我が兄弟姉妹。

 キリストを殺害したのは、誰か。「彼だ」または「彼らだ」と私たちは答えるだろうか。つまり、「ローマ兵だ」「ピラトだ」「大祭司たちだ」「ユダヤ人だ」あるいは「神だ」と答えるか。「キリストは神の予定に従って殺された」とでも唱えるか。
 あるいは、太平洋戦争で失われた命は、誰に責任があるのか。「軍部だ」「東條英機だ」「A級戦犯たちだ」「そもそも鬼畜英米だ」あるいは「神だ」と答えるか。
 もし、「ステファノを殺害したのは誰か」と使徒パウロに問うたならば、パウロはどう答えただろうか。「処刑執行人だ」「偽証人だ」「リベルテン会堂員らだ」「サンヘドリン議員らだ」あるいは「神だ」と答えただろうか。
 初代教会は、パウロが自らを「罪人のかしらである」と呼んだと認識した。パウロは自分の手を汚さずに、貧しき共同体の食事を用意する奉仕者を殺した。それが可能な身分であることこそ、罪人の首長たる条件である。
 私たちはどうか。飢餓に瀕した人々に食事を届けた人々を殺したのは誰か?私が引き受けなかった責務を彼らが果たしに行って、それで無残に殺された。飢餓を人工的に引き起こし、戦争と無関係な人々を毎日爆殺する無法者を私たちが止めなかったから、彼らを殺してしまった。
 無実の人の子を殺したのは誰だろうか。「彼だ」「彼らだ」という答えを述べ得るのか。もしそう答えるならば、その殺害について私たちが悔い改めたことは一度もない。悔い改めのないキリスト教信仰にどんな内実が存在するのか?
 人の子を殺したのは、まず第一に「私」と答えざるを得ないのではないか?私が罪を犯し、その罪の埋め合わせで羊が屠られる時、その羊を殺したのは私だ。少なくとも、その認識を不断に維持し、悔い改め続ける義務を私たちは負っていないのか。プロテスタントの人たちこそ思い出してほしい。ー 我らの主で教師たるイエス・キリストが「悔い改めよ」と言った時、彼は信じる者たちの生涯全体が悔い改めであることを願った ー のではなかったか?
 私が羊の肉を食すために、誰かが羊を屠殺する時、その羊を殺したのは「私である」と第一に告白すべきだ。しかるにこの時、屠殺者は「他人のために殺しているだけだ」と言い、食す私は「屠殺者が殺しているだけだ」と言う。世界は誰も責任を引き受けないことのために日々発達する。かつて祭祀として皆で共有していた動物殺害の場は、知らない場所に追いやった。家なき人々を都市改造で公共空間から追放し、精神構造がマジョリティと違う人々を病人として収監した。自分の生活が何を、誰を搾取しているのかを知らずに済むほど搾取構造を拡張させた。人殺しをシステムに代行してもらい、罪悪感や PTSD から救ってもらう。今、「ラベンダー」や「パパはどこ?」という名の AI システムが許された「誤差」のままに半自動的な殺人を続けている。「誤差」とは、処刑対象の巻き添えにして殺して良い無実の人の人数のことだ。確実に殺すため、民間区画の自分の家にパパとして帰ったところを周りの人もろとも殺す。その「処刑対象」は、そもそも最初から文民を多く含んでいる。正当な民主的手続きで選ばれた行政府全体を軍事部門と意図的に混同して「テロリスト」扱いしているからだ。全世界の多くの大学で起こっている抗議活動もテロリスト扱いする。世界はこの支離滅裂な論理を素通りさせて、白日の下で殺人を許可している。
 キリスト者さえも、自分たちが殺人にほとんど直接的に加担している今さえ、その責任を取ろうとしない。人の子だけが私たちの罪を全て負わされ、無実の罪で殺される。キリストに倣う者はいない。逆にキリスト教こそ責任を引き受けぬためのあらゆる机上の理論だけを発達させた。何もしないだけではなく、何もしないことを善だ、祈りだ、信仰義認だと言い張る。お気持ちだけの悔い改めで免罪符を買う。こうして私たちは再び毎日キリストを十字架にかけている。かけ続けている。何度も人の子を自ら十字架にかけてさらしものにしている。もはや私たちが悔い改めに立ち帰ることも不可能だ。
