安らかに眠れますように

 あなたの寝顔を一目見て、いってきますも告げずに玄関をくぐった。そういう約束だった。

 私と貴方は、言葉を交わさずにして一夜を共にする。インスタにはのらない、割り切った共存関係だった。


 何か、得体のしれないものを胸の内に飼っている。じんわりと暖かかったり、じんじんと冷たかったりする。私が「それ」を飼っているというか、私がそれに飼われているのだと思うときもある。ポンプとシャワーヘッドのように、「それ」を核にして脳とか目口鼻とか余計な重りをぶら下げているのだ。誰かから見られているのはシャワーヘッドだけ。

 そう考えると、少し楽になる。通勤列車に押し込まれる私でも、私の中の私のことだけを守ればいいのだから。


 けれど、通勤列車に押し込まれ、会社に流され、デスクへ拘束され、飯を食道に注ぎ込まれ、受話器に言葉を奪われ、顧客に表情を奪われ、通勤列車に押し込まれ、家に閉じ込められ、自発的に身を投げたくもなる毎日があった。


 私は、私以外の誰かと飼い飼われたかったのだろうか。恋愛小説の恋と愛と人間たちを信じられなくなり、ありきたりな言葉には期待できなくなった。

 もう忘れてしまった些細なきっかけで、あなたと出会い、あなたとの夜に居場所を求めていた。


 シングルベッドに二人で眠る。毎晩更新で不文律の約束は、あなたか私がたった一晩現れないことで呆気なく終わるだろう。少し寂しいが、それでいいのだと思う。


 震えるふりをしてみた。あなたが少し心配する。あなたの腕の中でやがて凍えを解くことで、あなたはすごく嬉しくなる。こうして私も満たされる。

 このイベントの発生頻度は一ヶ月に一回くらいだと決めていた。多すぎると嫌われ、少ないと飽きられる。


 そんな毎日を私は過ごしている。

 

 また、ただいまも告げずに玄関をくぐる。

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