ペラギウスによる信仰告白

http://seanmultimedia.com/Pie_Pelagius_Confession_Of_Faith.html

より。英訳からの重訳。

:::::以下訳文:::::

我らは信ずる。全能の御父なる神、見えるものと見えざるもの万物の造り主を。我らはまた信ずる。主イエス・キリスト、この方によって万物が創造されたところの方を。この方はまさしく神であり、唯一生まれし、真実に神の御子、造られたものでも養子とされたものでもなく、生まれし方である。この方は御父と本質を一にする。これをギリシア人がホモウシオン[同質]と表現する。この方は時間においても階級においても力においても劣っていないというように、万事において御父と等しくある。我らは生まれし彼を、生みし方がそうであるのと同じだけ偉大であると認める。

我らは御子は御父より生まれると述べるが、その神的で言い表せない産生にどんな時間をも帰さない。むしろ御父にも、御子にも始まりがないと言う。というのも、御子もまた共に永遠なる者と告白しない限り、御父を永遠なる者と告白できないのである。彼は子を持つゆえに御父と呼ばれるのである。常に父であった者は、常に子を持っていたのである。

我らはまた信じる。聖なる御霊、すなわちまさしく神であり、御父より発し、力において、意志において、永遠性において、本質において、万事において御父と御子と同等である方を。三位一体においてはどんな階級もない。つまりより優れた者とか劣った者とか呼ばれる者は無く、神格全体はその完全性において同等である。諸々の位格の属性を示す諸々の言葉以外は、一つの位格について述べる何であっても、三者全てについてもまさにそう理解できるのである。

アリウスについての反駁のごとく、我らは三位一体の本質は一つであり同一であり、一つの神を三つの位格において有していると述べる。それで、サベリウスの不敬虔を避けて、我らは彼らの特性によって表現される三つの位格を区別する。つまり、御父は自身に対して父であるとも、御子は自身に対して子であるとも、聖霊が自身の霊であるとも述べない。御父の位格が一つあり、また別に一つ御子のものが、また別に一つ聖霊のものが、あるのである。というのも、我らは複数の名だけでなく、諸々の名の諸特性、つまりギリシア人がヒュポスタシスと表現する複数の位格のことをも認めているのである。御父は御子の位格や御霊の位格をどんなときも除外せず、御子や聖霊もまた、御父の名や位格を受けない。御父は常に御父であり、御子は常に御子、聖霊は常に聖霊なのである。それで彼らは本質において一者であるが、位格によって、名によって、区別されているのである。

我らはこの神の御子、御父と聖霊と共に始まりなく永遠を継いだ方が、世界の終わりにおいて、マリア、常に処女である方により、我らの本性である完全な人をまとったと述べる。そして言葉は、自身に人性をまとうことによって、彼の神格を変えることなく、肉と成されたのである。

我らは、ある人が最も不敬虔にも保持しているように、聖霊が種子の代わりである、などとは述べない。彼は創造主の権能と勢力によって役割を果たしたのである。

我らは以下のような様式でキリストのうちには御子の一なる位格があることを保持する。すなわち彼の内に二つの完全で欠けのない本性、すなわち神性のものと、人性(体と魂から成る)のもの、があると述べる。

我らは、キリストのうちには単に人のみがあると告白するフォティノス(Photinus)を弾劾するように、アポリナリオスとその種の全ての者、つまり神の御子は人間本性全体より何らかを欠いたものをまとっていた、と述べる者たちを呪う。また、引き受けられた人性が、それが引き受けられたのがその者たちのためであるところの者たちのものと、体においてであれ、魂においてであれ、思考においてであれ、似ていないと述べるものたちも[呪う]。この方が、罪の汚れのみ以外においては、我らに対して似たものであったことを我らは保持している。[罪の汚れは]我らにとって[も]本性的ではないのである。

我らはまた同様に、以下のように主張する新しい解釈から取り組む者たちの冒瀆を嫌悪する。つまり、彼が肉をとる時に、神的本性に付随する全てのものが人性に伝えられたので、人間本性に属する全てのものも神的本性に変換された[というものである]。そこから、以下のこと(どんな異端も肯定しようとしてこなかった)が従う。つまり、両方の本性、すなわち神的と人的な[本性]は、この混乱によって、絶やされてしまい、それらに固有な状態を失い、他のあるものに変えられてしまうかのようである。御子のうちに不完全な神と不完全な人を有するそれらは、真に神あるいは人を保持していないと見なされるのである。

