[メモ]黙示録に書かれていることはこれから起こるのか?

黙示録に書かれている預言はほぼ全て成就し終わっているのでは?ハルマゲドンは終わっているのでは?

黙示録について、最近友人と(自分たちの中では)新たな解釈枠組みで解釈することを試みているので、もう一度じっくり通して読んでみました。

ある解釈枠組みを前提して聖書を読んでいくことは、聖書をそのまま受け取っていく姿勢とは異なるとは思いますが、「偏見なしに」聖書を読むことはおそらく人間には不可能で、時代を支配する"常識"や思考パターン、あるいは教会や教派の思想や流行(「パラダイム」とも呼べるでしょうか)に染まった状態で読むことに必ずなると思います。そのため、次善の策として、さまざまな土台のもとでの解釈を並行して試みて、それぞれの立場から見た場合ごとに整合性を検証していくという読み方もありうると思います。

僕たちがいま再考すべきと思っている解釈の仕方は、具体的には、黙示録の記述する出来事を、紀元1世紀の出来事、特に
・紀元66-73年のユダヤ=ローマ戦争
・紀元70年のエルサレム陥落とエルサレム神殿の崩壊
を中心テーマとして読んでいく解釈方法です。
黙示録を当時の出来事の記述として読む読み方は、従来から色んな立場から為されてきた解釈枠組みの一つです。ただ、現在ではいわゆる"リベラル"と呼ばれる立場で好まれている解釈であり、"福音主義"と呼ばれる立場からは忌避される、あるいはあまり想定されていないことも多い解釈と言えます。僕たちは、ある意味で「聖書の言うことを、まず、まにうける」立場の側から、この解釈を試みています。

さらにこの解釈は、もっと広く言えば、「聖書中に出てくる『裁き』『刑罰』『滅び』の諸預言というのは、基本的には、紀元70年にエルサレム神殿が崩壊し、古ユダヤ教の神殿祭儀が終了すること、また国家としてのイスラエルが滅亡することについて述べているのではないだろうか?」という提案でもあります。

当時の出来事から未来を語っている、という可能性ももちろんありますが、僕としては、黙示録は1世紀当時の出来事自体を語っており、既に(ほとんど)全て黙示録の記述する出来事については完了していて、その中には人間存在や神について知るヒントはあるかもしれないけれど、これから起こることの予言書としては読まないべきかもしれない、という立場により近いです。

黙示録は伝統重視派も学術重視派も紀元90年以降の執筆とする見解が多数ですが、一旦それも傍に置きます。ここで黙示録の内容が紀元1世紀の出来事に関するものであったと仮定すると、もし黙示録が紀元1世紀半ばの著作であった場合は、直近の未来について予言したものということになり、一方で古代の神学者や現代の学者の意見を採用して紀元1世紀末以降の著作であった場合は、直近の過去について叙述したものということになります。

黙示録を紀元90年以降の著作とされることが多い一つの根拠としては、古代の神学者としては紀元2世紀のリヨン司教エイレナイオスによる証言が最も重要なもので、彼は黙示録について「ドメティアノスの治世の終わりに向けて(この幻が)見られた」としています。彼の言う「ドメティアノス」が帝政ローマのフラウィウス朝のドミティアヌス帝のことであった場合、その在位は紀元81年から紀元96年となります。

(この辺についてはある仮説を検討中。黙示録の執筆年代が紀元54年以前である可能性について→)

また、黙示録がイエスの使徒よりもさらに後の世代の著作であるという見解が現代の学術界では支持されていることが多いですが、この見解は4世紀の教会史家エウセビオスも同様の見解を示しています。エウセビオスは2世紀のパピアスという人物の著作の証言者リストの中にヨハネという名が重複して登場していることを根拠に、ヨハネという名のつく人物が、福音書と書簡群の由来する人物としてのヨハネと、黙示録の由来する人物としてのヨハネに分けられるという案を示しており、現代の学術界でもヨハネ文書に関してこの見解を焼き直した説が取られることがあります。(「長老ヨハネ」説)

