『教会史』第1巻 第3章 イエスの名も、そしてキリストの名も、始原から知られ、霊感された預言者たちによって名誉を帰されていたこと(エウセビオス)

http://www.newadvent.org/fathers/250101.htm

第3章 イエスの名も、そしてキリストの名も、始原から知られ、霊感された預言者たちによって名誉を帰されていたこと

1節
まさにイエスの名と、またキリストの名は神に愛されし古代の預言者たちによって名誉を帰されていたということをいまここで示すのが適切である。

2節
モーセはキリストの名を特に尊厳があり栄光のある名として知らしめた第一の者である。[モーセ]が「あなたは山であなたに示された様式に従って全てのものを作るように注意しなさい」[出エジプト25:40]と言われた託宣に合致して、諸々の予型と天的な事物の諸々の象徴と、神秘的な諸々の表象を伝えた際に、ある人を神の大祭司として聖別し、可能な限りにおいて、[モーセ]は彼をキリスト[メシア、油注がれた者]と呼んでいる。それゆえこの大祭司の威厳に彼はキリストの呼称を結びつけている。それは彼の意見では人々の間で最も名誉を帰されるべき立場よりも優越しており、その名誉と栄光のために[そう呼称したの]である。

3節
それで彼はキリストのうちに何か神的なものがあるとよく知っていた。それで同じ[モーセ]は、神の御霊の力のもとでイエスという名を予見して、とある際立った特権によってその[名]にもまた威厳を帰した。というのもイエス[יהושע、ヤハシュア]という名は、モーセの時代の前には人々の間で発言されたことはなかったが、彼が最初に、唯一、彼が彼の死の後を継ぐと知っていた者に適用したのである。これもまた予型であり象徴としてのものであり、また最高司令としてのものである。

4節
それゆえ彼の継承者は、これまでイエスという名を有してきておらず、両親によって与えられていたもう一つのオセア[ホシェア]という名で呼ばれてきたが、彼を今や[モーセ]はイエス[ヤハシュア、ヨシュア]と呼んだのである。いかなる王冠よりもずっと偉大な名誉の賜物として彼にその名を授けたのである。というのも、ナウェ[ヌン]の子イエス[ヨシュア]自身、我らの救い手と類似点を持っている。つまり、モーセの後に、彼によって伝えられた象徴的な崇拝の完成の後に、彼のみが真実で純粋な宗教の統治を継承したのである。

5節
それゆえモーセは、我らの救い手イエス・キリストの名を、至高の名誉のしるしとして、高潔さと栄光においてその時代の他の全ての人々に優越した二人の人物へと授けた。つまり、大祭司と、統治における彼自身の後継者へと、である。

6節
そして後に来た預言者たちもまた、キリストをその名によって予告し、同時にユダヤの人々が彼に対抗して形成した諸々の企てと、彼を通した国々への召命について予言した。例えば、エレミヤは以下のように語っている。「我々の顔の前の息吹[御霊]であり、主であるキリスト[メシア]は、彼らの諸々の破壊へと取られた。その方について我らは、諸々の国家の間で彼の影の下に住むと言っていたのである。」[哀歌 4:20] そしてダビデも当惑のうちに言っている。「なぜ諸々の国家は荒れ狂い、人々は虚しいことを想像したのか? 地の諸王は自分たちを整列させ、統治者たちは主に対抗して、またキリスト[メシア]に対抗して集合した。」これに彼はキリスト自身の位格において付け加えている。「主は私に言われた。あなたは私の子、この日に私はあなたを生んだ。私に聞け、そして私はあなたに諸国をあなたの嗣業として、また地の果ての諸域をあなたの所有として与えよう。」

7節
そして大祭司位によって名誉を帰された者たちだけでなく、象徴のために特別に用意された油によって塗油された者たちも、ヘブライ人たちの間でキリストの名を冠された。それゆえ神の御霊の力のもとで預言者たちが塗油した諸王もまた、あたかも予型的なキリストとして任命された。というのも彼らも彼ら自身の人格[位格]において真実で唯一のキリスト、つまり全てに渡って支配する神の言葉の、王統的で主権的な権力の諸々の予型を有していたのである。

8節
そして我々は預言者たちのうちのある者たちは、彼ら自身、塗油の行為によって、予型におけるキリストになったということも教えられてきた。これら全てが真実のキリストについての参照となるためである。[キリストは]神に霊感された天的な言葉であり、全ての者の唯一の大祭司であり、あらゆる生き物の唯一の王であり、預言者のうちの、御父の唯一至高の預言者なのである。

9節
そしてこのことの証拠は以下である。旧き象徴的に塗油されたこの者たちのうち一人も、祭司たちであれ、王たちであれ、預言者たちであれ、我らの救い手で主であるイエス、すなわち真実のまた唯一のキリストによって発揮されたほどの霊感された高潔さに関する偉大な力を所有しなかったのである。

