『Sanhedrin 43a』(バビロニア・タルムード)

「そしてイスラエルの子らは主がモーセに命じた通りに為した。」[レビ記 24:23]

そうであるとすれば、[既に石打ちにすることはわかっているのに、重ねて]「石によって彼を石打ちにする」[と述べること]は何をする[ことを示した]のか。その[一文]は必要なものである。こう教えられていることのためである。「そして彼らは石によって彼を石打ちにした」の「彼を」は、彼が服を着ない[裸な状態にされて石打ちにされたことを示す]。「石によって」は、一つの石によって死んだならば、それで満たされる[ため、何度も石を投げる必要がないことを示す]。

「[一つの]石[אבן]」と書かれることは必要であり、「複数の石[אבנים]」[民数記15:35-36]と書かれることも必要であった。慈悲深い方が「[一つの]石」と[だけ]書いたならば、一つの石で死ななかった場合に他の[石]を持ってきて殺すことをしない、と言うだろう。それで慈悲深い方は「複数の石」と書いた。慈悲深い方が「複数の石」と[だけ]書いたならば、最初から二つ[以上の石]を持ってくることになる、と言うだろう。それで慈悲深い方は「[一つの]石と書いたのである。

しかしここについてタンナ[紀元200年くらいまでのユダヤ教教師]は言った。「そう述べられている」と。それで、もしそれが述べられていなかったならば、[それについては]こう言われている。もしある節が述べられていなかったならば、類比[による類推]を[考えることになる]言うだろう。さてある節は述べられたので、類比[による類推]は必要がない。

ラヴ・アシは言った。「[このとき]モーセはどこに座していただろうか。それはレビ人の宿営である。そして慈悲深い方は彼に言った。『呪いを口にした者を外へ連れ出しなさい』[レビ記 24:14]つまり、レビ人の宿営の外へ。[さらに]『宿営の外へ』はイスラエル人の宿営の外へ[という意味を加えている]。『それで彼らは呪いを口にした者を連れて行った』は[実際に]履行[されたこと]について[示している]。

[しかし]その履行についてはこのように露わに書かれているではないか。「そしてイスラエルの子らは主がモーセに命令した通りに為した。」[しかし]それは手を置くことや、[刑場に]放り落とすこと[を履行したことを示す]。

賢者たちはラヴ・アシに言った。「あなた[の論理]に従うなら、燃やされる雄牛たちに関して書かれている全ての「連れ出す」[という言葉]からは何がわかるのか。」これは難しい。

[ミシュナの]「一者が立つ」[議会の入り口に衣服を手にして立つと、刑を執行しようとする者たちにその判決に関する疑義を起こすことになる]とは。ラヴ・フナが言う。「私には、以下が明白である。[犯罪者が]石打ちされた石、磔にされた木、殺害された剣、窒息させられた布、これら全ては共同体からのものである。この理路は何か? 我々は犯罪者たちに行って自分自身のものから持ってきて自分を殺すようには言わない。」

ラヴ・フナが提起する。「[刑の執行を]止めるために振られる布や走らされる馬は、だれのものから来るのか。」助けるためだから彼自身のものからか、それとも議会が助ける義務があるため、彼ら[共同体]のものから[来るのか]。

そしてさらに、ラヴ・ヒッヤ・バル・アシが、ラヴ・ヒスダが言っていると言っていることはこうである。「[議会は]殺されようと準備されている者に一杯の葡萄酒のうちに一粒の乳香を与える。その思考を混乱させ[て恐怖を軽減す]るためである。このように述べられている通りである。『滅びようとする者に強い酒を与え、魂において苦しむ者に葡萄酒を与えよ。』(箴言 31:6)」そしてこう教えられている。「エルサレムの傑出した女性たちが提供して持ってくるだろう。」これらの傑出した女性たちが提供しなかったならば、誰から[得るのか]? これについては、共同体からであるというのが確実に合理的である。こう書かれている通りである。「与えよ。[תנו, 複数]」(箴言 31:6)つまり彼ら[共同体]からである。

ラヴ・アハ・バル・フナはラヴ・シェシェトに尋ねた。「生徒たちの一人が『私は彼を無罪にする[理路]を教えることができる』と言い、そして彼が沈黙した[場合]、どうなるのか?」 ラヴ・シェシェトは彼の両手を振って[言った]。「沈黙する[者まで取り合うならば、]世界の果ての誰かでさえ[取り合わなくてはいけない]。」[しかし]そこでは、誰も[何も]言っていない。この[例]では、[既に]言っている[ので、前提が違う]。[この場合]どうなるのか。

来て聞きなさい。ラビ・ヨセイ・バル・ハニナが言う通りである。「生徒たちの一人が無罪を[主張]し、死んだなら、彼をあたかも生きて自分の座にいるかのように見る。彼が無罪を[主張]したならである。彼が無罪を[主張]しない[で、そのような主張をしたいという意思を示しただけの場合]、[死んだ人の票が採決に勘案されることは]ない。」