エウセビオスなどが、黙示録が使徒に直接由来するという紀元2世紀から4世紀までの神学者の見解に待ったをかける必要性があった背景として、2世紀から6世紀ごろまで断続的に勢力を保ったモンタノス派という異端とされた神秘主義グループが黙示録を非常に重要視して、頻繁に用いるようになったということが挙げられます。
黙示録は新約聖書の中でも解釈の余地が広く、しかも物騒な内容であるため、いつの時代もある勢力にとって(ある種、政治的に)有利に働く解釈が用いられる危険性を常に持っており、エウセビオスなども同様の問題意識を持っていたのかもしれません。

前駆-プロテスタントや初期プロテスタントの多くの神学者は、カトリック教会の教皇権を、黙示録中で人々を支配しやがて滅ぼされる「獣」や「大淫婦」として理解する解釈を提示して、キリスト以降の千数百年の歴史の中で徐々に黙示録の予言が成就していったと解釈しています。
これに代表されるような、長い歴史に黙示録の記述を当てはめていく解釈枠組みは「歴史主義(Historicism)」と呼ばれます。

現代のアメリカのプロテスタント福音派を中心に出回っている解釈枠組み(「ディスペンセーション主義」の一部から発したと思われる枠組み)では、20世紀に建国されたイスラエル国を中心に話を展開させ、黙示録の記述するほとんどの出来事を今より未来の、ある3年半の期間の間に成就する予言として読みます。アメリカのプロテスタントでは多くの場合、ロシア、教皇庁、イラク、イラン、トルコなどが悪者にされます。
これに代表されるような、遠い未来に来る、世の終わりの特別な時代について予言したものと見る解釈枠組みを「未来主義(Futurism)」と言います。

一方、黙示録の記述する出来事を1世紀に起こったことと解釈する枠組みは「過去主義(Preterism)」と言い、プロテスタント勢力によって黙示録の悪役をカトリックとされたことの反動としてなのか、カトリック世界の対抗宗教改革において体系化が進んだ解釈枠組みの一つです。

黙示録の解釈史をちょっと見るだけでも、この書を政治的に中立に読むことの難しさがわかります。ただ、中立が難しいからといって解釈を控えるのではなく、多くの解釈可能性を持っておくことで互いに解釈を相対化していくのが良いというのが僕の立場でもあります(聖書原理主義・解釈相対主義)。だから、ここで過去主義を強調するのは、ある種、それが忘れられた解釈であるからであって、絶対にそうだ、とまでは思っていません。プロテスタント世界で支配的な解釈枠組みに劣らない、それなりの説得力を持った全く別の解釈がある、ということの提示です。

さて、神殿崩壊に関連づけて黙示録を見る前に、福音書でイエス自身が神殿崩壊を予告する、というストーリーが語られているところに注目してみます。

"イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。
「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。"
- マルコによる福音書13:1-4

この「神殿の石が一つ残らず崩れ去る」という出来事は、いつ起こるのか? と考えるならば、それは紀元70年に既に起こったことだ、ということが最も素直な解釈と言えます。いま現在、エルサレムには、この福音記者が記したストーリーの中でのイエスが語った通り、神殿は跡形もなく消えています(「嘆きの壁」はヘロデ王による増築部分の遺構で、神殿そのものではない)。
もちろん、ヨハネの福音書2章においては、イエスが神殿について語っているようでいながら、実は別のこと(自分の体のこと)を比喩的に語っていた、という別のストーリーがあり、イエスのここで言及しているものが本当にその当時弟子たちの目前にあった神殿のことである、とも簡単に言えるとは限りません。
しかし、アメリカの福音派の一部で流行しているような「20世紀に再建されたイスラエル国家に、今より未来に、神殿も再建されて、そこを中心に黙示録の物語が進行する」という解釈などは、可能としても、少なくともこの箇所だけからは読み取れない、難易度の高い解釈と言えます。
もっとも、「この神殿崩壊の記述は当時の出来事を語っているが、それ以外の記述の後半部分は将来のことを語っている」という解釈がなされる事も多いと思われます。しかしこれらの記述は全て神殿崩壊の「予兆」として語られた、ということに注意を払う必要があるでしょう。最も素直な解釈は、イエスの語る神殿崩壊が紀元70年の神殿崩壊であるならば、ここに語られる内容は基本的にそれ以前に起こる/起こった出来事について述べている、というものでしょう。

