抄訳『諸原理について』序文(オリゲネス)

(1)
祝福の人生へと導く善い知識を得ようとする時、人はそれをどこから引き出すでしょうか。恵みと真理はイエス・キリストによって成ったと固く信じる人たちは、その知識を、他の何からでもなく、キリストの言葉と教えから引き出します。つまり、「私が真理である」[ヨハネ14:6]という言葉をその通り認めているのです。
ここで「キリストの言葉」とは、キリストが肉体をまとい、人となっていた時に話した言葉のことだけを指すのではありません。神の言葉であるキリストは、人となるより先に、モーセと預言者たちのうちから語ってきたのです。神の言葉を受けたからこそ、預言者たちはキリストについて預言できました。
預言者たちが言行においてキリストの霊に満たされていたことは、聖書から容易に示すことができます。
ここではヘブル人への手紙からパウロの証言を引用すれば十分証明になるでしょう。パウロはこう言っています。
「モーセは信仰により、大人になった時、ファラオの娘の子と言われることを拒否した。一時的な罪の快楽を持つよりも、むしろ神の民と共に苦しみを受けることを選び、エジプト人たちの諸々の宝より、キリストの非難をより偉大な富と位置付けたのである。」[へブル11:24-26]
さらに、キリストが昇天後にも使徒たちのうちから語ったということを、パウロはこのように示唆しています。
「それとも、私のうちで語っているキリストについて、あなたがたはその証拠を追求するのか?」[第二コリント13:3]

(2)
ところが今、キリストを信じると告白する人たちも、互いに主張が異なっています。些細な違いだけでなく、「神」「主イエス・キリスト」「聖霊」「被造物」「霊的権威」といった極めて重要な論点についても、食い違っているのです。ですから、まず始めにこれら重要な論点について道筋と基準を明確にし、それから他の論点について探求するのが良いでしょう。私たちは「キリストは神の子である」と信じ、「我々は彼自身から真理を学ぶべきである」ということに納得していますから、真理を探求するにあたって、誤りを含むギリシア人や異国人の主張から始めることはありません。
キリストの見解を知っていると思ってる多くの者たちが、実際には先人の教えから離れてしまっていますが、使徒たちから連続的に継承された教えは諸教会で保存され、今も維持されています。それこそが真理として信じられており、教会の伝承、使徒の伝承と全く同じものなのです。

(3)
さて、これから列挙することは、必ず知っておきましょう。なぜなら、これらのことは、キリストの信仰を宣教した使徒たちが明確に伝えたことだからです。使徒たちが、神学的探求に関心の無い人たちにとっても必要なことであると信じていたことなのです。
これらの宣言の理屈に関しては、優れた霊的賜物を持つ者たち、特に、言論、知恵、知識の賜物を聖霊によって受けた者たちが探求するよう、託されました。
使徒たちは、「単にそうなっている」ということをはっきりと言いましたが、どういう形で、どうしてそうであるか、といったことについて、語らないことがありました。
これは後に続く人たちのうち、知恵を愛する熱心な人々が、自分たちの賜物の実りを実践で明らかにできるようにするためです。当然、このような人々は、知恵を受け取る者にふさわしくあるように自分を整えるのです。

(4)
さて、使徒の伝えた第一の明確な教えは、神は唯一である、ということです。
この方が、全てを創造し、組み立てました。この神は、第一の被造物と世界の基礎から、無であったところに、全てのものを造りました。この神は、全ての義人たちの神です。つまり、アダム、アベル、セト、エノシュ、エノク、ノア、セム、アブラハム、イサク、ヤコブ、十二族長、モーセと預言者たちの神です。
この神が、終わりの日々に、預言者たちによって前もって知らせたように、
私たちの主イエス・キリストを送り、
まずイスラエルを招き、彼らの背信の後に、異邦人をも招きました。
この義なる、そして善なる神、つまり私たちの主イエス・キリストの父なる神ご自身が、律法と預言者と、そして福音を、与えました。
この方は使徒たちの神であって、旧約聖書と新約聖書両方の神なのです。

使徒の次の教えは、キリスト・イエス、つまり、この世に来られた方が、全ての被造物より前に父から生まれたということです。
この方が全ての創造の際に神に付き従っていました。
「たしかに彼自身によって、全てが成立させられた」[ヨハネ1:3]のです。
終わりの時に、彼は神でありながら、自分自身を虚しくして[フィリピ2:7]、人と成されて、受肉しました。
そして人とされながらも、もともとそうであったように、神であり続けています。
処女と聖霊によって生まれたというところ以外は、私たち人間の体に似た体を持ちました。
またこのイエス・キリストは、本当に生まれ、本当に受難しました。幻想ではなく、人と同じ死を味わって、本当に死にました。そして本当に、確かに、死者のうちから復活しました。復活後、弟子たちのところにしばらく留まり、それから昇天しました。

使徒の伝えた次の教えは、御父と御子に、そして彼らの名誉と尊厳に結びついた聖霊についてです。
この方については、生まれたものか、生まれぬものか、神の子であるのか、そうでないのか、明確にはわかりません。
このような論点は、努めて聖書から注意深く調査するべきことです。
この霊は、聖徒たち、つまり預言者たちや使徒たち一人一人に、吹き込みました。
そして、キリストの来臨の時代に吹き込まれた霊は、旧約の時代のうちにあった霊と別物ではありません。
これらのことは教会において明確に教えられてきたことです。

