[メモ]義人ヨセフ(2)

さて、バルサバ=ヨセフ=ユストが、アリマタヤのヨセフその人であるとしよう。しかしペテロに次ぐ第二の復活の証言者でかつイエスの親族であるクレオパと比肩する使徒候補とするにはもう一歩決定打が足りない。

そこでもう一歩推測を進める。アリマタヤのヨセフが、主の埋葬を取り仕切った、ということが極めて重要であると思われる。埋葬は親族によって執り行われることが基本であり、カトリックによればアリマタヤのヨセフはマリアの叔父とされる。

しかし、ここではさらに、イエスの養父ヨセフが、アリマタヤのヨセフと同一視できる可能性について考えたい。彼もヨセフかつユスト(義人)であり、「金持(バルサバ)」ということ以外が整合している。この比定は突飛に思われるだろうが、十分な蓋然性があると思われる。

まず最初に、ヨセフ=大工のイメージを払拭する必要がある。彼は「テクトーンτεκτων」であり、大工である可能性もあるが、より広くは工芸従事者を意味する称号を持っているのである。ヨセフの住民登録地がエフラタのベツレヘムであったことは周知の事実だが、このエフラタの長子フル(ホル)の孫ベツァルエル(ベザレル)は神殿祭器を調える工芸従事者であったことが知られる。

"「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、"出エジプト記 31:2-3

それで、家系から考えても、ヨセフは単なる「大工」というよりは神殿での特権的役割を持った工人であると考えるのが相応しいと思われる。通常、幕屋や神殿周りでの奉仕についてはレビ人のみにその権利が与えられているため、神殿祭器や祭服をこのユダ族のベツァルエルが担当しているのは驚くべきことであり、非常に特別な地位であることがわかる。

さて、カトリック教会のマリア周辺の親族に関する伝承は、「マリアの永遠の処女性(perpetual virginity)」の教理を守るために残念ながら歪んで継承された可能性が高いと思われる。カトリックによれば、マリアは永遠に処女であるために、主の兄弟ヤコブはマリアの子ではないとしている。さらにマリアも母アンナによる処女降誕で生まれたことになっているため、イエスだけでなくマリアにも兄弟が無いとしている。このようなカトリックの伝承の流れを考えると、「マリアの叔父」というのは、元の伝承で「マリアの弟」だったものが遠ざけられたものである可能性がある。

上記リンク先ではエウセビオスが引用するユリウス・アフリカヌス(AD2c)によるイエスの系図の解釈が付されているが、これによればイエスの祖父ヤコブはエリが男子無くして死んだのちエリの妻との間にヨセフを生んだとしている。(ユリウス・アフリカヌスも教会史家の中ではかなり古く、信憑性はそれなりに高いと思われる。ただし例によって引用でしか残っていない。)

しかし多くの伝承ではエリの系図をマリアの系図としており、これらを統合すると、「エリは男子無くして死んだが娘マリアがあり、エリの未亡人との間の子ヨセフがその娘マリアを娶ってエリの嗣業を継いだ」と考えることができる。つまり、マリアとヨセフは異父姉弟であり、最低十ヶ月はヨセフが若いということになる。先に述べたように「マリアの弟アリマタヤのヨセフ」というのがもともとの伝承で、マリアに関する教理が整うにつれて「マリアの叔父」に格上げされた、という説をここでは採用したい。

他の伝承ではヨセフは結婚当時高齢であったとされるが、それは主の兄弟ヤコブらをヨセフの前妻との間の子とするための解釈であり、決定的な説ではない。

アリマタヤのヨセフがイエスの養父ヨセフであるとすれば、その弟クレオパに比肩して余りある、イエスの生涯全体についての証人ということになり、使徒候補の筆頭であったことも頷ける。

また私生児疑惑がつきまとったイエスと違い、イエスの養父ヨセフは歴とした、ダビデの町ベツレヘムを登録地とするユダヤ王統の子孫であり、サンヘドリンに設けられたユダ族の代表の議席を占めていても全く不思議はない。

アリマタヤのヨセフとイエスの養父ヨセフの一つ大きな違いとして、ヨセフは少なくともイエスの誕生後八日目において貧しかったということがある(ルカ2:24 & レビ12:8)。このため「金持」という称号だけはイエスの養父ヨセフに帰されていない。

しかしこの後2年以内にヨセフは東方の博士団の来訪を受けて黄金を献上される。この博士団は三人と描かれることが多いが、献上物の種類が三種であっただけあり、実際にはもっと大規模であったと思われる。なぜなら博士団の来訪はエルサレム市全体が騒然とするほどの出来事だったからである。

”ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた、エルサレムの人々もみな(πασα)、同様であった。”マタイによる福音書2:3

それで、この使節団から財を受けた後では、ヨセフの富はイスラエルで随一のものとなったのではないだろうか。

アリマタヤ(ハ・リマタヤ)はエウセビオスによればエフライム山地、サムエルの故郷ラマタイム・ゾピム(ラマ)と比定され、ディオスポリス(リュッダ、ロド(ネヘミヤ11:35)、ルダ(使徒9))の近くとされる。タルムードでは過越祭の前日に磔になったロドの扇動者についての記述があり、これがイエスのことだとすれば、イエスの公生涯後半にユダヤ人は彼がガリラヤ出身というだけでなくロド周辺(≒アリマタヤ?)にも家があるという認識だった可能性もあるだろう。

このラマという地域は、マタイによる福音書でヘロデ大王による嬰児虐殺に関わる土地として登場している。

「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞えた。ラケルはその子らのために嘆いた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった。」エレミヤ書31:15, マタイによる福音2:28

