『教会史』第1巻 第4章 キリストによって全ての国々へと宣言された宗教は、新しいものでも、見知らぬものでもないということ(エウセビオス)

http://www.newadvent.org/fathers/250101.htm

第4章 キリストによって全ての国々へと宣言された宗教は、新しいものでも、見知らぬものでもないということ

1節
しかし、誰も彼の教義が、あたかも最近の起源で、ある人によって形作られた、他の人々とどんな観点でも違う、新しいものであるなどと、また見知らぬものであるなどと思わないように、我々はここでこの点についても短く考慮しよう。

2節
以下のことは公認されている。すなわち最近の諸時代において我らの救助者であるイエス・キリストの出現が全ての人々に知られるようになった際、直ちにその見かけは新しい国のように成った。その国は自認するごとく小さくないものであり、地のどこかの一角に住まわっているものでなく、全ての国々のうちで最も多数であり敬虔であり、不滅で難攻不落である。なぜならそれはいつも神の助けを受けているからである。それゆえ神の表明されない協定によって予約された時に出現したこの国は、全ての者によってキリストの名を以って名誉を帰されてきたのである。

3節
預言者たちのうちの一人は、神の御霊の目を以って、起こるはずのことを前もって見た際、それに驚嘆してこう叫び出したほどであった。「誰がこのような諸々の事柄を聞いただろうか? そして誰がこのように語っただろうか? 地が一日のうちに生み出されたというのか? 国が一度に生まれたというのか?」[イザヤ 66:8] 同じ預言者は、その国がそれによって呼ばれるはずの名についても手がかりを与えている。このように言っているところである。「私に仕える者たちは新しい名によって呼ばれるだろう。それは地上において祝福されるだろう。」[イザヤ 65:15-16]

4節
しかし我々は新しい者たちであり、キリスト者のこの新しい名は本当に、しかし最近に、全ての国々の間で知られてきたが、それでも我々の生と我々の管理は、我々の宗教の諸々の教義も、近ごろ我々によって発明されたものではない。いわばそれは人の第一の創造から、古代の神的に好意を受けた人々の自然的な理解によって確立されてきたのである。

5節
ヘブル人の国が新しいものでなく、その古さのために普遍的に名誉を帰されていることは、全ての者たちに知られている。この民の諸々の書物と諸々の著作は古代の人々の報告を含んでおり、それらは確かに希少であり数少ないが、それでも敬虔と正義と他のあらゆる徳のために際立っている。これらのうち、ある傑出した人々は洪水の前に生きた。また他の、ノアの子たちと子孫たちはその後に生きたが、彼らのうちにはアブラハムがいて、ヘブル人たちは彼を自分たちの設立者であり祖として祝賀している。

6節
もし誰かが、正義の証を享受してきた全ての者たちは、まさにアブラハムから第一の人へと遡るまで、名においてそうでないとしても、実はキリスト者であった、と断言するとしても、彼は真実からはみ出してはいないだろう。

7節
というのも、その名が示唆すること、すなわちキリスト者の人が、キリストの知識と教えを通して、節制と正義について、生の忍耐と雄々しい徳について、そして全てに渡って一なるまた唯一なる神への敬虔の公言について、際立っているということは全て、[旧約の先人たち]によって我らに劣らず熱心に実行されたのである。

8節
彼らは体の割礼について気にかけなかったし、我々もそうである。彼らは安息日を遵守することについて気にかけなかったし、我々もそうである。彼らはある種々の食物を避けなかったし、最初にモーセが諸々の象徴として遵守されるよう彼らの後世へと伝えた他の諸々の区別を考慮することもなかった。今日のキリスト者もそのような諸々の事柄をしないのである。しかし彼らもまた明白に神のキリストその方を知っていた。というのも、既に示されたように、彼はアブラハムへ出現し、イサクに諸々の啓示を分与し、ヤコブと語らい、モーセとも、その後に来た預言者たちとも会話を持ったのである。

9節
ここから、これらの神の好意を受けた人々がキリストの名を以って名誉を帰されていることが、彼らについて以下のように言っている文章に従ってわかるだろう。「私のキリストたち[油注がれた者たち]に触れてはならない。私の預言者たちに害を為してはならない。」[歴代誌上16:22]

10節
それで以下のように考えることが明白に必要である。すなわち、キリストの教えを通して近ごろ全ての国々に宣べ伝えられてきたその宗教は、全ての宗教のうちで第一かつ最古のものであり、アブラハムの世代において神の好意を受けたこれらの人々によって見出されていたのである。

11節
長い時の後にアブラハムが割礼の命令を与えられた、と言われるならば、我々はこう返答する。すなわち、そうであるにもかかわらず、この前に彼は信仰を通しての正義の証を受けていることが宣言されたのである。神の言葉がこのように言っている如くである。「アブラハムは神を信じた。そしてそれは彼について正義と認められた。」[創世記 15:6]

12節
そして確かにアブラハム、すなわち彼の割礼の前に義化された人であった者に対して、預言が神によって与えられた。[神は]彼に自身を啓示したのである(但しこれはキリストその方、神の言葉であった)。その預言は来るべき世代において[アブラハム]と同じ方法で義化されることになる者たちに関するものであり、以下がその諸々の言葉である。「そしてあなたにおいて地の全ての部族が祝福される。」[創世記 12:3]そしてまた、「彼は偉大で多数からなる国となるだろう。そして彼において地の全ての国々は祝福されるだろう。」[創世記 18:18]

13節
これは我々において成就したものとして理解して差し支えないものである。というのも彼は、彼の父祖たちの迷信と、彼の生のかつての誤謬を放棄し、全てに渡っての一なる神を告白し、徳の諸々の業によって彼を崇拝し、後にモーセによって与えられた律法の業務を以ってでなく、キリスト、すなわち彼に対して出現した神の言葉にある信仰によって、義化されたのである。それで、この特性を持つ人であった彼へ、彼において地の全ての部族と国々が祝福されると言われた。

14節
しかし現在、まさにそのアブラハムの宗教は再出現した。その宗教は世界に渡って、キリスト者のみによって、諸々の業において実行されているのである。それらは言葉よりも有効なのである。

15節
それで、キリストに属する我々が、神の好意を受けたそれらの古代の人々と、一つで同じ生の様式を、また一つで同じ宗教を、実行している、と告白するのに何か妨げがあろうか? そこで以下は明らかである。キリストの教えによって我々へ託された完璧な宗教は、新しいものでも見知らぬものでもなく、真実を言わなければならないならば、それは第一で真実の宗教である。この議題についてはこれで十分であろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?