[メモ]エマオ証言(4)トマスへの顕現とガリラヤでの顕現

ヨハネの証言によると、七人の弟子へのガリラヤ湖(ティベリアス湖)での顕現が三度目の顕現であるため、文脈からして二度目の顕現が復活八日目のトマスを含む弟子たちへの顕現である。

この二回の顕現について

・ガリラヤ山上での顕現(マタイ)

・ベタニヤでの昇天(ルカ)

・五百人への顕現(パウロ)

・ヤコブへの顕現(パウロ)

・全ての使徒たちへの顕現(パウロ)

のいずれかと同一視などが可能かを考えると、これは極めて難しい。

まず、トマスらへの顕現は「施錠した家の中」で起こっており、一週間前と状況が変わっていない。これはユダヤ人の脅威を恐れている、つまりまだ使徒たちはエルサレムにいる、ということが推察できる。これはイエスの磔刑が過越祭の前日に起こっていることから、この日は一週間続く祭りの終わりごろであることがわかり、従って「ガリラヤに行くように」との指令があったとしても、まだエルサレムに使徒たちが留まっている理由は十分にある。使徒行伝によればエルサレム近郊には百二十人の信徒がいた(使徒1:15)ようであるが、ユダヤ人を恐れて施錠した家に籠っているような情勢で、五百人に同時に現れる出来事があったとは考えにくい。従って五百人に同時に現れる出来事は八日目より後であり、同時にヤコブと全ての使徒への顕現もそれより後ということになる。

次に起こった出来事は、七人の弟子たちへの顕現である。ここにも五百人の弟子たちがいる様子はない。エルサレムで二回の顕現に接した使徒たちは、過越祭が終わった後で、「ガリラヤに行くように」という指令に従ってガリラヤに帰る。ここでは匿名の二人の弟子が出てくるが、この一方が主の兄弟ヤコブである可能性については、これ以前に五百人に同時に現れていることがなさそうなので、低いと思われる。

さて、この他にガリラヤで起こったこととして福音書が記録することは、マタイの福音書が述べる、ガリラヤの山上での顕現である。それによれば十一人の弟子たちが山上に向かい、イエスと会うが、疑う者たちもいた、となっている。十一使徒はトマス以外、復活の日にイエスと会って疑念を解消しているため、十一使徒の括りにおいて今更疑う者が複数人いるのは極めて不自然である。そこで、こここそが婦人たちとクレオパと十一使徒以外の弟子たち=五百人の弟子たちへの顕現に相応しいということが推察される。山上の垂訓の場面のように、山の上であれば、同時に多くの人々が目撃することが可能であり、最も大規模な顕現の場所としてマタイ福音書の「ガリラヤの山上」が最も相応しいと思われる。

さて、残る出来事は

・主の兄弟ヤコブへの顕現

・全ての使徒への顕現

・ベタニヤでの昇天

であり、この順に起こったと思われる。

しかし、既に十二使徒に現れているのに、「全ての使徒」とは誰を指しているのだろうか。(つづく)

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