[メモ]士師記年代復元の難点

[パウロの年代証言]
"この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び、エジプトの地に滞在中、この民を大いなるものとし、み腕を高くさし上げて、彼らをその地から導き出された。そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ、カナンの地では七つの異民族を打ち滅ぼし、その地を彼らに譲り与えられた。それらのことが約四百五十年の年月にわたった。その後、神はさばき人たちをおつかわしになり、預言者サムエルの時に及んだ。その時、人々が王を要求したので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間、彼らにおつかわしになった。それから神はサウロを退け、ダビデを立てて王とされたが、彼についてあかしをして、『わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人で、わたしの思うところを、ことごとく実行してくれるであろう』と言われた。"
使徒行伝 13:17-22

・マジョリティでは「約四百五十年」と「その後」の順序が逆
→「その地を渡した、そしてその後、約四百五十年間、士師を遣わし、預言者サムエルに至り、それから王が求められ、神は彼らにキスの子サウルを与えた、[彼は]ベニヤミン族からの男であり、四十年、そして彼を退け、ダビデを〜」
・つまり
アレクサンドリア系では
四百五十年を寄留期間の四百三十年+荒野の四十年+カナン制圧x年のうちから何年か引いた年代とし、士師時代に関する年代の言及はなく、サウル(+サムエル?)の統治年数四十年を述べている。
ビザンツ系では荒野の四十年のあとヨシュアからサムエルorサムソンまでを四百五十年とし、サムエル+サウルあるいはサウルの統治を四十年としている。


サウルの統治年数

「サウルは歳の子で王となり、+二年間イスラエルの上に在位した」(サム上13)

・マソラ本文は不自然な文。「誰々は○歳で即位し○年間在位した」という定型文だとすると即位年が欠落しており、在位年数も十の位が欠落している可能性がある。
・アレクサンドリア系の七十人訳では節自体が欠落している。
・ルキアノス系・オリゲネス系の七十人訳写本では即位年齢三十歳、統治年数二年となっているものがある。(これを信じるとサウルの統治の直後にサウルの子イシュ・ボシェトが四十歳で即位することがありえなくなり、計算上の空位期間を想定する必要性を生じる。)
・サウル即位はサムエルの任命と民からの承認に期間差がある。
・サウルの統治初期はサムエルと共同統治している。
・サウルはサムエルからは初期に王位剥奪を宣告されているので、サウルの統治年数とダビデの統治年数の間に計算上の空位期間がありうる。

・ヨセフスによればサムエルはエリの死後十二年間統治した後でサウルと十八年間共同統治したとしている。(XIII.5) さらにサウルがサムエルの死後二十二年間統治したとしている。(XVI.9) しかしこれではサウルの没年に即位したダビデが三十歳であることからサムエルの没時にダビデが八歳であったことになる。既にサムエルの存命中にダビデは千人隊長などを務めているため兵役に就くことができる二十歳を越えているはずであり、この編年には何か矛盾がある。

 

[神殿着工年代]

「ソロモンの治世4年が出エジプトから480年」(列上6)

・この数字を年代計算に使っている初期教父証言が少ない
・七十人訳はアレクサンドリア系で440年、ルキアノス系で480年となっている
・ヨシュア+長老+士師+サムエル+サウル+ダビデで480年に収めるのはまあまあ困難(士師時代に共同統治期間を仮定して圧縮することになる)。
・ユダヤ紀元では異国の制圧下での年数を省いている可能性がある。


[ギレアド人の居住年数]

"イスラエルはヘシボンとその村里に住み、またアロエルとその村里およびアルノンの岸に沿うすべての町々に住むこと三百年になりますが、あなたがたはどうしてその間にそれを取りもどさなかったのですか。"
士師記 11:26

・アンモンの襲来以前の士師の統治年数を単純に足すと301年間。
・実際にはギレアドの制圧はカナン制圧の初期段階(1年目)なのでヨシュア+長老の在位期間を含めることになり、その分が超過する。


[エフタの統治年数]

"エフタは六年の間イスラエルをさばいた。ギレアデびとエフタはついに死んで、ギレアデの自分の町に葬られた。"
士師記 12:7

・七十人訳では60年間

・ヨセフスは6年間

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