『教会史』第1巻 第2章 我らの救い主イエス・キリストの先在性と神性についてのあらまし(エウセビオス)

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第2章 我らの救い主イエス・キリストの先在性と神性についてのあらまし


1節
キリストのうちには二重の性質がある。一つは、彼が神として考えられる意味において身体の頭部と似ている。一方で他方は、我らの救済のために、我ら自身と同じく受苦する人間性を着たという意味において、[身体の]両足に擬えられ得る。であるから、以下の著作は彼の歴史全てのうちの主要で最も壮大な出来事から始める限りにおいて完全であろう。このようにしてキリスト教が古代[からある]、神の[もの]であることが、[ある人々に]示されるであろう。[ある人々は、キリスト教]を最近の外来起源のものであると思っており、ほんの昨日に現れたものだと想像しているのである。

2節
どんな言語も、キリストの起源と価値、存在と性質を表現するのに十分でない。そこでまた神の御霊が諸預言においてこう言うのである。「誰が彼の産生について宣言すると言うのか?」[イザヤ 53:8] というのも、御子の他に誰も神を知らず、彼を生んだ御父お一方の他には誰も御子を十分に知り得ない[マタイ 11:27改]のである。

3節
というのも、御父以外の誰が[御子を]明白に理解できるというのか。[御子は]世界の前にあった光である。諸時代の前に存在した理知的で根元的な知恵である。始原において神と共にあり、また神であった生ける言葉である。見えるものであれ見えざるものであれ、あらゆる動物と被造物より前にあった、御父より生まれし第一かつ唯一の方である。理性的で不死である天の軍勢の最高司令官である。偉大な助言の伝達者である。御父の語られぬ意志の執行者である。御父と共に、全ての事物の創造者である。御父に次いで宇宙の第二の原因である。真実な、唯一生まれし神の御子である。全ての創造された事物の主であり、神であり、王である。御父から、神性それ自体と共に、そして力と名誉と共に、支配と権能を受けた方である。彼に関して、彼の神性を語る聖書の神秘的な諸文章においてこう言われている。「始原において言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」[ヨハネ 1:1] 「全ての事物は彼によって成された。彼なしではいかなるものも成されなかった。」[ヨハネ 1:3]

4節
これも偉大なモーセが、全ての預言者たちのうち最も古代の者として、神の御霊の勢力のもとで創造と宇宙の設営について描写する際に教えたことである。彼は以下のように宣言する。世界の造物者で全ての事物の創造者である方は、キリスト自身に、より劣った諸事物の造物を託したのである。[託した相手は]明白に[神]自身の、神的かつ第一に生まれし言葉である方であり、他の何者でもないのである。それで[神]は[キリスト]と人の創造について語らって、こう言う。「神は言ったのである。我々の像において、我々の似姿において、我々は人を造ろう。」[創世記 1:26]

5節
そして預言者たちの他の一人はこれを肯定して、彼の賛歌のうちで以下のように神について語る。「彼は語った、そして彼らは成された。彼は命じた。そして彼らは創造された。」 彼はここで御父と造成者を全ての統治者として紹介している。王にふさわしい頷きを以って命令し、[神]の次には他でもない、我々に宣言されている神の言葉が、御父の命令を実行すべくあるのである。

6節
人の創造以来、義と敬虔において秀でていたと言われる者たちは全て、偉大なる僕モーセも、[モーセ]以前では第一にアブラハムとその子らも、後に現れた多くの義人と預言者たちも、精神の純粋な目によって彼を熟考し、彼を認識し、彼に崇拝を捧げた。それは彼が神の御子として受けるべきものであった。

7節
しかし彼は、御父が受けるべき敬意について怠っていることはありえず、彼ら全てに御父についての知識を教えるべく任命された。例えば、主なる神は、アブラハムがマムレの樫のところに座っていた際、一般的な人として彼に現れたと言われている。そして彼は、直ちに跪いて、彼の両の目では人を見ていたのにも関わらず、彼を神として礼拝し、彼に主として犠牲を捧げ、彼の正体について自分が無知でないことを、以下のような言葉を公言した際に告白したのである。「主、全地の裁き手よ、あなたは正義の裁きを執行するのではないのですか?」[創世記18:25]

8節
というのも、生まれぬ、そして不変なる、全能の神の本質が人の形状へと変化させられたと思ったり、それは何らかの被造物の見かけによって見る人々の目を欺いたと思ったりすることは不合理ではないだろうか。一方で、聖書がそのような事柄を捏造していると思うことも不合理ではないだろうか。そうであるならば、全地を裁き、裁きを執行する神であり主である方が人の形状で見えたとする時、その方が全ての事物の第一原理である方と呼ぶことが正しくないとすれば、先在した彼の唯一の言葉の他の誰が、そう呼ばれ得るのだろうか。この方に関して詩編のうちで以下のように言われている。「彼は彼の言葉を送り、彼らを癒した。そして彼らを彼らの破滅から運び出した。」

