使徒行伝の構造
リチャード・ボウカム氏の本を読んでからルカ文書の証言構造に注意して読むようになったので、使徒行伝について注意深く記事と記事を切り離しながら今後の考察のためのメモにしたい。
◉序文 1章1-2節
◉キリストの復活後の言行 1章3節, 4-11節
●言行記録① イエスの命令 1章4-5節
・ルカ伝24章では十二弟子への最初の現れの記事の直後に配置されているが、その時の命令かは確実でない
・ヨハネ伝20章でも「聖霊を受けよ」の命令が十二弟子の最初の現れの記事に含まれているのでやはり復活の日曜日の夕べの言葉か
・復活の日曜日の夕べの言葉とすると、トマスとイスカリオテ・ユダを除く十二使徒か、エマオから引き返した弟子たちが証言源になる。
●言行記録② 神の国の時 1章6-8節
・ルカ伝24章では「エルサレムから始めてあらゆる国へ証人となる」が「都に留まれ」の命令より前にあるので、やはり復活の日と昇天の日の言葉の切り分けは難しい。
●言行記録③ キリストの昇天 1章9-11節
・昇天したという記述はマルコにもあるが昇天の具体的様子はルカ文書に独自。使徒行伝がより詳しい。ルカ福音書にはこれがベタニヤの出来事であったように書かれている。使徒行伝も次節で「オリーブ畑」からエルサレムに戻ったとしている
◉都に留まっている間の出来事 1章12-26節
●使徒たちの活動拠点 1章12-13節
・「十一使徒、婦人たち、母マリア、主の兄弟たち」が列挙されている。ここらへんが証言者かもしれない。特にイエスの母マリアは強調されている。
・四十日キリストが現れるとすると、五旬節までの期間は10日間で、2章の出来事までの期間は短い。
・使徒のリストはどの共観福音書とも微妙に順番が違う。「ペテロ、ヨハネ」から始まるのは使徒行伝のみ。今後ペテロとヨハネは共に活動し、使徒行伝前半のほとんどの記述は彼らに関するもの。
●代理使徒の選出 1章15-26節
・「洗礼から昇天まで共にいた者の中から、復活の証人を選ぶ」 マティアとヨセフは最初期からの弟子。
・ペンテコステのペテロの説教で「ペテロは十一人と共に立ち」とあるので、この代理使徒選出の出来事はこの使徒行伝の配置順と時系列的にも一致していると思われる。
・この場には百二十人ほどの会衆がいる。
・ペテロはユダの死に様について語っている。この証言はマタイ伝にある。マタイ伝は首を吊ったとあり、使徒行伝には真っ逆さまに落ちたとある。
◉聖霊降臨 2章
◉聖霊降臨 2章1-4節
◉ユダヤ人たちの反応 2章5-13節
・外からの視点も記録されている。ただペテロは「酔っているわけではない」と演説しているので、周囲の反応は内側に伝わっていたのかもしれない。
◉ペテロの説教 2章14-36節
◉人々の反応 2章37-39節
◉三千人の回心 2章40-41節
◉信徒の生活 2章42節, 43-47節
・「家ごとに集まってパンを裂いた」とある。
・この部分は3章から5章16節までをまとめる序文かもしれない。
・「奇跡」の例…3-5章
・「恐れ」と「共産」…4-5章
・民衆からの称賛…5章13節
◉ペテロとヨハネと足萎え 3章-4章22節
・使徒行伝で次に二人が揃って登場するのは8:14-25でそれが最後になる。徐々にパウロに視点が移っていく。
◉足萎えを癒す 3章1-10節
◉足萎えの癒しに驚いた人々に語る 3章11-26節
・この辺は一日の間に起きたこととは限らない
◉投獄される 4章1-3節
◉報告 4章4節「ペテロとヨハネの活動により信じた人々は男が五千人」
◉尋問される 4章5-14節
・アンナス、カイアファ、ヨハネ、アレクサンドロと大祭司一族が集まり、使徒たち(=ペテロとヨハネ)を真ん中に立たせる
◉二人が議場を去った後の議論 4章15-17節
◉二人を呼び戻した後の命令 4章18-21節
◉報告 4章22節 「癒された人は40歳を過ぎていた」
・この文は癒された人物本人が証言者となっていることを示唆しているかもしれない。使徒二人が議場を去った後の議論についても記録されていることもその傍証となる。
