『The Bazaar of Heracleides』第1巻 第1部 1-10章(ネストリオス)

http://www.tertullian.org/fathers/nestorius_bazaar_1_book1_part1.htm

http://archive.org/stream/lelivredheraclid00nestuoft#page/4/mode/2up

[シリア語翻訳者による補足:]本書の始め。すなわち、かの聖人による論説は以下である。

我が主ネストリオス、コンスタンティノープル総主教による。正統の基準

第1巻 第1部

序文
さて私の意見では、あらゆる真剣さをもって真理を研究しようとする者たちは誰でも、自分の論説を先入的な諸観念によって執筆するべきではなく、真理に反対するあらゆることを提示し、説明するべきである。金の知識を持つ者たちは、良い金と、劣った金の区別を、一方と他方の比較によって示す。[劣った金は、]合金されたものを受け容れたいと思ってしまう者たちにとっては、あたかも純金であるかのように、そして純度についての同等の優先度である[かのように思われてしまうのである]。(というのも、多くの者たちは、良いもののかわりに悪しきものを[選び]、真実のかわりに誤りを選んでしまうが、それは彼らにとって両者が等価に[見えてしまう]ことによる。そして彼らの心構えは、真理を確立することよりも、論争して[議論で]互いに倒すことにより重きを置いているのである。)そうであるから、違った人々が、名ばかりであるが、キリストについての違った意見を告白し、固く保持しているので、我々はキリストに関するこれらの諸々の異端それぞれの創作を説明するべきである。真実な信仰が諸々の異端との比較によって知られるようにするためであり、また、我々が揺るがされて、盲人たちのようにどれか[の異端]に陥ることのないようにするためである。


1章 ([シリア語翻訳者による小見出し:]異教徒たちがキリストを神と呼ばない理由について)

異教徒たちは確かにキリストを神と呼称することを喜ばない。これは体の受苦と十字架と死のゆえであり、彼らは諸々の奇跡は誤りのうちに[受け入れられて]いると見なしているのである。彼らは区別して呼称されることはない。なぜなら彼ら全てが異教であるということにおいて、確かに彼らの間に差異はないからである。

2章 (ユダヤ人たちが、彼がキリストであると認めない理由について)

しかしユダヤ人たちは[イエス]がキリストであると告白しない。これは十字架とその死のゆえである。つまり彼らはキリストの、全的に偉大な栄光と支配のうちの到来を待ち望んでいるのである。

3章 (マニ教徒たちが、キリストが本性的に人でもあるというということを認めず、神でしかないとする理由について)

またマニ教徒たちも、そして彼らからや、彼らのうちで派生した者たちも、[イエス]が人ではなく、神でしかないと宣言する。これは諸々の奇跡のゆえである。しかし彼の諸々の人間[性]についてとなると、彼らはそれらを模式や幻想として位置付け、本性的でないとするのである。

4章 (パウリノス派とフォティノス派が、我らの主キリスト自身は人でしかなく、神ではないと公言する理由について)

しかしパウリノス派の者たちは[イエス]は神ではなく、人でしかないと言う。その誕生と死のゆえである。しかし彼らは彼に諸々の奇跡を帰する。それはいかなる聖徒たちに対してもそうであるようにである。

5章 (アリウス派が、キリストは完全な神ではなく、自立しておらず、しかし人でもなく、半神半人であると公言する理由について)

アリウス派の者たちは[イエス]が魂の無い体と創造された神性を持った半神半人であると告白する。つまり彼を、そのうちに魂が無いと言うことによって人に対して劣ると見なし、また彼が造られぬ者でなく、自立した者でもないと言うことによって神に対しても劣ると見なしているのである。しかし受肉と、女からの誕生と、死のゆえに、彼らは彼の人間性のうちで彼が神となっていたと見なし、彼の神性を人性と混同している。彼の受肉を[彼自身の]権威に帰さず、[御父の]支配的命令に帰して、以下のように言っている。つまり、[彼の神性の]肉との結合は一つの本性に帰着している[と言う]。また、これは我々のための経綸[(我々の時代)]におけるプロソーポン[位格]の用法と合致しないが、魂と体が一つの本性において結ばれているかのようにさえ[言う]のである。つまり[魂が]、受苦する体を持たないという意味においてはそれ自身では諸々の苦しみを受ける[手段を]持たないが、望むとも望まざるとも、体の受ける諸々の苦しみを[神性の側が]敏感に受苦するというのである。それで彼らはまたこうも言っている。つまり神は体のうちに唯一つの本性を持ち、彼が望むとも望まざるとも、必然的に彼自身のまとっているその本性の受ける諸々の苦しみを受苦するというのである。あたかも受苦し得ず自立する御父の本性を[イエス]が持たなかったかのようである。彼らがこれを言うのは以下のためである。つまり、彼のみが権威と指揮権に恵まれていると示すことのないようにするためである。それで彼が受けた命令はむしろ刑罰[のようなもの]であり、その彼の本性に課された刑罰から逃れる術はなく、そして彼はそれを望まなかったが、体の受ける諸々の苦しみを、その本性の敏感さのおかげで受苦したというのである。彼は飢え、渇き、疲労を重ね、恐れ、逃げ、死んだが、復活したのは彼の本性によるのではなく、御父の権威と勢力によるというのである。要するに彼らは、彼が引き受けた敏感な本性に相応したことは何であれ本性的に受け止めたと言っているのである。

6章 (どの派閥がマニ教徒に賛同しているかについて)

これらの内から、諸々の異端が派生した。マニ教徒のある者たちと、他のある者たちは、パウリノス派の者たちからの者たちである。

7章 (どれがアリウス派に賛同しているかについて)

. . . [欠落]

8章 (彼らのどこが彼らから遠ざけられており、何においてまた彼らを信奉しているかについて)

彼らからは遠ざけられている ....[欠落]

9章 ([ネストリオス]がなぜこれらの派閥の首長たち[の諸々の名]を書かず、彼らの諸々の教条のみとしたかについて)

しかし我々は彼らの首長たちの諸々の名を省略したい。議論を冗長にしたり、最初に諸々の名[の議論]に巻き込まれて、気づけば調査の何らかの要点を見落としてしまっていた、ということのないようにするためである。

10章 (本性的には言葉なる神は体を持たずに肉となったと言う者たちの諸々の言明は何であるかについて)

それでマニ教徒たちは、我らの主キリストの体は真実には本性でなく、虚構であり幻覚であると言っていることで告発された。しかし彼らは大抵、諸々の奇跡を神性にのみ許容しており、それらが[人性の]体を通して起こることはあたかも不可能である、あるいは適切でない、とする。

ソフォロニオス[が言う]。…あらゆることを為すことができるということは、全能で無限なる本性に相応する[能力]です。[ある者が全能者であるとすれば、]その意志によって他の全ての事物は制限され、一方でそれはいかなる事物によっても制限されていないということなのです。そしてそれは、神なのであって、他の何者にも不可能なことが可能です。というのも、それはそれ自身より偉大な本性や原因に依存していることはありえないのです。それ[の有無]によって[本性的に]神であるという[属性]、また神でないという[属性]を所有するのです。このため、彼らは[イエスについて]真実に肉[として]存在させられるようになったと告白することを恐れます。これを言うことで神を肉と見なすことにならないようにするためです。彼らは言います。「その体が神であると我々が告白するのですから、[神を肉だと考えているなどということ]はありえません。というのも、肉だと[誤って]思われているものが実は神性であって、[神性]と同じものであって、他の何ものでもないのです。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?