9節
モーセは以下のように言った際、最も明白に御父に次ぐ第二の主について、宣言している。「主は、ソドムとゴモラへ、主からの硫黄と火を降らせた。」[創世記 19:24] 神聖な聖書も、彼がまた人の形状で再度ヤコブに現れた際にも、以下のようにヤコブに言って、彼を神と呼んでいる。「あなたの名はヤコブとはもはや呼ばれない。イスラエルがあなたの名となるだろう。神に勝ったからである」[創世記 32:28] それでヤコブも以下のように言って、その場所の名を「神の姿」[ペヌエル]と呼んだのである。「私は顔と顔を合わせて神を見たが、私の命は保存されている」[創世記 32:30]

10節
また、記録された神の諸顕現[Theophanies]が、諸々の、神に従属した御使いと[神に]奉仕する者の現れであると思うことは正当では無いのか。というのも、それらのいずれかが現れる際はいつでも、聖書は事実を隠さず、彼らを神でも主でもなく御使いと呼称するのである。それは無数の証言によって簡単に確かめられる通りである。

11節
モーセの後継者たるヨシュアも、彼を、天使たちと大天使たち、そして超越的な諸力の統率者として呼び、また御父の副官、つまり全てに対する主権と支配の第二位階を委託されたもの、「主の軍勢の司令官」として彼を呼んでいる。[ヨシュア]も人の形状や外見と変わらないものとして彼を見ていたのにも関わらずである。というのも、以下のように書かれている。

12節
「ヨシュアがエリコにいた際に以下が起こった。[ヨシュア]はある人が、抜き身の剣をその手に持ち、[ヨシュア]に対して立っているのを眺め見た。[ヨシュア]は彼に向かって行き、そして言った。『あなたは我々の味方ですか、それとも我々の敵の味方ですか?』そしてその人はヨシュアに言った。『主の軍勢の司令官として私はここに来た。』ヨシュアは自分の顔を地に落として彼に向かって言った。『主よ、あなたはあなたのしもべに何を命じるのでしょうか?』そして主の司令官はヨシュアに向かって言った。『あなたの靴をあなたの足から外しなさい。というのもあなたが立っているところのこの場所は聖なるところなのである。』」

13節
また同じ諸々の言葉からこれはモーセと話した方以外の何者でもないと気づくだろう。というのも、聖書は同じ諸々の言葉で、同じ方への言及とと共に以下のように言っている。「彼が見ようと近づくところを主が見た際、主は灌木から彼に呼びかけて言った。『モーセ、モーセ。』そして[モーセ]は言った。『何でしょうか。』そして[主]は彼に向かって言った。『私はあなたの父祖たちの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』」

14節
既に参照されたものに加えて他の諸々の証拠を引用すれば、世界の前から生きており、そして自立存在していた、とある本質があったということを我々は学ぶだろう。その方は、全ての被造物の形成のために御父すなわち宇宙の神に奉仕した方であり、そして神の言葉と呼ばれ、また知恵と呼ばれる方である。知恵自身の口から、ソロモンを通して最も明白に以下の自分に関する神秘が啓示されている。「私、知恵は、思慮と知識と共に住み、理解を引き起こしてきた。私を通して諸王は統治し、諸君主は正義を裁治する。私を通して帝王は偉大にされ、私を通して諸主権は地を統べる。」

15節
これに[知恵]は加える。「主は彼の諸々の道の始原において、彼の諸々の業のために、私を創造した。彼は世界の前に私を確立した。始原において、地を造る前に、諸々の深淵を造る前に、諸々の山が置かれる前に、全ての丘の前に、彼は私を生んだ。彼が諸天を準備した際、私は彼と共に居合わせた。そして天の下の領域の諸々の泉を確立した際、私は彼と共にあって、物事を処理していた。私は彼が喜ぶところの者であった。彼が世界を完全にさせることを嬉しく思っていた全ての時に、日々私は彼の前で嬉しく思っていた。」

16節
それゆえ、神の言葉は先在し、全ての者にでなくとも、ある者たちに現れたということが、我々によって短く示された。

17節
なぜ福音が旧き諸時代において今のように宣べ伝えられなかったかは、以下の諸々の考慮から明らかになる。古代の者たちの生は、全的に分別があり全的に有徳であるキリストの教えを受けることを許容するような種のものでなかったのである。

18節
というのも始原において、その元来の祝福された生の後すぐに、第一の人は神の命令を蔑ろにし、この死すべき破滅的な状態へと陥り、その神の導いたかつての快適さを、この呪いの積み上がった地と交換したのである。彼の子孫たちは我々の地を満たし、ここそこの例外はあるが、よりずっと悪しくなったことを自ら示し、とある残忍で言うに耐えない生の様式に入っていった。

