[メモ]主の兄弟(2)ユストの系統

バルサバの称号が主の兄弟ユダの家系に継がれたというストーリーを仮定した上で、話をユストの称号に戻そう。

ヨセフ・ユストからヤコブ・ユストに継がれた、祭司職との繋がりを暗示させる「ユスト」の称号は、エルサレム教会の指導者の地位自体とも密接に関わるものであったかもしれず、バルサバ以上に重要な称号と思われる。

新約聖書中で「ユスト」と呼ばれる人物はヨセフのほかに二人登場する。

"しかし、彼らがこれに反抗してののしり続けたので、パウロは自分の上着を振りはらって、彼らに言った、「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」。こう言って、彼はそこを去り、テテオ・ユストという神を敬う人の家に行った。その家は会堂と隣り合っていた。 "使徒行伝 18:6-7

"わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。このマルコについては、もし彼があなたがたのもとに行くなら、迎えてやるようにとのさしずを、あなたがたはすでに受けているはずである。また、ユストと呼ばれているイエスからもよろしく。割礼の者の中で、この三人だけが神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。 "コロサイ人への手紙 4:10-11

このうち、テテオ・ユスト(Titius Justus)なる人物については、アカイア州コリント市の人物のように見えるため、ユスト=ツァディーク=祭司家系という仮定とは少し合わないかもしれないが、ヘレニズム以降、異邦世界にもユダヤ人コミュニティは散らばっていたので、祭司家系でないとは言い切れない。エフェソでも「ユダヤの祭司長」スケワの一族が登場している。

"そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。"使徒行伝 19:13-14

テテオ・ユストに関しては、まだ不確定要素が多いのでまたいつか議論することにする。

今回注目したいのは聖書中でコロサイ書のみに名が登場するイエス・ユストである。彼はパウロが重要な情報を付加しており、「割礼を受けた者たちのうち、パウロの同労者となった三人だけのうちの一人」である。他に挙げられているバルナバのいとこマルコと、アリスタルコは使徒行伝でそれなりの重みを持って登場している。また、この言及から、アリスタルコはマケドニア出身(使徒27:2)で、マルコはキプロスに親戚がいる(使徒4:36)が両親ともユダヤ人であることが伺える。なぜならコロサイ書の共同執筆者テモテも割礼を受けており、ユダヤ人の母を持ちながら、「割礼を受けた同労者」には数えられていないためである。これは「割礼を受けた者」が、単に儀礼を通った者という意味ではなく、純ユダヤ人、あるいはキリスト者でも律法を守るユダヤ人という意味であることを示唆する。

"神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。"コロサイ人への手紙 1:1-2

"パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである。"使徒行伝 16:3

コロサイ書には他にエパフラス、ルカ、デマスからの挨拶を送っており、またティキコとオネシモが手紙を運んでいるため、これらの人物は純ユダヤ人ではないと思われる。(テモテのように片親がユダヤ人などはあり得る)

さて、コロサイ書はローマで執筆されたものと思われ、パウロの宣教活動の終わり頃に書かれたものと思われる。

https://note.mu/makojosiah/n/ncbd51c4c4cd8

パウロがローマに到達するのは紀元60年前後と思われ、コロサイ書の執筆はその後である。ルカは使徒行伝にパウロのローマ到達までを記したため、コロサイ書の執筆段階での宣教状況はわからないが、ともかくも書簡からはテモテ、アリスタルコ、マルコ、イエス=ユスト、エパフラス、ルカ、デマスがローマに集合しており、またティキコとオネシモがローマからコロサイへ派遣された状況が述べられている。

