「諸原理について」序文 6-10章(オリゲネス)

(6章)

​悪魔とその使いたち、また敵対する諸力に関する、教会的宣明は、それらが実際に存在する、ということである。しかし彼らが何であって、どのようなあり方で存在しているか、それは十分明確には説明されていない。

しかしながら以下の考えは大半によって保持されている。つまり、悪魔は御使いであったということ。そして堕落者となったのち、できる限り多くの御使いたちを、自身と共に降るよう誘導したということである。これらの者たちは現在に至るまで'彼の使い'と呼ばれている。



(7章)

以下もまた教会的宣明の一部である。
世界は造られて、ある時からその始まりを持ったこと。そしてその悪の故に破壊されるはずであるということ。
しかしこの世界の前に存在したもの、あるいはこの世界ののちに存在するであろうものについては、多くの者にははっきりと知られていない。というのも、それに関して教会的宣明の中に明確な言明はないのである。



(8章)

そして、最後に、諸聖句は、神の霊によって書かれたということ、そして一見した外見上の意味だけでなく、大半の者の気づきから逃れる別の意味を持つということ。というのも、書かれたこれらのことはある諸々の奥義の諸形態であり、また諸々の神聖な存在の諸表象なのである。

そのことに関して、教会全体にわたって一つの意見があり、それは律法全体は確かに霊的であるということ、しかし律法のもたらす霊的意味は全ての者に知られてはおらず、知恵と知識の言葉において聖霊の恩寵が与えられた者たちだけに知られている、ということである。

"ασωματον"、つまり"体の無い"という言葉は、多くの他の諸々の書物だけでなく、我々自身の諸聖句のうちでも、使われておらず、また知られていない。
もし誰かが、「ペテロの教義」と名付けられた小論文から、 救い主が「私は体の無い霊鬼ではない」と彼の弟子たちに言っているかのように書かれているところ を我々に対して引用してくるならば、まずもって、その著作は教会的文書のうちに含まれていないと私は返答しなくてはならない。
というのも、我々は、それがペテロによっても、あるいは他のどんな神の霊によって霊感を受けた人によっても著されていないということを示すことができるのである。

だが、その点を容認するにしても、そこでの"ασωματον"という言葉は、無体の性質が哲学者たちによって議論される際に、ギリシア人や異国人の著者たちによって意図される意味とは、同じでは無い。というのも、今述べたその小論文中で、彼は「体の無い霊鬼」という表現を、霊鬼的な体の形や輪郭が、それが何であれ、この、物質的[大きさを持って]で目に見える我々の体とは似ていないことを表すために使っている。これは、その論文の著者の意図通り、彼が持っていた体が、霊鬼たちが持つような、つまり気体で形成されているかのような - そうであるからこそ「無体」と考えられたり呼ばれたりするわけだが -、生来 細かく希薄な体、ではなく、中身の詰まった、触れることができる体であった、という意味に理解されるべきである。

さて、人間の慣習によれば、そのような性質でない全てのものは単純に、あるいは蒙昧にも「体の無い」ものと呼ばれる。あたかも我々の息している気体は、掴んだり持ったりできず、また圧力に対して抵抗できないがゆえに、「体の無い」ものと呼ばれるべきであるかのようである。



(9章)

しかし我々は、聖なる書のうちでも、ギリシアの哲学者たちが"ασωματον"、あるいは「無体の」と呼ぶものが別の名で見つかるかそうでないかを探求すべきだろう。というのも、「神ご自身はどのように理解されるべきか。つまり、体が無いもののようか、ある形に従って形成されているのか、あるいは諸々の体とは違った性質を持つのか」という、我々の教えで明確に示されていないこともまた、探求課題なのである。

また同様の探求が、キリストと聖霊に関しても、またあらゆる魂についても、また理性的性質を所有する全てのものについても、なされなくてはならない。



(10章)

また、以下も教会の教えの一部である。
ある、神の御使いたちがいること。ある良き諸力があって、それらは人の救いを成し遂げることにおいて彼に付き従う者たちである。しかし、いつこれらが成立させらられ、またどんな性質であり、どのように存在するのか、は明確に述べられていない。

太陽、月、そして星々に関しては、それらが生きている存在であるか命のないものたちであるかについて、明確に伝えられたことはない。

それゆえ、もしこれら全てのことの理路に合致する真理の統一体系を形成したい者はみな、この種の諸々の要素と諸々の基礎を「知識の光で自分を啓蒙せよ」の掟に従って、役立てる必要がある。明白で不可欠な諸々の言明によって
彼がそれぞれ個々の論題に関しての真理を確かめられるように、そして、聖なる書のうちに発見したものであれ、厳密に帰結を追跡し正しい方法に従うことによって導き出したものであれ、例示と議論という手段によって、既述のように、教義の統一体を形成できるように。

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