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『シン・ニホン』を読んだ私と、迎えにいきたい未来のはなし

「神様はみてくれていた」
  

 昔、「私の将来の夢」という類の項目は苦手だった。
 レールに乗っていた私はあまり何も感じなかったし、何も思わなかったからだ。

 それさえ忘れていたある日、本当に小さなきっかけから『シン・ニホン』を手に取った。
 気づくと、ビジネス書のコーナーにあったはずのこれを、私は涙を流しながら読んでいた。
 うまく言葉にはできなかったが、私がこれまで辛かったことも、知りたかったこともたしかにここに凝縮されていて、「神様はみてくれていた」というものに近い感情を抱いた。
 昨日見た夢を思い出すように、でもできるだけ丁寧に、これまでの自分を振り返った。
 自分ができることを捜して、親に頭を下げながら職も転々とした。武器だと叩き込まれ疑わなかった学歴も、結局は正しい使い方がわからずに終わった。いざ社会に出ると、驚くほど何も知らなかった。私は今まで何をしてきたんだろう、私が学んだことはどこで活かせるのだろう、そしてこれからのことはどう学ぶのだろう。
 周囲で水面をたくさんの飛魚がすごい勢いできらきらと飛んでいく中、ひとり小舟で静かに浮かんでいる心地だった。どうしたらこの船が動くのかわからない。張れる帆も見当たらない。私には将来の夢どころか、明日の生活すら、まともに描けなかったのだ。
 『シン・ニホン』は、この大きなダンジョンの攻略本のように思えた。
 何度でも読んで、噛み砕いて、自分に取り込まなければいけない。と少しそう焦る気持ちでいっぱいになった。

 そして早く、私のような人にもこの本を知ってもらいたくなった。

あっけなく消えた訪問介護ステーション

 私は言語聴覚士という仕事をしている。この仕事は主に言語や聴覚、嚥下(えんげ)機能に障害を持つ方に対して、その回復を促すためにリハビリテーションを提供する仕事である。先日までは、訪問看護ステーションで働いていた。大学病院での数年の臨床を経てからは長く地域で活動してきたが、昨今の新型コロナウイルス感染拡大の影響で、在籍していた訪問看護ステーションが倒産するという、人生で初めての経験をしたのだ。

 日本の高齢化に向かう速度はものすごい。
 平成30年の時点で高齢化率は実に28.1%であり、世界で最も高い比率で推移している。診療報酬の改定も重なる中、ただでさえある種”向かい風”を受け始めた訪問看護業界にあった私たちの事業所は、地域包括ケアの一端を担う貴重な受け皿の一つであったはずだ。なのに、あっけなく消えた。件のウイルスの流行は、介護や看護の事業所へも容赦なく襲いかかる。そもそもの体力不足だったとはいえ、担い手であるはずのいち事業所にいた私たち訪問看護師は、30名ほどが放り出される形となった。

 一方でこのウイルスの流行は、いくつかの問題をはっきりと炙り出することとなった。
 コロナ禍による要件緩和は、訪問介護やデイサービスなどの事業所にとって希望が持てるものだったが、その一方で、私たち訪問看護師は頭を抱えていた。
 私自身も、例えばオンラインリハビリへの要件緩和について厚労省に照会を依頼した。しかし「過去に例はない」とあっさりした返答で終わってしまった。
 焦っていた。私たちはことばと摂食嚥下の面に問題を抱える全ての人を対象にサポートをしている。これらは生きることのそのものだ。予防的な側面も大きい地域包括ケアシステムも含めて、私たちはこの少ない人数で、日本中の人を対象に、サポートと予防のどちらも担わなければいけないのだ。しかも、この有事の際にも。

日本だけ認知症が治りにくい?

