『ティマイオス』27-29 (プラトン)

より。英訳からの重訳。適宜以下のギリシア語を参照。

:::::以下訳文:::::

[27]

クリティアス:

ソクラテスよ、我々が準備した通りに、宴の順序を考えよう。ティマイオスが我らのうちで最良の天文学者であり、この万物の性質について学ぶべく、それを自分の特別な仕事としているのだから、この宇宙の起源から始まって人類の産生に至るまで、彼がまず話すのが、我々にとって良いと思われる。彼の後で、彼の語りによって既に[話の中で]造られた人類[の話題]を彼から引き継いで、また最高度に良く訓練された何人かの人々[の話題]をあなたから引き継いで、私は続くことになる。それから、ソロンの言葉と法に従って、これらのこと[語り]を我々自身の前に、裁きの法廷の前かのように、持ち込むことになる。それらを、この我々の国家の市民となして、とても長く忘れられていたが、聖なる諸書の記録によって我らにその存在が啓示されてきた古老のアテネ人と見なすことになる。そしてその後で、私は既にアテネ人の市民と人々である人々について話すかのように私の言説を続けることになる。


ソクラテス:

私が思うに、贅沢で豪華な語りの宴とは、私が返報されるものだ。だから、その神々を順序正しく呼び出した後で、話すのが、あなたのやるべきことであろうと思われる。


ティマイオス:

いや、ソクラテスよ、それについては、全ての人々は、たとえ小さな取り分の良識しか保持しない者でも、あらゆる仕事の発端においていつも、多かれ少なかれ神に嘆願するのである。それゆえ万物に関する言説 —— どのようにそれは造られたのか、あるいはひょっとすると造られなかったのか ―― を述べることを目的とする我らは、神々と女神たちを呼び出す必要がある(そうであるならば、我々が完全に発狂されることがないように)。そして我々が述べることが彼らにまず承認されるように、そして次に我々自身に承認されるように、祈るのである。我々はこのように順序正しく神格たちを召喚してきたのである。我々自身もまた前に進むべく、呼び出さなくてはならない。あなたが最も簡明に学ぶことができて、私が我々の前の議題について最も明白に私の諸々の見解を説明することができるように。

さてまず第一に、私が思うには、我々は以下の区別を為さなくてはならない。常に「現存する」ものであって、

[28]

「[何かに]成る」ことの無いものは何か? そして常に「成る」ものであって決して「現存する」ことの無いものは何か? さてこれらの一方は思考によって、理性的に[考える]ことの助けによって、理解できる。というのもそれは常に存在するものであるから。ところが他方は非理性的である感覚の助けによる憶見に属する対象である。というのもそれは「[何かに]成る」し、滅ぶし、決して現実に「存する」ものでないからである。また、「成る」ものすべては必然的に何らかの「原因」に依っている。というのも原因なしに「成る」ことを遂げることは何ものもできないからである。しかしどんな対象でも、その造物者がその形と機能を造成する際に、原型を用いて、常に注視し続けるならば、そのように完成された対象は、必然的に美しいはずである。しかし存在へと「成った」ものに注目し、造られた型を用いる時には必ず、そのように完成された対象は美しくない。さて全天、あるいは宇宙、 あるいは何か他に特段好ましい名前があるならば、それで呼ぼう。—— その名が何であるにしても、我々は第一にそれに関して研究しなくてはならない。全ての場合において、発端に研究されるべき第一の問いである。—— 即ち、[宇宙とか呼ばれるものは]常に「存在し」てきていて産生の始まりを持たないのか、あるいは存在へと「成った」ものであって何らかの始まりから始まったものなのか、である。

それは、存在へと「成った」ものである。というのもそれは見ることができ、触れることができ、[実]体を持っているためである。そしてそのようなものは全て知覚可能であり、知覚可能なものは、感覚の助けによる憶見によって理解されるように、我々が[先ほど]確認したように、存在へと「成る」のであり、つまりは産生されるのである。そして我々が述べたように、存在へと「成った」ものは、何らかの原因に属する理由によって存在へと成ったのである。さて、この宇宙の造り手であり父である方を発見することは確かに一仕事だ。そして彼を発見したとして、彼について全ての人々に向かって宣言することは不可能なことだ。しかしながら、我々は戻って、宇宙に関して、更に問いを続けよう。[二つの]型のうちどちらに従ってその設計者はそれを造ったのであろうか?

[29]

恒等的(自己同一的[≒不変的な])なものに従ってであろうか、それとも存在へと「成った」ものに従ってであろうか。さてもしこの宇宙が美しく、その造物者が善であれば、彼が永遠なるものに注視して[創造した]ことは簡明である。しかしそうでないならば(これは不敬虔な仮説であるが)、彼は存在へと「成った」ものを注視していた。しかし全ての人に明らかであることは、彼が永遠なるものを注視していたということである。というのも宇宙は存在へと「成った」もの全てのうちで最も良いものであり、彼が全ての諸原因の中で最善であるからである。それでこの知性のうちで存在へと「成った」ものは、理性と思考によって理解可能な様式に従って、また自己同一的に構築されたのである。また、この仮定が保証されたならば、この宇宙が何かの「写し」であることは完全に必然的である。今、あらゆる物質に関して、その自然的な始点から始まっているということが最重要なことである。従って、写しとその型を取り扱うにあたって、それに対して与えられる説明というのはそれ自体が、様々な対象に対する説明と類似したものになるということを我々は断言しなければならない。恒久的で確固としており思考の助けによって識別可能ものについて取り扱うものというのは、恒久的で揺るがないものだろう。そして諸々の言明が反論できず打ち勝てないものでありえて、適切であれば、それらは決して不適格にはならないに違いない。というのもその「型」の類似に従って写されたものについての説明は、それ自体がある類似であり、さらに比例的[に考えることができ]て、類似性を保持しているのである。存在としての私は「成る」ものに対してそうであり、真理は信仰に対してそうである。であるから、ソクラテスよ、神々と、宇宙の万物の産生についての多くの事物について我々が取り扱う際に、全ての観点において常に自己無矛盾で完全に正確な説明ができないとしても、驚かないように。むしろ我々は類似性において何ものにも劣っていないような説明を供給できれば満足すべきである。語る私も、判断するあなたも、人間という生き物であることを思い出そう。であるから、我々にとってこれらの諸事物についての尤もらしい説明を受け入れ、それを越えるところを探し求めるのは慎むのが似つかわしいことである。


ソクラテス:

素晴らしい、ティマイオスよ! あなたが提案したように、我々はぜひともそれを受け容れなくてはならない。そして我々は確かにあなたの序言を最も誠実に受け入れた。では今、主要な論題について進むようお願いする。


ティマイオス:

さて、では、[宇宙を]構築した者が、「成る」ものと万物をそれによって構築したところの「原因」について述べよう。その者は善であって、善なるその者の内には決して何に関する嫉妬も起きない。そして嫉妬に欠くために、彼は万物は、可能な限り、彼自身に似るようにと願った。するとこの原理を、とりわけ「成る」ものとこの宇宙の究極的で始原的な原理として知恵ある人々から受け入れるにあたって、我々はまったく正しいだろう。

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