまりカイサリアより前にフィリピ以外でも投獄されたらしい。

フィリピ書も獄中書簡と思われる(フィリピ1:14)。マケドニア宣教の際の援助について感謝していることから、マケドニア宣教以降に書かれている。テモテと共におり、テモテをマケドニアに派遣する予定であることを伝えている(1:1, 2:19)。テモテのマケドニア派遣はパウロがマケドニアを離れるころ(使徒17:14)とエフェソの暴動のころ(使徒19:22)があるが、使徒行伝の記述する時代より後の話と考える人も多いようである。マケドニアからエフェソまでにはコリントとケンクレアイを経由しているが、どちらも捕縛されてそうには見えず、囚人状態となりうるとすればエフェソである。よってこのマケドニア派遣が使徒行伝の記述に対応するとすれば、この書簡はエフェソ滞在中に書かれたことになる。

コロサイ書も獄中書簡と思われる(コロサイ 4:18)。コロサイ教会の指導者としてアルキポに言及している。執筆時点でアリスタルコ、バルナバのいとこのマルコ、イエス=ユスト、エパフラス、ルカ、デマスと共におり、書簡はティキコとオネシモによって届けられた(4章)。テモテが共同執筆者である。コロサイ書に関しては以下のメモでAD 63以降の書簡と推定している。

テサロニケの信徒への第一の手紙からは、パウロがアテネにいる中でテモテがテサロニケ教会に派遣されている状況と、そのテモテと合流してテサロニケ教会の様子をパウロが聞いて書いた様子が読み取れる(3:1-6)。これらは第一次コリント滞在の時期と整合する(使徒 18:1-5)。このときパウロはシルワノとテモテと共にいる(1テサロニケ 1:1)。

テサロニケの信徒への第二の手紙に年代を特定する手がかりはあまりない。執筆時点でシルワノとテモテが共にいる。シルワノ(ラテン系呼称)はシラス(ギリシア系呼称)と同一と思われる。シラスはコリント宣教以降は使徒行伝に名前が出てこない。

テモテへの第一の手紙は、テモテがエフェソ教会を管理している時期で、それはマケドニア派遣の際に指示しておいたと述べている(1テモテ 1:3)。テモテの二回のマケドニア派遣(使徒17章、19章)のうち一度目はエフェソ教会開拓前であるため整合しない。2回目のマケドニア派遣はエフェソの暴動のころである。その後、テモテはローマ書執筆時までにパウロのところへ戻っているので、このテモテ書簡が送られた頃のテモテのエフェソ滞在は短いものであったということになる。テモテのマケドニア派遣を使徒行伝の述べる時代以降のこととする場合は、テモテはローマからマケドニアを経由してエフェソで着任したということになる。

テモテへの第二の手紙は、ルカのみがパウロと共にいて、デマスがテサロニケへ去ってしまった状態をテモテに報告している(2テモテ4:10-11)ため、彼が共にいるコロサイ書執筆の時期からはずれると思われる。また、クレスケンスをガラテヤに、テトスをダルマティアに派遣したようであり、ティキコをエフェソに遣わしている(4:12)。ティキコはエフェソ書とコロサイ書を届けた人物と思われるが、そのうちのコロサイ書はテモテが共同執筆者であり、コロサイ書を届けるために小アジアへティキコと派遣した時とは別の派遣に言及していることがわかる。また、マルコと共に近々自分のところへ来るように要請している。来る時にトロアスに置いてきた上着と羊皮紙の書物を持ってくるように言っているので、最後の小アジア宣教からそう遠くない時期と思われるが、ローマ到着よりは後である(1:17)。ミレトスに置いていくことになったトロフィモは少なくともエルサレムにまでは随行している(使徒 21:29)ので、このパウロのパレスチナ滞在以降の書簡ということも整合する。また、テモテはこの時トロアスより南か東にいることが予想され、おそらくエフェソにいるかもしれない。その場合、ティキコがエフェソに運んだエフェソ書簡と同時に送られたものかもしれない。

テトスへの手紙ではクレタ島に残してきたテトスを、パウロが冬を越す予定のどこかのニコポリス(ニコポリスという名の都市は複数ある)に呼んでいる。アルテマスかティキコをテトスのもとに派遣する予定のようである。

ピレモンへの手紙も獄中書簡と思われる(ピレモン1:10)。アルキポにも宛てており、テモテが共同執筆者である(1:1-2)。執筆時点でエパフラス、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカが共にいる。コロサイの信徒への手紙と状況が似ており、コロサイ書を届けたオネシモが話の中心であることから、同時に送られたものかもしれない。


ここまでをまとめると(AD 30±1はAD 29開始からAD 30終了まで)

()内の年月はコリント宣教の終了をAD 51夏として宣教期間などを適当に類推した年号


AD 28.5±2.5 イエスの洗礼

AD 29春 or 30春 or 31春 or 32春 or 33春 イエスの磔刑

(同年初夏)ペンテコステ

 - ペテロの宣教活動

 - ステファノの殉教

 - パウロの迫害

AD 31.5±2.5(AD 32?)         パウロの回心

 - パウロのアラビア寄留

 - パウロのダマスコ脱出

 - コルネリウスの洗礼

AD 34±2(AD 35?) パウロとペテロの邂逅@エルサレム

(同年)パウロのタルソス隠居

AD 44春  ヘロデ・アグリッパ1世の迫害、ゼベダイの子ヤコブ殉教

(同年)ヘロデ・アグリッパ死去

 - クラウディウス帝治下の飢饉(AD 46?)

 - パウロとバルナバのエルサレム派遣(AD 46? この一年前(AD 45?)にパウロはタルソスからアンティオケアへ)

 - パウロ・バルナバ・マルコによる小アジア宣教(AD 47? マルコは途中離脱)

AD 48.5±2.5(AD 49 初春-夏?) 使徒会議@エルサレム

 - パウロとバルナバの分裂、パウロとシラス、キリキア宣教

 - ルステラでテモテと合流

 - マケドニア宣教(ピリピで投獄、テサロニケで暴動)  

(AD 49頃   クラウディウスの追放令、アキラ夫妻がコリントに)

AD 50.5±1.5(AD 50 初春?) 第一次コリント宣教開始

 - 第一テサロニケ書執筆

AD 52±1(AD 51 夏?) 第一次コリント宣教終了、ケンクレアイ滞在、エフェソ宣教開始

 - パウロのエルサレム・アンティオケア・ガラテヤ訪問

 - アポロの宣教活動(エフェソ・コリント)

 - 第一コリント書執筆

    - フィリピ書執筆(?)

AD 54.5±1.5(AD 54 秋?) エフェソ宣教終了、ギリシア滞在(冬を越す)

    - テモテへの手紙第一執筆

 - ローマ書執筆

AD 54春 or 55春 or 56春(AD 55 春?) エルサレムへ向かう

 - @トロアス

 - @アトス 第二コリント書執筆

 - @ミレトス

 - @エルサレム

 (同年初夏)エルサレムで捕縛

AD 57.5±1.5(AD 57 夏?) ポルキウス・フェストゥス着任

(同年)ローマへ航行途上、Melite島へ漂流(冬を越す)

- テトスへの手紙執筆

AD 58春 or 59春 or 60春(AD 58春?) 軟禁下でローマ宣教開始

 - 第2テモテ&エフェソ書執筆?

AD 61.5±1.5(AD 60?) ローマ滞在終了(使徒言行録の記述終了)

 - (イスパニア宣教?→再度ローマへ?)

 - フィレモン&コロサイ書執筆?(AD 63?)

AD 66.5±2.5(AD 64?) ネロ帝の迫害下でローマで殉教

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