 現在日本に35,000人弱存在している言語聴覚士は、その約75%が医療機関に所属している。その対象は成人の脳卒中患者がほとんどだが、実際に私たちが専門的に対応すべき問題は、ことばの発達の遅れや、聴覚・声の障害など幅広い。小児から高齢者まで、主にコミュニケーションに関わる各機能に専門性を提供しなければならない。
 例えば脳卒中のため入院しても、ほとんどの方は180日でリハビリテーションを終えて退院する。退院する方はリハビリテーションを「卒業」と表現され、自宅や施設などで生活するが、実際にはその後の再発予防なども含めた永続的なリハビリテーションを必要としている方がほとんどなのだ。ただし現状では地域で生活する中で専門的なサービスを受けられる場は極端に限られてしまうことなどから、「リハビリ難民」などという言葉もできた。
 医療機関で受け入れる人数や、退院後の永続的リハビリを必要とする人数などは地域別に数字として出ている。それなのにこんなにも言語聴覚士の多くは医療機関に留まってしまっていて、必要な方に必要なサービスを十分届けられずにいる。


 そんな中、本書は国のリソース配分について書かれていた。その中の「データドリブンに今発生している大きなコストをしっかりと解析して、打ち手を打つ」(P.339)という項目に、認知症高齢者の入院日数の他国比についての記述があった。この内容の通り、日本だけが認知症になったら治りにくいというわけではなく、十分なサポート体制がないという可能性もうかがえるものだ。これまでにも、精神疾患や発達障害に対する日本人の理解は乏しいと言われてきたし、実際にそう診断される方が犯罪を起こす割合も他国に比し多いとされている。サポート体制の不十分さは全般に、長く指摘されてきたことなのだ。
 この部分を読んで、私は「注文をまちがえる料理店」のイベントを思い出した。こちらは認知症高齢者をホール従業員に雇い、時々注文を間違えることもお互いに承知の上で、おおらかな気持ちで過ごすことを目的に始められた活動だ。
 実際に私は2017年9月に行われた第1回イベントに参加して全員が笑顔で生き生きと働いていることにとても驚いた。同時に、“認知症であると理解された”ことでお互いに心地よく過ごせる、というその視点を得たことに感動したものだ。
 このイベントの記憶は、本書の「Life as valueの時代に」(P.326)とつながった。たとえ老化や疾病のためにこれまでのように動けなくなったとしても、それを補うシステムやテクノロジーがあることで、最期まで生きがいを感じられる、豊かな国になっていけるはずだ、と強く共感した。

ダンジョン脱出の主人公は、私自身

 『シン・ニホン』を一度でも読み終えたならきっと、コスト解析とリソース配分について自分ごとに落とし込まない読者はいないだろうし、誰もが大なり小なり、次の瞬間から動こうと思える奥深い変化を感じるだろう。
 例えば私のような職種の人にとっては、認知症を含め、障害と言われるようなものも特性であり、その人も武器として活かせる力があるのだと、ページをめくるようにするりとおりてきた。

 脳や身体の問題を深く知っているからこそ、専門職としてできることがある。
 ただし課題は山積みだ。私たちは後進を育てなければならない。しかし一度社会人として働いた人が多いこの職種は、学費問題だけではなく、家庭環境や貧困問題など、国家資格を取るまでに実は様々な障壁を含んでいる。
 また、私たちは自分たちの世界で精一杯のことが多い。私たちは”武器”をもたずに丸腰で大学を卒業した後、それ以上に限られた武器しか身につかない環境で国家資格を取得するからだ。国家試験までには教科書にある内容を叩き込むだけで、実際に試験に通れば更新もなく、安泰である。リハビリテーションなどといいう言葉を掲げてはいるが、それ以外のことに触れる必要がなく、またその機会も持とうともしないことがほとんどの、変化を恐れるとても小さな世界だ。

 『シン・ニホン』を読んだ今では、私自身にこの先どんな未来にしたいのかのイメージが湧いてきている。
 まだ具体的な形も、とてつもなく大きな一歩も思いつかないが、私のできることを丁寧に寄せて形を作りたい。
 それは何も、どこに勤めているかで変わるものではないということにも気付いた。

 きっと今でも、自分には何ができるのか、私たちの未来はどうなるのか、ただ漠然と不安に思っている人はたくさんいるのだろう。言語聴覚士に限らず、様々な立場の人が、私がほんの数ヶ月前にそうだったように。
 今の私にはこの資格と武器を持ち、迎えにいきたい未来がたしかにある。
 まずはページをめくろう。このダンジョン脱出の主人公は外でもない、自分自身であるという気付きを得るだけで、本当にたくさんの物語が鮮やかにひらいていくのだ。

 とたんに、”私なりの心のベクトル”は経験値を増し、将来が楽しみになってきた。
 夏休み前日の、暑い午後のような感覚で。


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