(5)
さて、使徒の伝えた次の教えは、魂が、ある実体と生命を持ち、この世界から離れると、それぞれふさわしい報いを受ける、ということです。魂は、自身の行いがもたらす永遠の命と祝福を得るか、もしくは自身の悪行の咎によって向かわされる永遠の火と刑罰に渡されるか、になります。

また、使徒の教えには、死者たちの復活の時が来るということ含まれます。その時、この体、つまり、「朽ちるものへと蒔かれており、朽ちないものへと復活する」[第一コリント15:42]、そして「不名誉へと蒔かれおり、栄光へと復活する」この体と共に復活するのです。

また、確定した教会の教えには、全ての理性ある魂が自由意志を持っている、ということが含まれます。そしてそこに、悪魔とその使い、敵の力との戦いが必要となります。彼らは魂が罪を背負うように引っ張りますが、そこから自分を守るのです。私たちが正しく、思慮深く生きるならば、このような負い目から抜け出す道を見出すことができます。
そしてここから分かることは、私たちはいつも、必然に従って悪や善をするよう強制されてはいないということです。自分の意志決定者が自分であれば、罪に追い立てようとする力や、救いへと導こうとする力があるとしても、必然的に正しいことや悪いことをするように強制されてはいないのです。私たちがそのような必然に従っていると思う人たちは、星の運行が人間の行いの原因であると言っている人と同じです。星の運行が、意志決定の自由と関係なく降りかかる出来事の原因というだけでなく、自分の能力の範囲内にあるはずのことの原因にもなっていると言うのです。
さて、魂については、遺伝によって伝わったものに理性や実体が含まれるものなのか、それとも何か他の始まりがあるのか、明確にはされていません。また、誕生の時に新しく生まれるのか、外にあったものが体に与えられるのか、そうでないのか、教会の教えでは十分に明確にはされていません。

(6)
悪魔とその使いたち、そして敵の力に関する教会の教えは、それらが実際に存在する、ということです。しかし彼らの正体、どのように存在しているのか、などは十分明確には説明されていません。大半の人々によって保持されている考えは、悪魔がもともと御使いであったということです。そして堕落した後で、できる限り多くの御使いたちを一緒に降りるよう誘導したとのことです。悪魔と共に降りた御使いたちは彼の使いと呼ばれています。

(7)
また、教会の教えの一部には、世界は造られたもので、始まりの時があった、ということが含まれます。また、世界は悪のために破壊されるということもそうです。
しかしこの世界の前に存在したものや、この世界の後に存在するものについては、多くの人はよく知りません。それに関しては教会の教えに明確な宣言はないのです。

(8)
最後に、教会の教えには、聖書が神の霊によって書かれたということ、そして外見上の意味だけでなく、大半の人は気づくことのできない別の意味を持つ、ということが含まれます。聖書に書かれたことは神秘が形どったものであり、神聖な存在の像なのです。これに関して教会全体で一致した意見は、律法全体が霊的なものであるということと、しかし律法の霊的意味は全ての者に知られているわけではないということです。それらは知恵と知識の言葉について聖霊の賜物が与えられたものたちだけが知っているのです。

さて、"ασωματον"、つまり「体の無い」という言葉は、多くの書物でも、私たちの聖書でも、使われておらず、知られていません。
「ペテロの教義」と呼ばれる論考では救い主が「私は体の無い霊鬼ではない」と弟子たちに言ってるような場面があると言う人がいるかもしれませんが、その著作は教会文書のうちには含まれません。それがペテロによる著作でもなく、他の聖霊に霊感された人による著作でもないということを示すことができます。
そこは良いとしても、ここでも"ασωματον"という言葉は、ギリシア人や異国人の著者たちのうちで哲学者が「体の無い」ものについて議論する時の意味とは同じではありません。「ペテロの教義」の中でのイエスは、「体の無い霊鬼」という表現を、物質的で目に見える私たちの体とは違う何か、を表すために使っています。ここは、この論考の著者の意図に合わせて、イエスの持つ体が、霊鬼のような、つまり気体のような希薄なものではなく、中身の詰まった、触れることのできる体であった、という主張ととるべきです。
さて、慣例では、中身が詰まっておらず、触れることのできないものを「体の無い」ものと呼びますが、これは単純すぎるかもしれません。私たちが息している気体は、掴んだり持ったりできず、また圧力に抵抗できないために、「体の無い」もの、と呼ぶべきなのでしょうか。

(9)
しかし私たちは、ギリシアの哲学者たちが"ασωματον"、あるいは「体の無い」と呼ぶものが、聖書の中にも別の用語で見つからないか、探求するべきです。教会の教えで明確にされていない、「神ご自身は、体の無いものなのか、形を持ったものなのか、普通の体とは違う性質を持つのか」といったことも探求課題なのです。キリストと聖霊、また全ての魂や、理性を持つ全てのものについても、同じような探求が必要です。

(10)
また、教会の教えの一部には、神の御使いたちがいる、ということも含まれます。人の救いを成すにあたってキリストに付き従う良い力があります。しかし、御使いたちがいつ造られ、どのような性質であり、どのように存在するか、は明確にはされていません。
太陽、月、星々に関しては、生きているのか、命の無いものなのか、明確に伝えられていません。
さて、以上のこと全てを、真理の統一的な体系として組み上げるためには、これら基礎的な教えを「知識の光で自らを照らす」という掟に沿って用いていく必要があります。それぞれの論点についての真理を確かめるためには、明確で漏れのない命題を示すことが必要です。また、聖書のうちで見出した根拠を示すことや、正しい方法で厳密に論理を追っていく議論を用いて、教えの統一体を造っていく必要があるのです。

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