19節
彼らは都市についても国家についても、諸々の芸術についても諸々の学術についても、思考しなかった。彼らは諸々の法や正義、徳や哲学の名前についてさえ無知であった。放浪者として、野生の獰猛な獣たちのように自分たちの生を荒野で過ごし、意志的な悪意の超過によって人の本性的な理性や、人間の魂のうちに埋め込まれた思考や文化の諸々の種を破壊していた。彼らは全ての種の汚し事に自分たちを全面的に明け渡し、すぐ互いに誘惑し合い、互いに殺害し合い、人間の肉を食べ、敢えて神々との戦争を遂行し、全ての人に名高い巨人たちとの戦闘を実行した。そして地を天に対して要塞化することを企て、無抑制の高慢さの狂気のうちに全ての神その方に向かっての攻撃の準備を企てた。

20節
これらの諸々のことのために、彼らがこのように自分たちを管理した際、全てを見ている神は、彼らに向かって、諸々の洪水と、諸々の大火を送り込んだ。それは全地に渡って広がった原生の森に向かうが如きものであった。[神]は彼らを、絶え間ない諸々の飢饉と諸々の疫病、諸々の戦争によって、また天からの諸々のいかずちによって、彼らを削減した。それはあたかも、より深刻な諸々の刑罰によって諸々の魂のある猛烈で頑固な病気を検査するようであった。

21節
それで、悪意の超過が、酩酊の強い発作のように、ほとんど全ての人種を支配し、人々の諸々の精神を曇らせ、暗くさせたとき、第一に生まれし、また第一に創造されし神の知恵、先在した言葉自身は、その卓越した人への愛によって誘発されて彼のしもべらへ現れた。まず天使たちの形状で、そしてまた神の好意を享受した古代のある者や他のある者には、神の救いの力としての彼自身の位格で、[現れた]。しかしながらそれは人の形と異ならないものであった。なぜなら他の方法で現れることはあり得なかったからである。

22節
ヘブル人から子孫として出て、自分たちを絶えず神の崇拝に捧げた彼らによって敬虔の諸々の種子が多数の人々に播かれたので、彼は預言者モーセを通して彼らの諸々の行いによって未だに腐敗させられている多数のことについて分与した。それらはとある、神秘的な安息日や割礼についての諸表象であり、諸象徴であり、他の霊的な諸原理の諸要素である。彼は諸々の神秘自体の完全な知識を彼らに譲渡したのではなかった。

23節
しかし彼らの律法が名高くなり、芳しい香のように全ての人々の間に拡散させられると、それらの影響の結果として、大部分の異教徒の気質が、あらゆる方面から興った立法者たちと哲学者たちによって柔和にされた。そして彼らの野生的で獰猛な残忍さが穏和さへと変えられ、それで彼らは深い平和や、友情や、社会的交際を享受するようになった。それで、ついに、ローマ帝国の起源の時において、全ての人々と国々に彼がまた現れたのである。[人々]は[彼に]以前から助けられていたが、御父についての知識を受け取るに適合するようになった。彼は[以前から人々を教えていた方と]同じ、徳の教師であり、全ての良いことにおいて御父の奉仕者であり、神的な、そして天的な神の言葉であるが、我々自身のものと本質において全く違いのない人間の体において[現れた]。彼は預言されてきた諸々の事物を為し、また受苦した。というのも、同時に人であり神である方が、世界に来て住まい、驚くべき諸々の業を実行し、全ての国々に御父についての敬虔の教師として自身を示すことは、予告されてきたのである。彼の誕生、彼の新しい教え、彼の驚くべき諸々の業の、驚嘆すべき性質もまた予告されてきた。彼の死、彼の死者の中からの復活、そして最終的に、彼の神的な昇天の仕方も、同様である。

26節
例えば、預言者ダニエルは、神の聖霊の力のもとで、終わりの時の彼の王国を見て、それで人間の理解に適合する言語において神的な幻を描写するように霊感された。彼は言っている。「私は見たのである。ついに諸々の座が置かれ、日々の古老が座した。その装いは雪のように白く、彼の頭の髪は純粋な羊毛のようであった。彼の座は火の炎上であり、彼の両輪は燃える火であった。火の川が彼の前に流れていた。千の千倍が彼に奉仕し、万の万倍が彼の前に立っていた。彼は裁きを裁定し、諸書が開かれた。」[ダニエル 7:9-10]

25節
そしてまた彼は言っている。「私は見た。見よ、人の子のような方が天の諸々の雲に乗って来て、日々の古老に向かって急ぎ、彼の面前へと運ばれた。そして支配と栄光と王国が彼に与えられた。全ての諸国民、諸部族、そして諸言語が彼に仕えている。彼の支配は永遠の支配であり過ぎ去ることなく、彼の王国は破壊されることがない。」[ダニエル 7:13-14]

26節
これらの言葉で言及し得るのは我らの救い手、以外の何者でもないことは明白である。彼は始原において神と共にあった言葉なる神であり、彼の最終的な肉における現れの故に人の子と呼ばれたのである。

27節
しかし我々は別々の諸書において、我々の救助者イエス・キリストに関連する預言者たちからの抜粋を集めて、彼について啓示されたこれらのことをより論理的な形式で整理したので、ここでは既述の内容で十分であろう。

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