実際には嬰児虐殺が起こったのはラマ(エルサレム北方の町)ではなくベツレヘム(エルサレム南方の町)であったが、虐殺の何らかの関係者たちがラマにいたか、ベツレヘム近郊以外のラマでも虐殺が起こるなどして関連があったのかもしれない。ヨセフは、自分たちは御使いのお告げによって助けられたものの、自分の妻の子どものために多くの嬰児が殺されたことに心を痛め、ラマで財を分配や教育の振興など、何らかの慰めを行うことを試みたのかもしれない。

彼が財の分配を為したことは、似た名を持つ、財の分配を為した三大富豪としてタルムードに出てくるベン・カルヴァ・サヴァ(犬を豊かにする子)という人物がいたことからも、この名が財の分配を示唆することが言える。さらに、これは無理があるかもしれないが、ベン・カルヴァ・サヴァとヨセフ=バルサヴァ(豊かさの子)の同一視さえもありうるかもしれない。なぜなら彼と並ぶ三大富豪のもう一人は「グリオンの子ニコデモ」であり、こちらはほぼ明らかにイエスの弟子ニコデモと同一視できるからである。エルサレムの危機に際して財を貧しい人々に投げうった富豪たちがキリスト教徒集団であった可能性は十分にある。カルヴァ・サヴァのある娘の名をラケルと言い、彼女はラビ・ユダヤ教の創始者の一人と目されるラビ・アキヴァと婚約し、反対した父に家を追放されている(Ketubot 62b)。

またラマはサムエルの時代に預言者たちの教育・訓練拠点があった場所として知られる(サムエル上19:19-24)。サムエルはベテル、ギルガル、ミツパ、ラマを巡回して活動した(サムエル上7:16-17)が、これらの地域のうちベテルとギルガルにおいて、かなり後代のエリヤ・エリシャの時代まで預言者たちの教育拠点が存続していたことが読み取れる(列王下2:3, 4:38)。このことから、もしかするとラマの学究拠点としての背景がヨセフがガリラヤからラマへ移住した要因に絡んでいる可能性もある。ラマがその近くにあったという都市リュッダは、エルサレム神殿崩壊後のラビ・ユダヤ教にとってパレスチナ南部における代表的な学術拠点(http://www.jewishencyclopedia.com/articles/10205-lydda )であった。ラビ・アキヴァ(AD1-2c)は無学な人物であったが、婚約者ラケルの勧めで律法を学ぶ際、リュッダで学んだ。またミシュナに登場する代表的なラビであり、祭司でもあり、アキヴァの師でもある、エリエゼル・ベン・ヒルカノス(AD1-2c)もリュッダの学塾で教えた。ラビ・エリエゼルは異端(キリスト教徒)の嫌疑をかけられてローマ総督に逮捕されたことがある。

さらに、ラマはもとからヨセフの縁故の地だった可能性さえもある。イエスの父ヨセフはエジプトから帰る際に「アルケラオがユダヤを支配していると聞いて恐れ、ガリラヤに引きこもった」(マタイ2:22)と、一度ユダヤ地方を伺うそぶりを見せている。しかしヨセフはもともとガリラヤの人であって、人口登録のため一時的にベツレヘムに来ていただけなのだから、ユダヤ地方を伺う必要もなく、そのままガリラヤへ帰っても良かったはずである。これはヨセフがただガリラヤ地方の人間だったわけはなく、ユダヤ地方にも馴染んでいたことを意味するのではないだろうか(これは彼が神殿においても仕事を請け負う工芸従事者であることの傍証の一つと見なすこともできよう)。そして、普通に考えるならユダヤ地方でのヨセフの滞在拠点はその登録地ベツレヘムとなるはずだが、彼は何故かベツレヘムにおいて、身重の妻を連れていながらまともな宿が得られないくらい超アウェイである。ユダヤ地方に親しんでいながら、ベツレヘムには親しんだ拠点がない彼は、ユダヤ地方の、ベツレヘムでないどこかに何らかの所縁のある土地があったかもしれない。エルサレム北方の町ラマは、その一つの候補になりうるだろう。

士師記の後半には士師の列挙とは独立に複数の記事が収められているが、なぜか「ベツレヘム」と「エフライムの山地」の話ばかりであり、またこれらの地域間で婚姻関係が結ばれていたことを報告している。エフラタ族の子孫ヨセフと、エフライム山地ラマとが密接な関わりを持っていたとしてもそれほど突飛なことではないのである。

追記:イエスの退避場所

先日ラマとイエスの父ヨセフの関係に関連して興味深いことを聞いた。

エフライム族はアッシリアによる北イスラエル王国の捕囚以降、ユダヤ地方にはあまり住んでいないと思われるが、地名として「エフライム」の名が新約聖書中一回だけ出てくる。

"そのためイエスは、もはや公然とユダヤ人の間を歩かないで、そこを出て、荒野に近い地方のエフライムという町に行かれ、そこに弟子たちと一緒に滞在しておられた。"ヨハネによる福音書 11:54

それは、ラザロの復活が為され、イエスを殺す計画が持ち上がったためにエルサレムを退避する際に選んだ場所であった。「荒野のエフライム」がどこにあるかは諸説あるが、おそらくは元エフライム領にある町であろう。これも、イエスの家(そしてその父ヨセフ)がラマタイム・ゾピムにあった可能性を示唆するものとなるだろう。


追記:ラビ・アキバ・ベン・ヨセフの岳父ベン・カルヴァ・サヴァはAD 130頃の人物であり、紀元前から生きてるはずのイエスの養父ヨセフとの同一視は年代から考えて困難があることがわかった。下記記事参照。




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