◉教会の反応 4章23-31節
◉地震 4章31節
◉共産制 4章32節-5章11節
◉バルナバの寄進 4章36-37節
◉アナニアとサフィラの詐欺 5章1-11節
・共産制も当然に無問題でなかったが使徒の権威により保たれていたことが語られている ここでもペテロが語っている
◉最初期の教会の様子のまとめ 5章12-16節
・2章42節から5章16節で大きなまとまりになっているかもしれない。
・ここまで、ペテロ、美しの門の男、バルナバなどが証言者として考えられる。ペテロの証言は使徒12章まで続く。15章で再び登場する。
◉使徒らのエルサレム宣教への反応 5章17節-32節
いくつか前の記事と違う雰囲気のある記事。大祭司の名が明示されていない
◉大祭司とサドカイ派 5章17-21節
◉神殿守衛長と「大祭司たち」 5章22-26節
・大祭司が複数人いる。
◉尋問とペテロの返答 5章27-32節
・「ペテロと使徒たち」がいる。
・「血の責任を負わせようとしている」と言っているのでやはり大祭司はアンナスだろうか。
◉ガマリエルの演説と処置決定 5章33-40節
・使徒たちは外に出されている。最高法院内部の証言。
・テウダの乱とガリラヤのユダの乱について語っている。
・ヨセフスの記録と照合すると、前者は紀元44-46年クスピウス・ファドゥスの任期の出来事で、後者は紀元6年の人口調査の頃の出来事で、順序が逆。かつ、パウロの回心より前の出来事であるとすれば紀元30年代なのでテウダの乱は起こっていない。ヨセフスの記録でもこの二つの乱が関連づけられて述べられており「ユダの子ら」の処刑がアレクサンデルAD46-の頃にあったとしている。 使徒行伝でも「ユダの追随者の顛末」が語られているのでそこまで含めてこの順で語った可能性はある。 逆にテウダなる人物の乱が大昔にも別個にあった可能性もある(ヨセフスの記録にそれをもとめるとすればEzekiasの子Judasが候補になる。ユダ=タダイというequivalenceがあったかもしれない。実際ユダの語源であるyadahの名詞形にtodahがある)。 次章から異邦人への宣教活動に焦点があたるので、実はかなり後の方の記述をここに足した可能性もある。ペテロがいること、ヘロデ・アグリッパの迫害との関係などを考える必要がある。
◉ステファノらの任命とステファノの殉教 6章-7章
◉分配の問題と、七人の選出 6:1-6:6
・「そのころ」から始まる。時系列的に、前の記事の必ずしも後とは限らない。状況としては十二使徒がおり、またユダヤ人の中でギリシア語話者が抑圧されていたらしい。ステファノの殉教は、迫害激化による弟子たちの離散、七人の奉仕者の一人であるフィリポの宣教活動、パウロの迫害と回心に展開していく話の起点となっている。
・教会内部の証言。おそらくフィリポが証言者ではないだろうか。フィリポはここで登場し、途中でステファノとパウロの記事を挟んだ後で、8章40節まで登場する。最終的にカイサリアに行ったことが書かれているが、21章8節でパウロがカイサリアの彼の家を訪れているため、このタイミングでルカとパウロにフィリポの宣教活動記録が渡ったと思われる。よってフィリポの活動の後半は必ずしも紀元30年代のことと捉える必要はない(ただ特に40年代50年代と考えた方が良いような要請も今のところない)。
・この七人の一人である「福音宣教者」フィリポが十二使徒フィリポと同一であるかは不明。十二使徒ユダ=タダイと七十門徒アッダイが同一視されたりしなかったりするのと同様、微妙な問題。基本は分離して考えられているが、エウセビオスなどは同一視している。エフェソスのポリュクラテスによれば十二使徒フィリポはヒエラポリスに眠っており、その未婚の娘たちがエフェソスに眠っているとしており、未婚の娘たちが出てくる福音宣教者フィリポの像と重なっている。
◉エルサレム教会の発展、祭司たちの回心 6:7
・「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」