このイエスの予告の後、弟子たちのうちの主要なメンバーが、イエスによる神殿崩壊の予告に対して「それがいつ起こるのか」と「その前兆はどのようなものがあるのか」を問いかけます。
ここでのイエスはそれに対して以下のようなことをさらに予告します。これらは「その前兆はどのようなものがあるのか」に対する返答でしょう。

・多くの惑わす者が現れる
・戦争のうわさがあり、民族や国家の対立が起こる
・方々に地震や飢饉が起こる

・弟子たちが迫害される
・福音が全ての民に伝えられる
・家族の中でも殺し合いが起こる
・弟子たちが全ての人に憎まれる

これらを予告した後で、おそらく何らかの決定的なタイミングについてこのように予告されます。

"荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。"
- マルコによる福音書 13:14

ここで、「読者よ、悟れ」はおそらくイエスが突然自分の語りが書物化されることを想定して読者に呼びかけてるなどということはなく、
マルコの福音書の記者自身の、執筆当時の状況に関連した切迫した問題意識が現れた注釈であるようにも思えます。

同じ箇所について、マタイによる福音書では「ここの理解のためには旧約の預言者ダニエルによる預言を参照するように。」というような、イエス、あるいは福音記者による注釈が入ります。

"預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。"
- マタイによる福音書 24:15-16

さらに同箇所について、ルカによる福音書の著者はより直接的な解釈を述べています。

"エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。"
- ルカによる福音書 21:20-21

この、エルサレムが軍隊に包囲されるのはいつなのか?と言えば、紀元2020年以降にも起こるかもしれませんが、第一義的、当時的意味を考えれば、数千年後の話ではなく、紀元66-73年のユダヤ=ローマ戦争に関連して起こったことを述べている、ということがわかります。
具体的には、僕が調べた限りでは、エルサレムはローマ軍による軍事的威嚇・侵攻を以下のような順に受けています。

①AD66春 ローマ帝国のユダヤ総督ゲッシウス・フロールスによるエルサレム神殿宝物庫の制圧
②AD66秋 ローマ帝国のシリア総督ケスティウス・ガッルスによるエルサレム城郭の突破と原因不明の退却
③AD67春 ネロ帝に派遣されたウェスパシアヌスによる北部パレスチナ侵攻
④AD68春 ウェスパシアヌスによるエルサレム以外のユダヤ諸都市の制圧(同年夏のネロ帝死去によりパレスチナ征服は一時中断)
⑤AD70夏 ウェスパシアヌス帝に軍を委任されたティトゥスによるエルサレム制圧・神殿破壊
(AD73 に最後に残ったマサダ要塞が陥落する)

ルカ伝ではエルサレムが軍に囲まれる滅びの日に関して、重要な見解が述べられます。

"そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。"
ルカによる福音書 21:21-24

ここでいう「聖書」とは旧約聖書のことで、ルカ伝の著者のこの強い言明をまにうけるなら、旧約聖書の預言は何らかの意味で「すべて」この第一次ユダヤ=ローマ戦争までのことを指して言っていたのだ、という話になります。

また、ここでルカ伝著者は「異邦人の時期」という概念を述べており、神殿崩壊が起こる時には既にこの「異邦人の時期」という何らかの期間が開始している、という見解を述べています。そしてこの「異邦人の時期」に起こることとして、エルサレムが"彼ら"(=異邦人?)に踏みにじられる、ということが語られています。