さて、イエス=ユストに話を戻すと、パウロが「三人だけ」のユダヤ人同労者に名を挙げるイエス=ユストが使徒行伝に現れないのは、なんとも不思議に思われる。「同労者」というからには、この人物も宣教旅行に付き従っていたはずである。ローマにも多くのユダヤ人信徒が当時いたはずであるが、それらをパウロは含めていないということは、ローマでぽっと弟子になった新入りさんとは思えない。すると、(1)これまで意図的にあるいは偶然、触れられていなかったが一緒にいた(2)使徒行伝や書簡に別の名で登場している の二つの可能性が考えられる。

パウロの宣教活動に付き従った人々のうち使徒行伝に名前が出ている人物は以下である。

・バルナバ(どちらかというパウロを引き連れた人物、キプロス出身のユダヤ人)
・ヨハネ=マルコ(バルナバのいとこと同一かもしれない。その場合、パウロとバルナバの宣教に付き従った最初の人物で、キプロスに親戚のいるユダヤ人)
・シラス(パウロ書簡ではシルワノとして出てくると思われる。)
・テモテ(父ギリシア人、母ユダヤ人。ルステラ出身)
・アキラ(ローマのユダヤ人)
・プリスキラ(ローマのユダヤ人)
・ガイオ(マケドニア人)
・アリスタルコ(マケドニア州テサロニケ出身のユダヤ人)
・エラスト(コリント出身?)
・ソパテロ(ベレア人)
・セクンド(テサロニケ人)
・ガイオ(デルベ人)
・ティキコ(アジア人)
・トロフィモ(アジア人)
・ルカ(アンティオケア人)

この中に、割礼を受けたユダヤ人である可能性が非常に高い人物が5人いる。バルナバ、マルコ、シラス、アキラ、アリスタルコである。プリスキラは女性であり割礼は受けないので除外した。マルコとアリスタルコは既に名前が挙がっているので、使徒行伝に出てくる人物でコロサイ書のイエス・ユストと同一視するべき人物はバルナバ、シラス、アキラの三名が有力となるが、マルコの紹介で「バルナバのいとこのマルコ」と呼んでいることから直後のイエスがバルナバである可能性は低い。またバルナバはヘブライ名がヨセフであると判明していることからも考えにくい。

よっておそらくこのイエス・ユストなる人物はシラスかアキラであると予想してみる。アキラはラテン名であり「鷲」の意である。シラスは語源についていくつか説があり、以下の三つが考えられている。

1. ラテン名シルワノ(Silvanus, 森)の短縮形。

2. ヘブライ名サウル(Saul)のアラム語転化とギリシア語音写。

3. ヘブライ語の「3(Shalash)」の派生語のギリシア音写。最も音が近いのは「三代目(Shelosh)」

イエス=ユストとアキラを同一視する説も棄却はできないが(アキラはローマにいるし)、ここではシラスの語源として3.を選んで、イエス=ユストとシラスを同一視する説を考えてみたい。この場合、シラスは「三代目くん」というあだ名であると予想できる。

シラスは使徒会議(c. AD 50)の決議をバルサバ・ユダ(おそらく主の兄弟)と共にアンティオケアへ運ぶ役目を負っており、エルサレム教会の指導的立場の人物の一人とされている。当時のエルサレム教会のリーダーは主の兄弟ヤコブ・ユストであり、これまでのメモで論じた仮説によれば彼はバルサバ・ヨセフ・ユストの血統的長子であり、エルサレム教会の「二代目」の指導者である。

シラスをイエス=ユストと同一視する場合、この人物は「二代目」ヤコブ・ユストの長子であることが予想できる。それでイエスはユスト号を継承するまで「三代目くん(シラス)」と呼ばれたと考えることができる。

使徒会議の決議を伝えた指導者たちとして「バルサバ・ユダとシラス」という名前の順序で書かれており、ヤコブの弟(年長者)とヤコブの長子(年少者)と年齢順に書いたと読むことができる。