◉ステファノの活動 6:8
◉ステファノへの弾劾 6:9-6:15
・キレネ・アレクサンドリア出身の「リベルテン」や、キリキア・アジア出身の者たちが論争を仕掛けた。パウロはローマ市民権を得た解放者であり、またキリキア出身者と思われるため、この中に含まれていたかもしれない。6:8-8:3はパウロの証言かもしれない。
◉ステファノの説教 7:1-53
◉ステファノの殉教 7:54-60
◉サウロの迫害 8:1-3
・「使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」とある。この迫害では主にヘレニストが排撃されたのかもしれない。(その意味ではやはり福音宣教者フィリポは十二使徒ではないかもしれない) また「使徒たち」には、十二使徒だけではなく、七十門徒や、初期の大宣教命令を受けた信者が含まれているかもしれない。
◉福音宣教者フィリポのサマリア宣教 8:4-13
◉ペテロとヨハネのサマリア派遣 8:14-25
・フィリポが居た時期にサマリアに行ったのかどうかは不明。十二使徒ヨハネが名前だけでなく登場するのはここが最後になる。ただ、「エルサレムに帰った」とあるのでヨハネがペテロと活動しなくなるのはエルサレムに帰ったより後のこと。
◉フィリポの宣教活動 8:26-40
・「主の天使」に、「ガザへ向かう道」へ派遣される
・ピリポが「連れ去られた」あとの宦官が喜んで道を進む様子が描かれている。だれが証言者だろうか。
・ガザに向かう道→アゾト→方々→カイサリア
◉サウロの回心 9章1-30節
◉エルサレムからダマスコへ 9:1-9
◉アナニアへの啓示 9:10-19
◉サウロのダマスコ宣教 9:19-22
◉サウロ暗殺計画 9:23-25
・「かなりの日数がたって」とあるが、ガラテヤ書でアラビアに行っていたとあるのはこの期間の可能性が高いように思われる。ガラテヤ書によればこの記事の直前から次の記事までの期間は3年間ある。
◉サウロのエルサレム訪問① 9:26-29
◉サウロのタルソ退避 9:29-30
◉教会の平和的発展 ユダヤ・ガリラヤ・サマリア 9:31
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、~信者の数が増えていった。」
◉ペテロの活動と異邦人宣教の開始 9:32-
ここら辺はまだペテロ視点でペテロが登場する。本人の証言と思われる。時系列はわからないが、ステファノ殉教→フィリポサマリア宣教→コルネリウス回心の順序と思われる。サウロの回心との時系列関係は不明瞭。
ヨハネの姿が消えている。いつから別行動なのだろうか。一部の伝承ではヨハネの流刑が相当早い時期になっている。ヨハネに関してはアジア宣教に行った伝承も多く残る。
◉リダでアイネアを癒す 9:32-35
◉ヤッファでタビタを癒す 9:36-43
◉コルネリウスの洗礼 10:1-48
◉異邦人の救いに関するエルサレム教会の反応 11:1-18
「ペテロがエルサレムに来た時」…これがいつのことか不明。
◉アンティオケア教会の設立 11:19-30
◉アンティオケアでの異邦人の改宗 11:19-21
・ステファノの殉教によって散らされた人々のうちの一部が異邦人に広め始める。
◉バルナバの派遣とサウロの召喚 11:22-26
・バルナバとサウロのアンティオケア牧会は1年間。
◉アガボら預言者の派遣 11:27-29
・「その頃」 クラウディウス帝のときに起こることになった飢饉を預言。パウロらの派遣はクラウディウス帝期より前でも良い。ヨセフスの記録に従えば大飢饉はクスピウス・ファドゥスとティベリウス・アレクサンデルの治下に起こったとありこれは紀元45-47くらいということになる。ヘロデ・アグリッパの死去は紀元44年なので12章との時系列関係が難しい。
◉サウロのエルサレム派遣② 11:30
・バルナバと共に。
