『ローマ書注解』8章18-30節(ペラギウス)

https://docs.google.com/document/d/1z0z1WvscKkkGr7nX-p5vj7DRYUSmhs4Csfm0aF_RsyY/mobilebasic?pli=1

より。英訳からの重訳。

聖句引用は新共同訳を参考にしている。

[]内は邦訳者の補足。

:::::以下訳文:::::

18節
「現在の苦しみは、取るに足らないとわたしは思う。」
彼は将来の栄光を称賛することを望んでいる。それは我らがより簡単に現在の諸々の苦難に耐えられるようにするためである。そして確かに、人間は誰も、たとえその栄光が現在の生と比較可能であったとしても、天の栄光と同等な何かを被ることはありえない。というのも、死に際して被るどんなことも、実際には以前の彼の諸々の罪に相応しいこと以上のものでないのである。しかし今や、彼の諸々の罪が赦され、将来において永遠の生、天使たちとの親交、太陽の輝き、そして聖徒たちに約束されてきたと我らが読む他の諸々のこと(cf. Dan. 12:2-3; Matt. 13:41-3; Rev. 7:9-17)を、彼は保証されるだろう。
「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると」
というのも、丁度今は「それはキリストと共に神のうちに隠され」( Col. 3:3)、「自分がどのようになるかは、まだ示されていない」( 1 John 3:2)のである。

19節
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」
違う解釈者はこの文を違う方法で説明している。一つは、全被造物が、その時それが何かより良いものに変えられるであろうゆえに、復活の時を待っているというもの。あるい他には、天使的、理性的被造物が、というものである。というのもペテロは、天使たちも聖徒たちの栄光を切望していると言っているのである(cf. 1 Pet. 1:12)。ある者たちは「被造物」とはアダムとイブのことであるとさえ言う。彼らが自分自身によって罪を犯したのではなく、かの蛇の教唆において[犯したの]であり、彼が大昔に、彼らが神的存在への希望において詐欺にさらされた時、彼らを堕落に服従させたのである。これらの解釈者は「そして彼らは、自由とされ、それで彼らはもはや堕落に服従しない」と言い、「被造物全体とは、キリストの到来に至って義であった者たちである。彼らも、わたしたちに備えてくださったさらに良いものを受け取らなかった( Heb. 11:39)からである」とも言う。しかし彼らだけでなく、我らも、つまりこれらのことが成就された者たちも、まだしっかり把握してはおらず、希望によって耐えているのである。ただ、我らは多くの義人たちが見ることを切望した諸々のことを見たのである(cf. Matt. 13:17; Luke 10:24)。

20節
「被造物は虚無に」
虚無とはいつの日か終わりが来るあらゆることである。
「服している」
天使たちのように、つまり人類に対して待ち望んでいる者たちのように。
「自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、希望のうちにある。」

21節
「被造物も滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光の自由にあずかれるからである。」
それは神の似姿(cf. Gen. 1:26)を堕落させた者たちにもはや仕えないであろう。

22節
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っている。」
まさに「天使たちが悔い改める者たちについて喜ぶ( Luke 15:10)」ように、彼らは悔い改めようとしたくない者たちのため嘆くのである。

23節
「被造物だけでなく、御霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされることを、うめきながら」
天使たち、つまり我らよりも優しい者たち、が悔い改めぬ者たちについてそうであるだけでなく、我らも、既に聖霊とあってそのような人々のためうめくのである。エレミヤもまた「ああ、わたしの魂よ、神を畏れるものが地の表から消滅したことのゆえに」などと( Micah. 7:1-2)うめくごとくである。
「体の贖われることを、待ち望んでいる。」

24節
「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」
我々はまだ約束されたものそのものを見てはいない。しかし彼がコリントの者たちに言うように、我々はこう望んでいる。「というのもわたしたちは、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」( 2 Cor. 5:7)
「見えるものに対する希望は希望ではない。というのも、誰が、自分がそのために希望を持つものを、見るだろうか? 」
見られるものはそのために希望を持たれるものではなく、ある者に属するとすれば、それは肯定されるものである。それゆえキリスト者は、見える諸々のものには何の希望も持たない。というのも、我々は現在の諸々の事物ではなく、未来の諸々の事物を約束されたのである。