この仮説に立つと、ヤコブは自分の子にイエスと付けた、ということになる。ヨハネの福音書によれば主の兄弟たちはイエスの公生涯の半ばにおいてイエスの活動に何らかの意味で懐疑的であったとされるため、イエス=ユストがヤコブ=ユストの子であるとすればヤコブが本当にイエスを信じるイエスの公生涯末期か昇天後の子であると思われる。この場合、ヤコブが自分の子をイエスと名付けた理由として以下が考えられる。

1. 兄に敬意を表してイエスの名を継がせた

2. 律法の慣習では、兄が子なくして死んだ場合その責務を最年長の弟が負うことになっている。具体的には兄の未亡人を弟が娶り、その長子を法的な兄の子とするべきことが定められている(レビレート婚)。イエスの場合、おそらく妻が無かったので、ヤコブはこの義務がない可能性もあったかもしれないが、義人として知られるヤコブは律法の心に従って自分の長子にイエスの名を継がせた可能性がある。

3. 普通のレビレート婚が起こった。イエスの妻と言える人物が存在し、その「未亡人」をヤコブが娶って生んだ長子にイエスの家を継がせた。

3. はかなり仰天言説なので置いておくことにして、とりあえず2.の線で考えるのが良いように思う。

するとこのヤコブの長子イエスは紀元30年より少し後に生まれたと思われ、使徒会議(c. AD 50)のころ、最大で20才程度の若者ということになる。「三代目くん」の愛称にふさわしく、またマルコに代わってのパウロの助手としても適当な年齢と思われる。パウロのもう一人の助手テモテも二回目のルステラ宣教で一度目のルステラ宣教で救われた母ユニケの子として登場するため非常に若かったはずであり、不自然のない年齢設定と思われる。

さてこのシラスと呼ばれたイエス=ユストがヤコブ=ユストの長子であるとすれば、祖父や父と同様、祭司の職務に就いた可能性がある(ヨセフ=ユストやヤコブ=ユストが祭司であったことはまだこのメモで議論したことはないが、今度議論する。ヤコブ=ユストに関しては大祭司であったことと整合するいくつかの証言が教会教父によって残されている。)。またイエス=ユストは母がユダヤ人であり割礼を受けているテモテを差し置いて「割礼を受けた者」に数えられていることから、より強い意味でユダヤ人、つまり旧律法に従いながらキリストを信じる者であった可能性が読み取れる。

するとこの若者は二十歳頃(c. AD 50)にパウロの宣教旅行に付き従い、二十五歳(c. AD 55)で神殿周りの職務をするため(民 8:24)エルサレムに戻り、三十歳(c. AD 60)で祭司となったと思われる。これはコリント宣教(c AD 52)の頃からシラスの記述が使徒行伝から消えることとも整合する。

「三代目(シラス)」イエスは、三十歳ころまでエルサレムで祭司として活動し、AD 62年のヤコブ=ユストの殉教と同時にユストの称号を継いだと思われる。これを仮定するとコロサイ書の執筆がAD 62以降ということになる。

さて、ここでもう一つ解くべき謎が生じる。祭司は三十歳から五十歳までその職務に就く(民 4:47)。しかしイエス=ユストは紀元60年代のコロサイ書簡執筆時にローマにいるということは、まだ三十代なのに神殿の職務を放棄しているということになってしまう。(もしかすると短期間のローマ滞在だったのかもしれないが)

律法に違反しないで神殿の職務から解かれるための方法が一つあり、それは大祭司となることである。大祭司は五十歳までという年齢制限がなく(つまり五十歳以下で解任もありうるし、五十歳を越えても務めることができる)、タルムードによれば一度大祭司となったものは祭司に戻ることができない。よって大祭司となってから生前に解任されれば神殿の職務からは解放されると思われる。

つまり、このイエス=ユストがツァドク家系の祭司であるとすると、AD 60年代に大祭司職に就いて、すぐに解任され、AD 62年以降にローマに行った可能性がある。

実はなんとこれにぴったりくる大祭司が歴史上に存在しているのである。

AD 63年に1年以下の短期間だけ大祭司を務めたイエス・ベン・ダムネウスである。(https://en.wikipedia.org/wiki/Jesus_son_of_Damneus