10節
少なくとも、彼らは多くの世代に渡って彼ら自身の民の間で威厳と名誉において優越していただろうが、それでもそのうちの誰も、彼らの予型的なキリストの名にちなんで彼らの追随者へキリスト者[クリスチャン]の名を与えたことはなかった。また彼らのうちの誰に対しても、彼らの臣民たちから神的な名誉を渡されはしなかったし、彼らの死後に彼らの追随者の気質は彼らが名誉を帰する者のため死ぬ覚悟をしているようなものではなかった。またそのどの時代に関しても地の全ての国々の間で非常に大きな動乱が起こったことはなかった。というのも、単なる象徴は、我らの救い手によって発揮された真実それ自体ほどの力を彼らのうちに持って行うことはできなかったのである。

11節
[我らの救い手]は、誰からも大祭司位の諸々の象徴と諸々の予型を受けず、祭司の血統に生まれず、防衛軍によって王権を捧げられず、古代の者たちと似た預言者ではなく、ユダヤ人たちのうちでどんな名誉も卓越も得なかったが、それにもかかわらず御父によって全てのものを以って輝きを加えられた。諸々の象徴を以ってではなく、真実それ自体を以ってである。

12節
それゆえ、彼は既に言及した者たちと似た諸々の名誉を所有しなかったが、彼ら全てよりも優ってキリストと呼ばれるのである。彼自身、神の真実で唯一のキリストとして、全地を真実に尊厳があり神聖な、キリスト者の名で満たした。もはや諸々の予型や諸々の表象ではなく、明るみに出された諸々の卓越性自体と、まさに真実の教義のうちの天的な生を、彼の追随者たちへと付託したのである。

13節
そして彼は質料的な諸実体から用意された油を以ってではなく、神性に相応しく、神の御霊自身を以って、御父の生まれぬ神性へ連帯することによって、塗油されたのである。そしてこれもまたイザヤによって教えられている。彼はあたかもキリスト自身の位格においてであるかのようにこう叫んでいる。「主の御霊が私の上にある。それゆえ彼は私を塗油したのである。貧しい者たちへの福音を宣べ伝えるべく、捕囚たちへ解放を、盲目な者たちへ視力の回復を宣言するべく、彼は私を遣わした。

14節
そしてイザヤだけでなく、ダビデもまた彼について申し述べてこう言っている。「神よ、あなたの御座はいつまでも永久に。公正の笏があなたの王国の笏である。あなたは正義を愛し、不公正を嫌悪した。それゆえ神、あなたの神は、あなたの同朋たちの上[位]に、喜びの油を以ってあなたを塗油した。」
ここで聖書は第一の節において彼を神と呼び、第二において彼に王統の笏を以って名誉を帰している。

15節
それから少しさらに進んで、神的で王統的な権力の後に、[聖書]は第三のところにおいて彼をキリストになったとして表明している。[そのキリストは]質料的な諸実体によって成った油を以ってではなく、喜びの神的な油を以って塗油されたのである。それで[聖書]は、諸々の予型として、より質料的な方法で旧い塗油を受けた者たちよりずっと優越し、またそれらと違っている、彼の特別な名誉を示唆している。

16節
また他のところで同じ著者が彼について以下のように語っている。「主は私の主に対して言われた。『私の右側に着座せよ。私があなたの諸々の敵をあなたの足載せ台にするまで。」また、「胎内から、明けの星の前に、私はあなたを生んだ。主は誓ったが、後悔することはない。あなたはメルキぜデクの体制に倣って永久に祭司である。」

17節
しかしこのメルキゼデクは聖なる諸々の聖なる書のうちでいと高き神の祭司として紹介されている。彼は特別に準備されたいかなる塗油の油によっても聖別されず、家系によってユダヤの祭司位に属してさえいなかった。そこで彼の体制に倣い、諸々の象徴や諸々の予型を受けた他の体制に倣うことなく、宣誓の申し立てと共に、我らの救い手はキリストであり祭司であると宣言されたのである。

18節
それゆえ歴史は彼がユダヤ人によって有体的に塗油されたとも、祭司たちの系統に属したとも叙述せず、彼は神自身から明けの星の前に、世界の構築の前に存在するようにさせられ、永遠の時代に渡る不死で壊変しない祭司位を獲得したと[叙述する]。

19節
しかし以下は彼の有体的でない神的な聖油についての偉大で説得力ある証拠である。すなわち、今まで存在した全ての者たちのうち、彼だけが今日まで世界中に渡っての全ての人々にキリストと呼ばれ、この名のもとに告白され証言され、ギリシア人たちと異人たちの両方に記念され、今日に至るまでも世界中に渡って彼の追随者たちによって王として名誉を帰され、預言者以上の者として称賛され、神の真実で唯一の大祭司として栄光を帰されているのである。この全ての他に、全ての時代の前に存在を起こされて先在した神の言葉として、御父から尊厳ある名誉を受け、神として崇拝されているのである。

20節
しかし全てのうちで最も驚くべきことは以下の事実である。すなわち自分たちを彼に対して聖別した我々が、彼に我々の声と諸々の言葉の音を以ってだけでなく、完全な魂の高揚を以って名誉を帰していることである。それで我々は我々自身の生を保全することよりも彼に対して証を立てることを選ぶのである。

21節
私は必然的にこれらの諸議題を以って私の歴史の序文とした。それは誰も、彼の受肉の日程から判断して、我らの救助者で主であるイエス、キリストである方が、最近になって存在するようになったなどと考えないようにするためである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?