25節
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待つのです。」
忍耐を持った信仰への報いは偉大である。なぜなら見ないものを信じており (cf. John 20:29)、まだ受け取っていないものを既に受け取ったかのように確信しているからである。彼はヘブライ人へこう言う。「[神の]御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのである」( Heb. 10:36)。というのは、希望が忍耐無しに存在するあり方を知らないのである。

26節
「同様に、御霊も弱いわたしたちを助けてくださる。」彼はこの希望に合致して助ける。我々が地上的なことをでなく、天上的な事柄を要求するようになるためである。というのも我々の能力は、聖霊によって助けられなければ、弱いものなのである。
「わたしたちはどう祈るべきかを知らない。」
我々はまだぼやけた状態でガラスを通して見ており (cf. 1 Cor. 13:12)、[そして]しばしば我々が助けになると判断する事柄が有害なのである。それゆえ我々が要求する諸々の事柄は神的な摂理によって与えられるものではないのである。彼自身別のところでこのように言う如くである。「それゆえ私は主にこれが私を離れるよう三度主に頼んだ。」( 2 Cor. 12:8)など。[または、我々は我々の祈りの、入り組んだ切望を、我々の心のうちに抱いたように言葉にすることがほとんどできないのである。これが以下の言明が直後に続く理由である。]
「しかし御霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成すのである。」
それで、心を探られる神は、どの程度我々が信じることを熱望しているかを、我々が言葉に表現できなくてでさえ、知っておられる。彼は更に、彼の御心に合致しては、我々がこの世的な事柄をでなく、聖なる事柄の要求を為すことを知っているのである。]

27節
「心を見抜く方は、御霊の思いが何であるかを知っている。」
[あたかも大祭司のように。]なぜなら、神と合致して彼は聖徒たちのために要求を為すからである。ここで御霊の賜物を「御霊」と呼んだ。そこで彼がこう言っている如くである。「私が異言において祈るなら、私の霊が祈るのである。」( 1 Cor. 14:14) また[他では]「あなたがたは諸々の御霊についての熱中者たちである」 ( 1 Cor. 14:12)。 今、「彼が要求を為す」のは言い表すことのできないうめきを以って我々が要求するようにするからである。それは丁度神が、我々がどんな種の民であるかを知るために我々を試す( Deut. 13:3)と言われるごとくである。それは我々がそれを知るようにされるということである。よく用いられる使い方に従ってでさえ、主は、彼が為されるよう命じたことを自身、成し遂げたと言われる。「彼は家を建てた」あるいは「彼は書物を書いた」という言明において、しかしながら彼は書いても建ててもいないという如くである。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
我々が神への愛から為すこと、あるいは被ることは何であれ、全て我々への報いへと成長する。[というのも]義人の為すことは何であれ栄えさせられる (cf. Ps. 1:3) のである。彼の目的に従って召命された者たちのためである。

29節
「神は予め知っていた者たちについて」
その目的に従って、彼は予め信じると知っていた者たちを信仰のみによって救うよう計画した。彼は、彼が無償で救済へと召命した者たちを、彼らが[救済へと]働くにつれて、更に優って栄化されるだろう。彼はまた彼の御子の似姿へと適合されるよう予定している。予定することは予知することと同様である。それゆえ、彼が予見した者たちは、彼が栄光に適合されるよう意図した生に適合されるだろう。なぜなら「彼は我々のへりくだった体を彼の輝きの体に似たものへと変えるだろう」( Phil. 3:21) から。それは彼が多くの兄弟たちの間で初子となるためである。ここで「死者たちからの初子」は栄光に入っているのである。( Col. 1:18)

30節
「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった。」
彼が予知した者たちは彼が召命したことを信じる。ここで召命は意志しない者たちではなく、意志する者たちを集合させる。あるいはいずれにせよこの区切りは人々に対してのものでなく、むしろ時間でのものである[? 英訳 : or at any rate the discrimination is not against persons, but rather in time]。彼はこれを信仰の諸々の敵のために言う。それは彼らが神の恩寵を偶然的なものと判断し得ないようにするためである。それゆえ、彼らは宣教を通して信じるよう召命され、信じた時にバプテスマを通して義化され、そして霊的賜物の諸々の力において、あるいは来るべき復活において、栄化されるのである。

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