[しかし]無罪を主張したなら、[その者が無罪側の票に数えられること]は私には明確なことである。[主張したいという意思を]言う[だけ]なら、二律背反を起こす。

[ミシュナの言う][彼[被告]自身も、]とは。一度目と二度目については、こう教えられているではないか。「一度目と二度目[の抗告]は彼を戻し、彼の言明に実質があるか、彼の言明に実質がないかを[考える]。ここから後では、彼の言明に実質があれば戻し、彼の言明に実質がなければ戻さない。」

ラヴ・パッパが言った。「二度目から後であることを説明せよ。」

[言明に実質があるかどうかを]どのように我々は知るだろうか? アバイェが言った。「一対のラビたちを彼に送る[そして言明を評価させる]。もし彼の言明に実質があれば、そのようにし、そうでなければ、そうしない。」

しかし最初から彼に送ること[をしないのはなぜなのか]? [被告は]恐れており、彼の[言う]べきことを全て言うことができない[ので、一度目と二度目は評価なしに議会に戻す]。

ミシュナ:彼に無罪を見出すと、[議会は]彼を解放する。しかしもしそでなければ、彼は石打ちにされるため外へ行く。そして触れ役が彼の前に出て行き、「これこれの子、これこれが、これこれの違反を犯したために、石打ちにされるべく外へ出て来る。これこれとこれこれが彼の証言者である。誰でも彼の無罪を知るならば、来て彼の代わりに教えることになる。」

ゲマラ:アバイェが言う。「そしていついつの日に、いついつの時刻に、どこどこの場所で[違反があったか]を宣言しなけらばならない。もしかすると[証言者の虚偽を]知る者がいるかもしれず、彼らが来て証言への疑義を与えるからである。」

「触れ役が彼の前に出て行く」とは。「彼の前に」とは、[彼が刑の執行へと導かれている間]そうであるが、[判決される前の]始めからそうするのではない。しかしこう教えられているではないか。「彼らは過越祭の前夜にイェシュー[ישו, イエス]を磔にした。そして触れ役が彼の前に四十日間出て行き、イエスは石打ちにされるべく出て来る。なぜなら彼は魔術を行い、扇動し、ユダヤの民を迷わせたからである。誰でも彼の無罪を知る者は来て彼の代わりに教えるように。』そして彼の無罪は見出されなかったので、彼らは彼を過越祭の前夜に磔にした。

ウッラが言った。「これを理解するか? イエスは無罪を探す価値があっただろうか? 彼は扇動者である。慈悲深い方がこう述べる。『彼を酌量することも、匿うこともしないように。』(申命記 13:9)むしろ、イエスは統治体と近しかったのだから、[議会で十分な機会が与えられており、状況が]異なっている。」

賢者たちは教える。「イエスには五人の弟子たちがあった。マッタイ[מתאי]、ナカイ[נקאי]、ネツェル[נצר]、そしてブニ[ובוני]、そしてトダ[ותודה]である。彼らはマッタイを連れて来た。[彼は]言った。『マッタイは処刑されるだろうか、「いつ[מתי]私は神の前に来て現れるだろうか」(詩編 42:3)と書かれているではないか。』彼らは彼に言った。『そう、マッタイは処刑される。「いつ[מתי]彼は死んで、その名は滅びるだろうか」(詩編 41:6)と書かれているではないか。』

彼らはナカイを連れてきた。[彼は]言った。『ナカイは処刑されるだろうか、「無垢な者[נקאי]と義なる者をあなたは殺害しない」(出エジプト記 23:7)と書かれているではないか。』彼らは彼に言った。『そう、ナカイは処刑される。「密かな場所で彼は無垢な者[נקאי]を殺す」(詩編 10:8)と書かれているではないか。』

彼らはネツェルを連れてきた。[彼は]言った。『ネツェルは処刑されるだろうか、「若枝[נצר]がその根から成長する」(イザヤ 11:1)と書かれているではないか。』彼らは彼に言った。『そう、ネツェルは処刑される。「しかしお前は忌むものとされた若枝[נצר]のように墓の外に投げ出される」(イザヤ14:19)と書かれているではないか。』

彼らはブニを連れてきた。[彼は]言った。『ブニは処刑されるだろうか、「私の年長の子[בני]はイスラエル」(出エジプト記 4:22)と書かれているではないか。』彼らは彼に言った。『そう、ブニは処刑される。「見よ、私は年長のあなたの子[בנך]を殺すことになるだろう。」(出エジプト記 4:23)と書かれているではないか。』

彼らはトダを連れてきた。[彼は]言った。『トダは処刑されるだろうか、「感謝[תודה]の詩」(詩編 100:1)と書かれているではないか。』彼らは彼に言った。『そう、トダは処刑される。「誰でも感謝[תודה]の捧げものを屠る者は私に名誉を帰している」(詩編 50:23)と書かれているではないか。』


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