実は黙示録ではこの「異邦人がエルサレムを踏みにじる期間」について、具体的な長さと共に言及があります。

"聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。"
ヨハネの黙示録 11:2

四十二か月は12か月で割ると3.5年間(1+2+0.5年)となり、これはマタイ伝でのイエスの予告にある補足情報の通りダニエル書からとってきたものでしょう。

"彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。"
"わたしは、かの亜麻布を着て川の水の上にいる人にむかって言った、「この異常なできごとは、いつになって終るでしょうか」と。かの亜麻布を着て、川の水の上にいた人が、天に向かって、その右の手と左の手をあげ、永遠に生ける者をさして誓い、それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろうと言うのを、わたしは聞いた。"
- ダニエル書 11:31, 12:6-7

またダニエル書のこの付近を読んで気づくこととして、ダニエルに対して「預言内容は終わりの時まで秘され、封じられる」と再三語られていることが挙げられます。

"ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。"
"彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。"
- ダニエル書 12:4,9-10

これに対して、黙示録は全く逆の言明があります。

"この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。"
"またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。"
- ヨハネの黙示録 1:3, 22:10

ここから、黙示録の著者も、少なくともダニエルの予言が成就する時がまさに今だ、という意識であったと予想できます。ダニエル書は紀元前6世紀から紀元前1世紀までのいつかに成立したとされますが、ダニエルが例えば3300年後のことを予言していて、黙示録著者が3000年後のことを予言しているというような理解を黙示録記者がしている場合に、ダニエル書で封じられたことについて黙示録著者が「時が迫っているから封じてはならない」という意識になるとは考え難い気もします。黙示録著者は、数百年前のダニエルの予言が、まさにこの世代に起こる/起こったという意識で書いたのではないでしょうか。

実は福音書でも神殿崩壊の問答に続くさまざまな災いや天象の予告に続いて、イエスの発言として以下のように記されています。

"よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。"
- マルコによる福音書 13:30

ここで時代と訳されている"γενεα"は直訳するなら"generation"、「世代」です。福音書の神殿崩壊の予告の箇所をそのまま読むならば、そこに書かれている内容は全てイエスの歩んだ時代に生きていた世代が滅ぶまでに起こる、という風に読み取れます。「この世代に起こる。」というのが弟子たちの問うた「それはいつ起こるのか?」に対する一つの返答であるとも読めます。(その後、いつ起こるかのピンポイントでの特定はできないという返答もします)

こう考えると、以下の箇所も、弟子たちの一部がまだ生きている間に何か重大なことが起こるという風に直接的に読むこともできる可能性があります。

"よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。" マタイによる福音書 16:28

「世代γενεα」というものの時間感覚として、ヘブル書の著者が重要なヒントを与えています。

"だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代(that generation)の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。"
- ヘブル人への手紙 3:7

これはモーセが荒れ野でエジプトを脱出した民族を四十年間率いた後、カレブとヨシュアという人物を除いて、モーセを含めた、脱出当時20歳以上であったものたちは全員パレスチナに入ることなく死んだ、という故事について、詩編の語り手が述べたものです。実際、該当箇所を見るとこのようになっています。

"主はこのようにイスラエルにむかって怒りを発し、彼らを四十年のあいだ荒野にさまよわされたので、主の前に悪を行ったその世代(the generation, 七十人訳:γενεα)の人々は、ついにみな滅びた。"
- 民数記 32:13

およそ四十年たてばその世代が滅びるという時間感覚がここから(あくまで目安の一つとしてですが)推測できます。

ルカ伝でのイエスは「この世代」について他の箇所で予めこう述べています。

"それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代(this generation)がその責任を問われる。そうだ、あなたがたに言っておく、この時代(this generation)がその責任を問われるであろう。"
ルカによる福音書 11:50-51

また、ここのマタイ伝での対応箇所ではこのように続きます。(ルカ伝では13章にある)

"よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代(this generation)に及ぶであろう。ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。"
- マタイによる福音書 23:36-38