・ガラテヤ書での「14年後」が「回心後14年後」だとするとこちらにあたるかもしれない。この場合テトスも連れている。この場合ガラテヤ書で出てくる「ヤコブ・ケファ・ヨハネ」の「ヤコブ」を主の兄弟ヤコブと解釈する必然性が弱まる。
◉ヘロデ王 12章1-23
・このヘロデ王は、ヘロデ=アグリッパのことと考えられている。ヨセフスも似たような急死に関する記録を残している。ヘロデ・アグリッパはAD37からゴラン、AD39からガリラヤとペラヤ、AD41からユダヤを治めている。
◉「ヨハネの兄弟ヤコブ」の殺害 12:1-2
・ゼベダイの子ヤコブとヨハネと思われる。
・ゼベダイの子ヨハネへの最後の言及。
◉ペテロの捕縛 12:3-5
・ヤコブの殺害がユダヤ人のうけがよかったため、とあるので、ヤコブの殺害より後の話だろう。
・過越祭の頃であったらしい。AD44の過越祭と解釈されることも多いが、そうとは限らない。ただガラテヤ書の「14年」を「回心後14年」で解釈するとAD44がぴったりかもしれない。
◉ペテロの脱獄 12:6-17
・「ヤコブに報告せよ」と言ってどこかに行く。どこに行ったかは不明。この「ヤコブ」に特に注意書きがない。「主の兄弟ヤコブ」という言い方は使徒行伝に渡ってないが、もしこれが主の兄弟ヤコブであるとすると、主の兄弟ヤコブという人間が使徒行伝執筆時点で有名であったのかもしれない。殺されたヤコブの方は「ヨハネの兄弟ヤコブ」と指定されている。ヨハネは有名だったのかもしれない。
◉ペテロの捜索 12:18-19
◉ヘロデ王の急死 12:10-23
・この記事はAD44に特定されるが、ペテロの脱獄のあとすぐにカイサリアに向かったとは限らない。むしろルカ伝著者が、ヘロデ王の所業の報いとしてこのような死に方をした、という後日譚をここに付している可能性もある。
・ただガラテヤ書の「14年」がゼベダイの子ヤコブの生存中の出来事とすれば紀元44年と特定する他は難がある。キリストの磔刑・昇天を紀元29年以前とするのは難しい。
◉教会の様子 12:24
◉パウロとバルナバのアンテオケ帰還 12:25
・これがいつのことなのか不明。時系列では以下のようなパターンが考えられる。
シナリオ① パウロがエルサレムに来る→そこでヤコブの殺害やペテロの捕縛についてを聞く→役目を終えて帰る(出来事としてはパウロが来る前に迫害が起こっているパターン)
シナリオ② パウロがエルサレムに来る→そこでヤコブの殺害やペテロの捕縛が起こる→役目を終えて帰る
シナリオ③ パウロがエルサレムに来る→そこでヤコブの殺害について聞く(こちらが早く起こっている)→滞在中にペテロの捕縛が起こる→役目を終えて帰る
シナリオ④(証言構造を考えると考えにくいが) パウロがエルサレムに来る→役目を終えて帰る→その後迫害が起こる
◉バルナバとサウロの宣教旅行 13章-14章
・ヨハネ=マルコを連れているので、エルサレムから帰った後。
・キプロス島→パンフィリア州(ペルゲ、ヨハネ離脱)→ピシディア州(アンティオケア)→イコニオン→リカオニア州(リストラ・デルベ)
・キプロスから北西に出たのち、北東に向かって進んでいっている。
・パウロの七書簡の宛先としては、ガラテヤはこの地域に含まれるかも(イコニオン?やリカオニアは南ガラテヤ地域と言える)。他は含まれていなさそう。
・キプロス島ではセルギウス・パウルスという総督が出てくるが、ローマでクラウディウス帝期の紀元47年に任職されているルキウス・セルギウス・パウルスとの同一視の可能性が考えられている。
◉アンティオケア帰還 14:21-28
・リストラ→イコニオン→アンティオケア@ピシディア→ペルゲ→アタリア(ペルゲ近くの港町)→アンティオケア@シリア
・「しばらくの間、弟子たちと過ごした」
◉割礼に関する論争 15:1-2
・ユダヤから下って来た人たち vs パウロやバルナバ
・使徒たちや長老たちと協議のため、パウロ・バルナバと他数名がエルサレムに派遣 パウロのエルサレム訪問③ と言える
◉フェニキアとサマリアへの宣教報告 15:3
