『Ta'anit 20a』(バビロニア・タルムード)

[訳注:干ばつに際して貧者に水を分配するために貯水池を借りたニコデモが、その返済を迫られている。]「それで今雨が降るというのか?」そして彼は喜んで浴場に入った。その主人が喜んで浴場に入ると、ナクディモン[ニコデモ]は悲しんで神殿に入った。彼は自分を[肩掛けで]覆って、祈りに立った。

彼は[神の]前に言った。「宇宙の主君よ、あなたの前に以下のことは明らかになっており、知られている。私は自分自身の名誉のために行動したのではなく、私の父の家の名誉のために行動したのである。むしろ、私はあなたの名誉のために行動し、それで祭りの巡礼者たちに水があるようにしたのである。」直ちに空は曇り、雨が降ってついに十二の貯水池が満たされるまでになり、さらにそれらは溢れて出るまでになった。

主人が浴場を発つと、ナクディモン・ベン・グリオン[グリオンの子ニコデモ]は神殿を発った。彼らが互いに会ったとき、[ニコデモは]彼に言った。「超過した水の分であなたが負っている代金を私に与えるように。」[主人は]彼に言った。「私は聖なる者が、彼に祝福あれ、彼があなただけのために世界を揺らし雨を降らすということを知った。しかし、私はまだあなたに対して要求し、それによってあなたから金を取ることができる。太陽が既に見えなくなってしまい、雨が私の財産に降っているのである。」

[ニコデモ]は神殿に戻って入ると、自分を[肩掛けで]覆って、祈りに立った。彼は[神の]前に言った。「宇宙の主君なる方よ、あなたは、あなたの世界に愛する者たちがいるということを知らしめ給え。」直ちに、雲は散り、太陽が輝いた。その時、主人は彼に言った。「もし太陽が[雲を通って]射し込まなかったなら、私はあなたに対して、[まだ]あなたから金を取ることができると[要求]したことだろう。」[賢者は]こう教えている。「ナクディモンは彼の名ではなかった。そうでなく彼の名はブニ[בוני]であった。ではなぜナクディモンと呼ばれたのか? なぜなら太陽が彼のために射し込んだ[נקדרה]からである。」

賢者たちは教える。「三者のために、太陽は射し込んだことがある。モーセ、ヨシュア、そしてナクディモン・ベン・グリオンである。」ナクディモン・ベン・グリオンはこの伝承によって保証されている。ヨシュアについても一節でこう書かれている通りである。「そして太陽は立ち止まり、月は留まった。」(ヨシュア 10:13)しかし、モーセについてはどこから[わかるのか]?

ラビ・エラザルが言った。「それは『私は始めよう』から導かれる。『私は始めよう』とは、ここでこう書かれている。『私は始めよう、あなたがたについての恐怖を[諸国民に]置くことを。』(申命記 2:25)そしてその[ヨシュアに関するところ]では、こう書かれている。『私は始めよう。あなたを大いなる者とすることを。』(ヨシュア 3:7)」

ラビ・シュムエル・バル・ナフマニが言った。「『置く』から導かれる。『置く』とは、ここでこう書かれれている。『私は始めよう、あなたがたについての恐怖を[諸国民に]置くことを。』(申命記 2:25)そしてその[ヨシュアに関するところ]では、こう書かれている。『主がアモリ人を[イスラエルの前に]置いた日に』(ヨシュア 10:12)」

ラビ・ヨハナンが言った。「その節自体から導かれる。『あなたがたについての報告を聞いた者とき、その者は震撼し、あなたがたのために苦悩することになるだろう。』(申命記 2:25) いつあなたがたのために震撼し苦悩するというのか? モーセのために太陽が射し込んだ時である。」

[ミシュナによれば]「そして同様に、ある都市の上に雨が降らないならば、[それは呪いである。(アモス 4:7)]」とは。ラヴ・イェフダが、ラヴがこう言ったと言った。「両者は呪いに[直面]している。」[訳注:ここでアモス 4:7の言及と逆の内容を述べたので、以下は普通の読みと逆の内容を示しうる箇所の例を挙げている。]

「エルサレムは彼らの間で月経中の女のようである。」(哀歌 1:17)ラヴ・イェフダが、ラヴがこう言ったと言った。「[これは逆に]祝福として[も捉えることができる]。月経中の女のようであるとは、月経中の女が[そのうち清めが終わって]許可されるように、エルサレムも回復する、ということである。」

「いかにして彼女は未亡人のようになったのか」(哀歌 1:1)ラヴ・イェフダが言った。「[これも逆に]祝福と[捉えることができる]。未亡人のように、しかし実際の未亡人とは違うのである。そうでなく、[エルサレムは]その夫が遠くの国へと行ってしまった夫のようなのである。そして彼は彼女ところに戻る意思があるのである。」

「それゆえ私はあなたを卑しめ低めた。」(マラキ 2:9)ラヴ・イェフダが言った。「祝福として[捉えることができる]。[国々が]我々のうちから川の役人や政府の役人のような[面倒な役職を任命する]ことがないのである。」

「主はイスラエルを撃つのである。それは葦が水中で揺らされるようなものである。」(列王記上 14:15)ラヴ・イェフダがラヴがこう言ったと言った。「祝福と[捉えることができる]。ラビ・シュムエル・バル・ナフマニが、ラビ・ヨハナンがこう言ったといった通りである。『こう書かれているのは何か。「友による傷は忠実なものであるが、敵からの口づけは詐欺である。」(箴言 27:6)シロ人アヒヤがそれによってユダヤの民を呪った呪いは、悪人バラムがそれによって彼らを祝福した祝福に勝るのである。

シロ人アヒヤは葦[の例え]によって呪った。「主はイスラエルを撃つ。それは葦が水中で揺らされるようなものである。」この葦が水の、ある場所に立つように、そして[切られた後で]その新芽が[自身を]補充するように、そしてその根が数多くある[ように]、そしてたとえ世界の全ての風が来てそれに吹き付けても、彼らはその場所から動くことができず、むしろそれらと共に振り回されて、風が落ち着くと葦は[まだ]その場に立っている[ように、ユダヤの民も留まり続ける]。

しかし、悪人バラムは杉[の例え]によって祝福した。このように述べられている通りである。「水のほとりの杉のように」(民数記 24:6)この杉は水中の場所に立っておらず、その新芽が補充することはなく、その根も数多くはなく、もし世界中の全ての風がそれに吹き付けとしてもその場所から動かされることはないが、一度南風が吹きつけると、それは根こそぎにし、ひっくり返してしまう。そしてそれだけなく、葦はそこから律法の巻物、預言者たち、諸書を書くための筆が取られるという益を持っている。』

賢者たちは教えた。「人はいつも葦のように柔和であるべきであり、杉のように頑なでないべきである。」ラビ・シモンの子ラビ・エラザルがミグダル・ゲドルから、彼のラビの家から来たときにある出来事があった。彼はろばに乗っており、川の堤防の上を散歩していた。そして彼はとても嬉しく、彼の頭は自尊心で膨れ上がっていた。なぜなら彼は律法をよく研究したからである。


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