 この半年間私たちが食べた多くのものは、イエメン人を殺しながらその血を食べていた。紅海を海上封鎖したイエメン人たちを私たちは即座に爆殺したが、誰もその殺人を気にも留めなかった。そんなにも私たちの日常は忙しくて神聖不可侵であった。イエメン人たちは何万人も広場に集まって、自分たちのため以上に、南レヴァントの虐殺されている人々のために毎週欠かさず叫び続けた。あなたは一日でも叫んだか?彼らは、私たちを餓死させようなどとはしていない。紅海が封鎖され、エネルギーと食物の価格が高騰し、物流が大幅に遅滞しても、私たちは即座に餓死などしない。大量の食べ物を捨てている。それで餓死者が出るとすれば、私たちの分配の問題だ。そもそもなぜ私たちは紅海を近道として使えて当然と思っているのか。海を "公共物" として簒奪したのは帝国主義のご都合であり、私たちはその共犯者だ。私たちの神聖な生活を守ることが、帝国がイエメン人の命を奪う大義だった。虐殺には何も対策せずに、虐殺への抗議には即座に爆弾を落とした。虐殺には何もせずに!その明白な悪意を教会もキリスト者も黙認した。帝国と民衆と神殿は今日も結託して罪なき人の子を殺害し続けている。
 無実の人の子を殺害する時、私たちは彼に罪を着せる。彼は私たちの負わなかった罪を不当に負わされる。私たちは彼に罪を着せたことについて「神が」「人類一般の罪を」「神の子に肩代わりさせた」などという神学に貶める。無実の人を殺すだけでは飽き足らず、「彼は負うべき罪があったから殺されて良かった」というお話しにする。悔い改めた顔だけこしらえて次の日も別の無実の人を殺す。殺す自分も、殺される彼も、同等の罪人だという神学を唱え、善を求めることを拒絶する。神殺しは反省したような顔をするが、人殺しは反省しない。こうしてキリストの十字架を毎日無意味にしている。そうして自分たちの毎日の殺人の罪を勝手に免罪する。他人やら人類一般の話をして自分が加担している罪の話を終わらせる。常に。今も。毎日。常軌を逸した尊厳の強奪。命を奪うだけでは飽き足らない。命を奪って尚さらに、善の座を簒奪し、その簒奪を忘却する。
 無実の彼を殺害するための証言は互いに合っていなくてももてはやされ、その論理が全方位に穴だらけでも擁護される。彼の殺害を防ぐためのあらゆる言動は、一点の瑕疵の無いことを完全に証明するまで無視され、踏みにじられ、殺され続ける。集団殺害罪の嫌疑の段階では判断できないなどと言って虐殺者にお祈りと金と武器を送り、虐殺されている占領下の人々の命綱である国連難民救済事業機関への拠出金は根拠なき証言のみに基づいて嫌疑段階で即座に停止した。「虐殺者の武器に投資するな」「飢えている人々に不当な制裁をするな」という当たり前すぎる主張のためになぜ防衛省や外務省の前で連日私は声を張り上げていたのか。虐殺を止めるためにすべき事の1%も為せない日々だった。
 私たちが無実の人を殺している時、私たちが無実の人を殺しているという明白で今まさに向き合うべき唯一の事実以外のありとあらゆる話題を好む。歴史の話。二千年前の話。潜在的な可能性としての暴力の予防の話。言葉の定義の話。アメリカの大学生活をいかに気持ちよく過ごさせてあげるかの話。何かしようと言う人の言葉を脱価値化し、何もしない自分を正当化するための種々の論題。話している間に30人殺す。殺された人が30人で済んだ日などほぼなかったが、みなとにかく今日殺されている人の話以外の全ての話しかしたくない。今日も殺人をやめないと毎日宣言されるのを黙認し続けた。今も。あなたはこれを読みながらこの半年以上に渡る殺人がいかにどうしようもなかったか、いかに自分が一言も殺人に反対しなくてもしょうがないくらい忙しかったのか、等を述べている。忙しい他人や、苦しんでいる他人や、賢くない他人の話をする。お見事な言い訳をこしらえる暇はいくらでもあるが、殺人に反対だと一言述べる暇はない。私はあなたと兄弟と呼ばれることを永久にはっきり拒む。