◉エルサレム使徒会議 15:4-29
・ペテロ、ヤコブが会議で発言
・バルサバ・ユダとシラスが決議をアンティオケアに運ぶ。二人は指導的地位にあった。
・ペテロは「ご存知の通り、ずっと以前に神はわたしを選び、異邦人が福音を聞くようにした」と言っているので、コルネリウスの回心と、その事件の報告からはそれなりに時間が経っていると思われる。
・主の兄弟と思われるヤコブが発言している。
◉アンティオケアでの活動 15:30-35
・ユダとシラスがしばらく滞在
・そののち帰ったとしているが、「シラスは残った」との写本もある。シラスはすぐ次にパウロと一緒に行動しているので、残ったと考える方が自然だが、そう考えられたことにより加筆された可能性もなくはない。
◉パウロとバルナバの決裂 15:36-41
・数日後と訳されているのは”μετα τινας ημερας”
・バルナバとヨハネ(マルコ)はキプロスに。パウロはシラスを連れてシリア州やキリキア州を巡回(比較的近場)
◉パウロのギリシア圏宣教旅行 16:1-18:11
◉トルコ地域宣教 16:1-10
・シラスはコリント宣教中の18:5まで出てくる。
・一回目は海路を挟んだはずのデルベ、リストラに行っているが、前と同じルートか、陸路かはわからない。ここでテモテを同行者にする
・「アジア州で語ることを聖霊に禁じられた」
・フリギア&ガラテア→ミシア
・「ビティニアに入ることをイエスの霊が許さなかった」
・ミシア→トロアス ここで夢を見る
◉マケドニア宣教 16:10-17:14
・トロアスで幻を見た時には使徒行伝著者(伝・ルカ)が合流している。
・サモトラケ→ネアポリス→フィリピ(数日間滞在)
・フィリピではリディアの家に滞在
・フィリピで投獄→大地震 「二人がローマ帝国の市民権を持つ者と聞いて恐れ」 → つまりなぜかシラスもローマ帝国市民権を持っている(!)
・アンフィポリス→アポロニア→テサロニケ(三回の安息日…この言葉から、巡回宣教中に複数の安息日に渡って一箇所に滞在することはそれほど多くないことが推測される。)
・テサロニケではヤソンの家を捜索されている
・→ベレア
・ベレアにテモテとシラスが残って、パウロはアテネへ。シラスとテモテに指示しておく
◉アカイア宣教 17:15-11
・→アテネ
・ルカはどこにいるのか不明だが基本的に16章以降は直接証言とすると、パウロと一緒にいるというのが最も単純な推測になる。ただ、「私たちは」と主語で存在が主張されていないので、いないかもしれない。
・→コリント
・クラウディウス帝がローマからユダヤ人を追放したことにより「最近」イタリアから来ていたアキラとプリスキラと合流。クラウディウスの追放令は紀元49年頃と推測される。
・シラスとテモテが合流 『テサロニケ書簡1』はこのころ執筆と思われる
・会堂から出て隣のティティオ・ユストの家に。会堂長クリスポの一家は信じた
・1年6か月間とどまった
◉コリント離脱 18:12-18
・「ガリオンがアカイア州総督の時」訴えられるが、ガリオンは取り合わない
・会堂長ソステネが群衆に殴られるが、それもガリオンは取り合わない。ソステネという名は第一コリント書の共同執筆者として登場する。
・ガリオンはAD52年と思われるデルフィの碑文の記述に登場する。AD51-52が任期と思われている。
◉ケンクレアイで髪を剃る 18:18
・「船でシリア州で旅立った」とあるが、次に着くのはエフェソで、カイサリア→エルサレム→アンティオケアと行く最終目的地をここで示していると思われる。
・プリスキラとアキラも同行する。
◉アジア宣教
◉エフェソ宣教① 18:19-21
・「そこにその者たちを残し」…新共同訳は「二人を」と訳しているが本当にそう特定できるか知らない。
・この後のパウロの旅程はわかるが記事が薄いので、ルカはアキラとプリスキラと共にエフェソに残ったかもしれない。
◉パウロエルサレム教会訪問④ 18:22
・回心後最初の訪問、啓示による訪問、使徒会議による訪問に続いて4度目か?