しかし我らは、神性は受苦することができないままでありつつ、受苦できる我らの本性は、そのように神の御子によって引き受けられた、と保持している。というのも、神の御子は諸聖句が語る全てのこと、つまり飢え、渇き、疲れ、痛み、死などのことを、(見かけでなく、本当に)受苦したのである。ただ、引き受ける[側の]本性によってではなく、引き受けられる[側の本性]によってである。というのも、神の御子は、彼の神性の観点では、御父と同様に、受苦することができず、御父と同様に、理解できず、御父と同様に、見えざる者である。けれども御子の固有の位格、すなわち、神の言葉は、自身に受苦することのできる人間性をまとった。それでも「言葉」の神性は、その本性において、人間性に宿ることによって何事も受苦しなかった。それは三位一体全体についてもそうで、我らはそれを受苦できない方として必然的に告白しなければならない。それゆえ、神の御子は、諸聖句に従えば、死ぬことができる[側の]観点では、死んだのである。

三日目に彼は復活した。彼は天へと上った。彼は御父なる神の右に着座している。それは、それにおいて彼が生まれ、受苦したところの、そしてまたそれにおいて彼が復活したところのものと同じ肉の本性がまだ存続しながらである。というのも、彼の人間的な本性は消えておらず、神性と共に永遠に続くべく、栄光を受けているのである。

それゆえ、御父より天と地の全てのことの権能を受け、やがて彼は生者と死者を裁くため来る。彼は義人に報い、罪人を罰するだろう。

我らは肉の復活を信ずる。それは我らが今いる輪郭と同じ現実において再び回復されるだろうと述べるような様式で、である。そして復活ののち我らが一度造られたのと同様[のあり方で]永遠に存続するだろう。

聖徒たちには一つの生があるが、彼らの働きに従って違う諸々の報いがあるということ[を信ずる]。他方では悪人の諸々の刑罰が彼らの諸々の罪の大きさに従ってあるであろうごとくである。

我らは一つの洗礼を保持する。それは成年の人々に対してと同じ秘跡の諸々の言葉をもって幼児たちに対しても執行される必要があると我らは述べる。

もしある人が洗礼ののちに堕落したとすると、彼は悔悛によって回復させられることができると我らは信ずる。

我らは旧新約[聖書]を、聖なる公同の教会の権威が伝えてきたのと同じ数の書物において受け入れる。

我らは、我らの魂は神によって与えられていると信ずる。また我らはそれらが彼によって造られていると保持する。あたかも、魂が神の本質の一部ではないかのように述べる者たちを呪う。また我らは、魂が元の状態で既に罪を犯している、あるいは体へと送られる前は天的領域に生きていた、と述べる者たちを弾劾する。

また我らは、神によって人に対して何か不可能なことが命じられている、と述べる者たちの冒瀆を嫌悪する。あるいは神の諸々の命令はどんな一人の人によっても行われることができず、全ての人を集めることでできると述べる者たちや、マニ教徒に迎合して一度目の結婚を弾劾したり、モンタノス派に迎合して二度目の結婚を[弾劾する者たちの冒瀆も嫌悪する]。

また我らは、神の御子は肉の必然性によって諸々の嘘をついたと述べる者たちを呪う。また、彼が自身にまとった人間本性のゆえに、彼は彼の意志した全てのことを為せなかったと[述べる者たちを呪う]。

また我らはヨビニアヌス[Jovinian]の異端を弾劾する。彼は、来るべき生において酬いに違いは無い、また我らがここで持とうと心を配らなかった諸々の徳をそこでは持つだろう、と述べるのである。

自由意志を我らは有する。それだから、我らがいつも神の助けを必要として立っていると述べるのである。マニ教徒と共に、人は罪を避けることができないと述べる者たちは、ヨビニアヌスと共に、人が罪を犯すことができない、ということを肯定する者たちと同様に、誤りのうちにいる。というのも、これらの両方は意志の自由を取り去っているのである。しかし我らは人は常に、罪を犯すこともでき、犯さないこともできる状態にあると我らは述べる。それだから、常に我ら自身を自由意志ある者として有しているのである。

至福なる教皇よ、これが、我らが公同の教会で学んできた、また常に保持されてきた我らの信仰である。そこにおいて、もしひょっとして不注意や不手際でそう[誤って]思われている何事かがあるならば、我らはそれを、あなた、つまり信仰とペテロの座を保持する方、に修正してもらえることを望む。そしてもし我らの告白があなたの使徒性の裁きによって認められたならば、私の落ち度を探す心を持つ者についてはだれでも、私の側が異端的なのではなく、彼自身の側が、不手際である、あるいは悪意がある、またあるいは公同的でないとさえ、わかるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?