 今日、世界には自らを国際法を越えた存在とみなす権勢が君臨している。まさに、神と呼ばれるにふさわしい存在だ。あるいは「神の選民」とも言う。この権勢は、集団殺害罪防止条約を空疎なものに貶め、ジュネーブ第四条約を公然と踏み躙って全ての病院・図書館・大学・学校・教会他ありとあらゆる民事施設を破壊し殺戮し、国際司法裁判所の命令が出される前から命令を聞き入れる気がないと宣言し、国際刑事裁判所の訴状も出る前から取り合う気がないと宣言した上で脅迫し、国連総会の決議を無視し、国連人権理事会の決議を非難し、国連安保理決議さえ出された日から即座に破った。一日たりとも履行せず破り続けた。このような絶対的な刑罰回避性を持った免罪符は、誰が彼らに渡したのか。これは決して「長きに渡る迫害への贖罪」でも「先住民族への配慮」でもない。ナチスが虐殺した同性愛者やジプシーに同等の権勢が与えられることはない。日本やアメリカの半分が先住民族国家の領土として分割決議され、国家建設のための追放・虐殺が許可されることはない。
 この無法者国家を設立したのは、キリスト教世界である。この国家が行う全てのことは、私たちに責任がある。この無法者暴力団は、キリスト教世界が中東を支配し搾取するための楔であり、十字軍の続きである。教会は千年前から、この千年に渡って、聖地奪回などの名目でユダヤ教徒と東方キリスト教徒とイスラム教徒を何度も虐殺し、中東の通商路を確保しようとし続けた。あらゆる暴力を行って憎しみを買った上で異教徒は自分たちに敵意を持っているなどと主張し、差別し、戦争をしかけ、追放あるいは隔離し、虐殺した。キリスト教世界はイエスをメシアと仰ぐイスラム教徒を兄弟姉妹とは見なさなかった。イスラム教圏が築いていたユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共生の芽を丁寧に摘み取った。更に、自分たちが悔い改めるふりをしていたはずのキリスト殺害の罪をユダヤ教徒になすりつけ、異教蔑視・差別・非人間化の果てに、ホロコーストと呼ばれる大虐殺を起こした。ドイツの教会はこの大虐殺を基礎づけたプロパガンダを撤回しなかった。戦後の教会は戦争と虐殺への加担・黙認について反省文を出したが、では今どうなのか。反省文を出せば罪が清算されるのか。今こそその内実が問われていないのか。キリスト教会は、何も悔いてもいないし、何も改める気もなかったことを今まさに自ら証明している。白日の下での殺人を止めなかった。殺人者への支援と正当化を止めなかった。
 この 150 年間、私たちは、自分たちが迫害してきた民族を集め、武装させ、中東に送り込み、プロテスタント版の十字軍国家を設立し、保護してきた。この新しい十字軍国家による先住民に対する威嚇、追放、暴力、差別、人権侵害、法的不平等、不法入植、占領、包囲、”平時”の人質抑留、”平時”の”越境”射殺、そして大虐殺を許可してきた。この企図は全段階に渡って聖書による正当化が教会の黙認のもと施されている。
 私が南レヴァントの先住民について言及する時、あなたには反論が思い浮かぶ。その反論根拠は、なんとユダヤ人の神話の引用である。どこの少数民族の神話に、国際法を上回る権威が与えられたことがあったのか。ユダヤ人の神話だけにその神的権威が与えられており、その権威の源は教会である。キリスト教なしにこの犯罪国家の設立はあり得ず、この虐殺が許可されることはなかった。
 パレスチナを解放せよ。全ての虚偽と悪意とが明らかになったのを見た私たちの世代で必ず。ユダヤ人に安住の地を与える責任はキリスト教世界にあって、パレスチナ人にはない。ユダヤ人迫害と、その延長としてのイスラエル国設立と、その自然なる帰結としての追放・虐殺の責任を教会が引き受けなくてはならない。しかし教会は引き受けない。だからこの責任を、教会に代わって引き受ける人々のみが、これからは私の兄弟姉妹である。

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