◉アンティオケア帰還 18:22
◉アポロの活動①@エフェソ 18:24-19:1
・「アポロがエフェソに来た」 ルカ視点か?
・プリスキラとアキラがアポロに正確な福音を知らせる。
・アポロはアカイア州へ渡る
◉アポロの活動②@コリント 18:27-28
・このアポロのコリントでの活動の証言者は不明。
◉パウロのエフェソ宣教② 19:1-20:1
・「アポロがコリントにいた時」やはりエフェソにいる誰かの視点であると思われる。
・三か月会堂で、二年間ティラノの講堂で教えた。
・スケワの七人の息子
・「マケドニア州とアカイア州を通ってエルサレムに行こうと決心」「その後ローマも見なくてはならない」…この時、この二州にはまだ一回ずつしか行っていない。
・この頃「第一コリント書」執筆と思われる。エフェソに五旬節まで滞在してからマケドニアを通ってアカイアに行き、(おそらく)冬を越して(おそらく)エルサレムに行く計画が書かれている。ソステネが執筆者。「テモテがそちらについたら温かく迎えてほしい」とのことから、(マケドニアに派遣された)テモテが書簡を運んだのかもしれない。
・テモテとエラストをマケドニアに派遣
・アルテミス騒動
◉パウロのマケドニア巡回② 20:1-2
◉パウロのギリシア滞在② 20:2-3
・三か月過ごした おそらくコリントにて。この辺の記事は薄い。ルカはどこにいたのやら。
・シリアに出ようとする頃に陰謀があったのでマケドニア州を通って帰ることにした
・「わたしたちは」除酵祭の後にフィリピから船出し、トロアスで先に出発していた「彼ら」同行者と落ち合う。
◉パウロのマケドニア滞在③ 20:6
◉パウロのアジア通過 20:13-21:2
・トロアス地域の北岸のトロアスから南岸のアソスへ、パウロだけ陸路か
・五旬節までにエルサレムに着きたかったので旅を急いだ。
・そのためミレトスでエフェソスの人々に挨拶した
・コス島→ロドス島→パタラ→ティルス
◉エルサレム到着まで 21:1-14
・ティルスに七日間 海路でプトレマイスに着いて一日、次の日カイサリアで福音宣教者フィリポの家に泊まる(ここでフィリポの宣教活動に関する証言を収集か)
◉パウロのエルサレム滞在⑤ 21:15-23:30
・エルサレムに着く前にキプロス出身のムナソンの家に滞在
・「ヤコブ」を訪問
・誓願の人々を神殿に連れて行く
・七日の(清めの)期間ののち神殿で捕らえられる
・千人隊長の視点で「エルサレムの混乱状態が報告された」とある。パウロは後の弁明で「混乱はなかった」としている。この千人隊長は証言者である可能性も高い。
・パウロの「弁明」がある。第二テモテで言及される「最初の弁明」の候補の一つ。
・千人隊長と問答。パウロは生まれながらの「ローマ市民」らしい。これは、両親が既にローマ市民であったことを意味する。ローマ市民になるためには、軍事的功績を挙げる、皇帝によって奴隷の身分から解放される、主人によって奴隷の身分から解放される、ことなどが条件で、解放者の名を継ぐパターンが多いらしい。パウロのローマ名の姓名は不明。Paullusはpraenomenとcognomenのどちらでも使われた。男性形ではそれほど一般的ではなく、アイミリア家とファビア家に比較的多くみられる。
◉最高法院でのやりとり 22:30-23:10
・パウロは大祭司アナニアを大祭司と「知らない」と言っているが、何らかの正統性を欠いていて、それに対する皮肉かもしれない。あるいはもしかすると大祭司の衣服を着ていない、座についていないなど本当に見分けられない状態だったのかもしれない。また前回のエルサレム訪問から大祭司が切り替わっており知らないのかもしれない。ただ前回のエルサレム訪問はAD51年以降と思われるので、普通にはこれは排除される。
・ヨセフスによれば、大祭司アナニアは大祭司ヨセフに代わってヘロデ・アグリッパの兄弟であるヘロデ・カルキスの統治下に任職されている。ヘロデ・カルキスはクラウディウス帝の8年(AD48/9)に死去している。アナニアの任職の記事はユダヤ総督ティベリウス・アレクサンデルの項に書かれており、直後に総督クマヌスへの交代と、ヘロデ・カルキスの死去が記述されている。