このイエス・ベン・ダムネウスは、ヤコブを殺害したこともきっかけとなって失脚した大祭司アナヌス・ベン・アナヌスに代わって任じられた大祭司である。時流が反アナヌスであったことから、殺された大祭司ヤコブの長子が立てられた可能性がある。

ダムネウスとはラテン語で「宣告された者」「弾劾された者」、もしくはラテン語とギリシア語で「悪魔」という意味の言葉が語源となっている可能性がある。この場合、これは後のユダヤ人の立場から見た呼称であると思われ、メシアであるイエスの法的長子とも言えるヤコブの子がそのように呼ばれた可能性はある。

このように考えると、イエス=ユストはAD 62に父が死んでユスト号を継承し、AD 63に大祭司に任じられ(このころ30代)、同年に解任されて神殿での職務から解放され、ローマへ行ったと思われる(父が殉教したくらいなので、身を守るためかもしれない? ちなみに継いだのはボエトゥス家の娘マルタが擁立したイエス・ベン・ガムラである。)。このように考えると、コロサイ書の執筆年代はAD 63以降ということになる。パウロの殉教はローマ大火のあるAD 64からネロ帝が没するAD 68の間のどこかであるので、この年代設定は可能である。

さて、話はここで終わりではない。以上を仮定すると、イエス=ユストは紀元60年代にまだ年齢30代である。もし例えば80歳まで生きたとすればAD 110年頃まで生きている。このヨセフ=ユストの長孫、ヤコブ=ユストの長子が、その後のキリスト教世界で影響力を持たなかったはずはなく、おそらく教会史に現れるはずであり、もっと言えばおそらくは祖父と父を継いでエルサレム主教として現われる可能性が最も高い。

初代エルサレム主教ヤコブ=ユストを継いだのはヤコブのいとこ、クロパの子シメオンであり、非常に高齢まで生きて107年ころ没したとされる。

このシメオンの次のエルサレム主教が、なんと、AD 107 - 113頃に主教職を務めたユスト1世(https://en.wikipedia.org/wiki/Greek_Orthodox_Patriarch_of_Jerusalem#Patriarchs_of_Jerusalem )なのである。

これはおそらくイエス=ユストその人であると思われる。エルサレム主教座は以下のように継承されている。

James the Just (until 62)
Simeon I (62–107)
Justus I (107–113)
Zaccheus (113–???)
Tobias (???–???)
Benjamin I (???–117)
John I (117–???)
Matthias I (???–120)
Philip (???–124)
Senecas (???–???)
Justus II (???–???)
Levis (???–???)
Ephram (???–???)
Joseph I (???–???)
Judas (???–135)

ここにヤコブ=ユストを含めて三人のユストが出てくるが、おそらく三人目のユスト2世(c. AD 130)はイエス=ユストの長子であろう。世代的にもちょうど合うくらいである(およそ20-30年差)。最後のユダヤ人主教ユダは主の兄弟ユダの曽孫とされており、イエスの親族が初期エルサレム教会において2世紀まで重視され続けていたことがわかる。

こんがらがっているのでもう一度まとめると、以下の人々を同一視している。

・イエスの法的長子(記録なし)(弟ヤコブの紀元30以降の子)

・シラス(使徒行伝)(「三代目」 c. AD 50)

・シルワノ(テサロニケ書)(シラスと似た音のラテン名「森」 c. AD 50)

・イエス=ユスト(コロサイ書)(AD 60年頃以降)

・ヤコブ=ユストの血統的長子(記録なし)(ヤコブAD 62死去)

・大祭司イエス・ベン・ダムネウス(ヨセフスの記録)(AD 63)

・エルサレム主教ユスト1世(エウセビオスの記録)(AD 107-113)

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