逆にここのルカ伝での対応箇所(13章)ではこのような言明にこの箇所が続いています。

"しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。"
- ルカによる福音書 13:33

これらの、「全ての預言者たちは、イエスを含めてエルサレムで殺害され、その血の報復がある時点で為される」というテーマは、黙示録に登場します。

"わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。"
ヨハネの黙示録 17:3-6

"「天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。また、おまえの中では、立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者の楽の音は全く聞かれず、あらゆる仕事の職人たちも全く姿を消し、また、ひきうすの音も、全く聞かれない。また、おまえの中では、あかりもともされず、花婿、花嫁の声も聞かれない。というのは、おまえの商人たちは地上で勢力を張る者となり、すべての国民はおまえのまじないでだまされ、また、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、
そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。"
- ヨハネの黙示録 18:20-19:3

このような福音書と黙示録の対応を見ていくと、黙示録に登場する「大いなる都、大淫婦バビロン」とは「エルサレム」そのもの、あるいはそれと強く関連したものであることが予想されます。
黙示録中の「大いなる都」がエルサレムであることは他の箇所からも読み取れます。

"そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。"
- ヨハネの黙示録 11:7-8

十字架につけられた彼らの主とはほぼ明白にイエス・キリストのことであり、イエスはエルサレムで十字架にかけられます。

このように、イエスが述べた「この世代」に対する裁きは紀元70年の神殿崩壊のことだという見解を福音書も黙示録も共有している、と解釈すると、福音書と黙示録の連関が強く浮かび上がります。

もう一つ重要なこととして、福音書で語られた「この世代が滅びるまでに起こること」として以下の内容も含まれるということがあります。

"その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代(this generation)は滅びることがない。"
-マルコによる福音書 13:24-30

「人の子が雲に乗って来る」というのはいわゆる「再臨」と解釈されることも多い部分です。キリスト教を名乗る宗教のほとんどの教派で共有される使徒信条やニケーア・コンスタンティノープル信条では

「(イエス・キリスト、すなわち)死者と生者を裁くために(再び)来たる方(を信ず)」

という言明があり、特にラテン語訳や英訳では未来形が使われており、イエスは「将来に」再び来られる(「再臨」する)、ということが告白されています。(ただしギリシア語原文では"来たる方ερχομενος"と現在分詞が使われており、未来の意味に訳すのは自然だが唯一の訳ではない)

使徒パウロは自分が生きている間に「再臨」があるかのような発言をしていると解釈されますが、しかし一般には再臨はパウロの世代にはなかった、とも解釈されています。このような「再臨がいつまでたってもぜんぜん起こらない」というキリスト教神学における重要な問題は「再臨の遅延問題」とも呼ばれます。

"わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。"
- テサロニケ人への第一の手紙 4:15-17

しかしルカ伝の「この世代が滅びる前に起こること」のうちには、「人の子が雲に乗って来て、選民たちを集める」ことが含まれており、神殿崩壊前後の紀元66-73の間のどこかでこのことも成就する/した という理解を聖書記者たちが示している可能性も高いということになります。
パウロの想い描く事象(雲に包まれた来臨と空中に召集される集会)は福音書でイエスが述べた言葉と類似しており、パウロ自身、「主の言葉によって言う」と述べています。パウロは「主の言葉」から、この世代中にこの現象が起こると予期していたと思われ、その解釈がテサロニケ書簡第一に表現されたと考えることができます。

つまり、「これらが起こるまでこの世代が滅びることはない」という言葉について、"真実"(?)な解釈がどうであったかはわからないにしても、少なくとも当時のキリスト者の一人であったパウロは、「自分たちの世代が生きている間にそれが起こる」とイエスの言葉を解釈していたということが予想できます。

ここでまず、黙示録を「『再臨』とはいつのことか」という観点から始めて、福音書と黙示録の対応を考えてみました。↓

https://note.com/makojosiah/n/n391f99a785c7

上記メモは、少し冗長なので、個人的な結論としてはまず以下なような対応があるのではないかと思います。↓
https://note.com/makojosiah/n/nc9dd5f75c983


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