・大祭司アナニアの任期は紀元58年までとwikipediaに書かれているが根拠不明。後任と思われる大祭司ヨナタンがフェリクスによって殺されているのでフェリクスの任期中に解任されていると思われる。
◉パウロへの神の言葉 23:11
◉パウロ暗殺計画 23:12-30
・千人隊長の名が「クラウディウス・リシアス」と明かされている。22章から出てくる人物はこの人物か。総督フェリクスに書簡を送っている。
・22章では「金を払って市民権を得た」と言っており、クラウディウスの名からもクラウディウス帝期に市民権を得たと思われる。
◉カイサリア移送・拘留 23:31-24:27
・アンティパトリスを経由
・ヘロデの官邸に留置し
・五日後に大祭司アナニアと長老とテルティロが来て告発
・フェリクスの前で弁明
・フェリクスについて「多年この国民の裁判を司る方であることを存じあげている」と言っている。フェリクスの任期はネロ帝の第3年(AD56/7)を含み、後任のフェストゥスの任期はネロ帝の第5年(AD58/59)を含んでAD62まで続く。フェリクスの任期開始は調べるとAD52と出てくる(出典まで見てない)。交代時期は不明瞭となっている。
・パウロはカイサリアでフェストゥスが着任するまで2年間拘留されたとある。これによりカイサリア拘留の終了年はAD56-58のどこかと特定されるため、パウロのフェリクス前での弁明はAD54-56と思われる。
◉カイサリア拘留の終了 24:27-27:2
・前述のようにカイサリアでの拘留の二年後にフェストゥスが着任し再び訴えられる。フェストゥスがエルサレムにいたときの祭司長たちとのやりとりが書かれている。つまりエルサレム市側にも証言者がいる。
・ヨセフスによればアナニアの後任の大祭司がフェリクスによって殺されているので、アナニアは既に大祭司を解かれている。ただアナニアはユダヤ戦争の開始時まで存命のはずなので、再び訴えた「祭司長たち」の中に含まれるかもしれない。
・25-26章では、アグリッパの王とフェストゥスの会話が詳しく記録されており、地位の高い人物の証言があると思われる。
・アグリッパの王の前でもパウロは「弁明」する。
・アグリッパ王は紀元48年に死去したカルキスのヘロデの領土を継ぎ、紀元53年にフィリポ領に移封されている。55年にガリラヤを加えられている。王のままユダヤ戦争を迎え、生き延びてトラヤヌス帝期まで生存したとされる。
・皇帝に上訴したためイタリアに向かうことが決まる。この皇帝はネロ・クラウディウス・カエサル(在AD54-68)と思われる。
◉ローマへの旅 27章-28:16
・アドラミティオン港 → シドン → リキア州ミラ → クレタ島 → クレタ島のフェニクス港を目指すが流されて、カウダ、アドリア海を経て
・ローマから出迎えがある。第二テモテでは「オネシフォロの家族がローマに着いたとき熱心に探し出してくれた」と言っているがこれと対応するかもしれない。「彼はエフェソスで仕えたことをあなたも知っている」と言っている。第二テモテはローマ軟禁中の手紙かもしれない。
◉ローマ宣教 28:17-31
・ローマ書簡からわかるように、ローマにはパウロ到達以前からキリスト教共同体が存在する。一方ローマのユダヤ人たちはキリスト教についての知識があまりなく、ペテロら十二使徒らのユダヤ人宣教がパウロ到達まで行われていた形跡はあまり濃くない。もしペテロのローマ宣教が早い段階から為されていたとしても、クラウディウス帝のユダヤ人退去命令までで一度途切れていると考えた方が良いかもしれない。ローマ書簡にも、ローマにペテロがいる気配はない。
・ローマ宣教の開始から『使徒行伝』の執筆は2年間と思われる。『ルカ伝』の続編として書かれており、献呈相手も同名であることから、『ルカ伝』からそれほどは時間が経っていない頃の著作と思われる。
・エウセビオスはパウロの言及する「私の福音」という言葉を『ルカ伝』のことと解釈している。この言葉はローマ書簡と第二テモテに見られる。
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